水戸市立図書館/デジタルアーカイブ

水戸の町名

改訂 水戸の町名 地理と歴史

[上市(うわいち)の部]

泉町一丁目


泉町一丁目

泉町(いずみちょう)
 泉町は、東は鉄砲町・幸町、南は備前町・新鳥見町・鳥見町、西は大工町、北は裡信願寺町・藤坂町・荒木町・五軒町・裡五軒町・鉄砲町に隣接していた。
 泉町は佐竹氏の時代には無く、慶長のころに開かれた商人町で、元和七年(一六二一)から同九年にかけて、この地に大町・仲町から多くの商人が移されている。
 この町の名称は新しく開けたことから、初め新町(あらまち)(寛永のころには荒町とも書かれた)と呼ばれたが、後に鉄砲町を新町(あらまち)と呼ぶようになり、寛文元年(一六六一)には、本の字を加えて、本新町(もとあらまち)(本荒町)と呼ぶようになった。その後火災がしばしばあったことから、享保元年(一七一六)に防火の願いを込めて水に縁のある泉町に改めたという。
 この町の東の木戸から四つ辻までの半町ほどには、肴を取り扱う問屋があったので肴町(さかなまち)と呼ばれ、西方にあっては明暦年間に上金町・下金町と共に穀市が立てられたので、穀町(こくまち)とも呼ばれた。享保のころは、一丁目の方を上宿(かみじゅく)と呼び、穀町の方を下宿(しもじゅく)とも呼んでいた。
 天保年間の「水戸上下御町丁数調書」によると、町の東側は二〇間で、西側は東側より広く三四間あり、南側・北側の町幅は、泉町一丁目では南側が八〇間、北側が七五間、同二丁目では南側が七六間、北側が七五間、同三丁目では南側が五七間、北側が五七間、泉町穀町では南側が五八間、北側が五六間、泉町片町では三四間余で、町全体の戸数は、一一五戸あった。

天保期の泉町

 この地にも寺院はあったが、泉蔵院(せんぞういん)は寛永十三年(一六三六)向町(後の向井町)に移り、南町より移されて来た福蔵院(ふくぞういん)・円雲寺(えんうんじ)・若宮坊(わかみやぼう)などは、寛文六年(一六六六)に破却され、清実院(せいじついん)・常実院(じょうじついん)などもいつしか破却された。
 宝永二年(一七〇五)、それまでの城下の宿屋だけでは応じられない状況になり、上町ではこの泉町に宿屋が建てられた。同四年には、商業の発展にともなって上町にも六斎市が立つようになり、この町では二十六日と晦日に市が立った。
 泉町には水戸で知られるような商家が多くあり、商業活動を盛んにした。初代藩主頼房のお供で来住して以来代々の菓子商高砂屋、安永の初めころ江戸から移って来て江戸風の料理店を開いて繁盛した仲右衛門、安永・天明年間に近江国から来て亀甲細工業をした高橋清兵衛、幸町の湧水を利用して酒を造った金銘酒の商家などがあった。一般に酒屋は特定の町には集まらなかったが、この町にあっては、寛文四年(一六六四)には、本酒屋が一一軒もあり、同一町内では他の業種数に比べ多い方であった。更には、豪商として手広く商いをした薬種商の加納与衛門、呉服商の伊勢屋甚助などの商家も出現した。太田屋加納家は、城下第一の薬種商であったばかりでなく、藩の御用達も勤め米穀類・家屋屋敷・田畑山林の売買、青柳での渡船業などを行ない、また金融活動においても著しく、藩の流通経済面を支える立場にあった。
 市内の八〇%以上を昭和二十年の戦災で焼失した水戸では、旧家・商家の史料は殆ど残っていないが、この加納家では、土蔵一つが焼け残り、この中に保管されていた同家の御用留・大福帳・商取引証文など一三〇〇点以上の史料と当時の豪商の生活をしのぶ装飾品・生活用品などが数多くあり、水戸の町の歴史を研究する上で貴重な存在となっている。
 延宝七年(一六七九)には、この泉町に操り人形芝居大薩摩座の常設芝居小屋が設置され、その後、安永八年(一七七九)ころから歌舞伎の常設芝居小屋となり、天明元年(一七八一)に江戸の歌舞伎役者が上演した時には、日々の見物人は千四、五百人にもなったとの記録もある。
 この町の町役人は、名主は泉町・大工町・餌指町(後の幸町)のうちから一人選ばれたが、組頭はこの町で五人、そのほか配符役、伝馬役などが置かれていた。
 明治十九年十二月の上市大火は、泉町四丁目と裡信願寺町の間の所から出火し、西の強風も手伝って、東へと延焼し、泉町から県庁の土手までの上市の大半を焼き尽くした。「上市回顧録」によると焼失戸数は約一千戸にも及び、死者が十余人もあったという。
 明治六年には第二大区第三小区に、同八年には第一大区第一小区に、同十五年には鷹匠町連合村に、同十七年には上市連合村に、同二十二年には水戸市泉町となった。

明治22年ごろの泉町通り(市制80年写真集水戸より)

 大正十五年にはこの町に井戸の数が九三、昭和四年には一一〇あった。
 泉町は、昭和四十二年六月に泉町一丁目、泉町二丁目、泉町三丁目、大工町一丁目となり、現在、この地には二つの百貨店をはじめとして多くの商店・事業所・金融機関などが集中し、今もなお水戸の商業の中核的地区である。

大正10年ごろの泉町広小路(瓜連町、斎藤巌氏所蔵)


昭和9年の泉町通り(毎日新聞社水戸支局所蔵)


現在の泉町通り(泉町2丁目)