水戸市立図書館/デジタルアーカイブ

水戸の町名

改訂 水戸の町名 地理と歴史

[上市(うわいち)の部]

栄町一・二丁目(住居表示による新町名)


栄町一・二丁目(住居表示による新町名)

栄町(さかえちょう)(一・二・三丁目)
 栄町(一・二・三丁目)は、北は馬口労町、東は下金町・並松町・信願寺町、南は向井町、西は北町・楓小路・松小路・常磐小路・桜小路・梅小路に隣接していた。
 この町は、昭和九年五月二十日に、栄町一丁目が向井町の一部から、栄町二丁目・三丁目が馬口労町(片町)の一部からそれぞれ町名改称して新設された町である。
 この地は、外堀を前にした片側町であり、堀の一部は大正末頃まで後の栄町二丁目の裏に残っていた。また、寛文の頃までは、後に栄町二丁目となった所は塩町あるいは塙町と呼ばれ、栄町三丁目となった所は材木屋が多く並んでいたことから材木町とも呼ばれていた。
 また「上市回顧録」によると、藩政時代には、栄町と松小路が接するあたりに稗倉(ひえぐら)があったので、その辺を俗にお稗倉と呼んでいたという。
 明治二十六年には、馬口労町(片町)に普通教育の慈恵市西学校が創立されている。

明治42年の馬口労町(片町)

 現在、通称栄町通りと言われている県道上水戸停車場・千波湖線は、もとは藩政時代から外堀に沿ったかぎの手の道路となっていた。それを戦後の戦災復興事業で改修したもので、昭和二十九年に着工し、同三十三年に延長八一〇メートル、幅二〇メートルの直線の道路が完成した。これによって、この辺の景観は一変して商店街となり、特に昭和三十八年一月からの路線バスの運行により、栄町は大工町商店街と馬口労町商店街を連続させる商店街として発展して来た。

旧栄町通り(点線)

 栄町(一・二・三丁目)は、栄町通りの東側は昭和四十二年六月に栄町一丁目(住居表示による新町名)、栄町二丁目(同)、大工町一丁目となり、西側は昭和四十三年五月に栄町一丁目(同)、栄町二丁目(同)、大工町二丁目となった。
並松町(なみまつちょう)
 並松町は外堀の東側にあって、北は下金町、東は長町・撞木町、南は信願寺町、西は栄町一丁目・栄町二丁目・栄町三丁目に隣接していた。
 この地には寛文年間まで水戸藩重臣の宇都宮氏の屋敷と光台寺(浄土宗)があり、そのため古くは光台町(こうだいまち)と呼ばれていた。元禄年間以前に光台寺は谷中へ移され、その跡は武家屋敷となり、その後並松町と呼ばれるようになった。それは慶長・元和の頃から、向町(後の向井町)よりこの地に通ずる道路に松が植えられ松並木になっていたからだという。
 また寛文年間の頃までは、並松町付近に与力を集めて住まわせたので、このあたりを与力町と称したこともあったが、元禄三年(一六九〇)の令で並松町に改称された。しかし文政七年や安政年間の城下図を見ると、五間(軒)町(後の長町)、並松町の南に与力町と見える。
 寛政年間には、この町に一二軒の武家屋敷があった。
 なお天保十四年(一八四三)には、五間(軒)町の一部と袋四町目が並松町に編入されている。

天保期の並松町,与力町

 明治六年には第二大区第一小区に、同八年には第一大区第一小区に、同十五年には信願寺町連合村に、同十七年には上市連合村に、同二十二年には水戸市並松町となった。
 昭和四年にはこの町に井戸の数が四三あった。
 並松町は、昭和四十二年六月に栄町一丁目(住居表示による新町名)、栄町二丁目(同)となっており、この地には県営アパート、並松町児童公園などがある。