水戸市立図書館/デジタルアーカイブ

水戸の町名

改訂 水戸の町名 地理と歴史

[上市(うわいち)の部]

北見町


北見町

田見小路(たみこうじ)
 田見小路に隣接する町は、東が北三ノ丸、西が鉄砲町、南が大町、北が霞町となっていた。
 文禄元年(一五九二)、佐竹義宣が太田から八幡宮を移したことにより、この地は八幡小路と称されていた。その後、寛永二年(一六二五)以後に開かれて武家屋敷となり、道路を除いて東西一四六間を七屋敷に割り、奥行は東で三〇間、西で二六間であった。
 元禄七年(一六九四)、この八幡宮は那珂西村(常北町)に移され、その跡は矢場・馬場・武家屋敷とされた。ここでは、下町の馬場と共に馬術の稽古が行なわれ、毎年正月二十一日には下町の馬場と交替で藩主・藩士の馬を集めて訓練したという。ちなみに水馬は那珂川で行なわれ、城下の人々が見学し技能を称えたという。
 藩主光圀をはじめ水戸の学者に多くの影響を与えた明の朱舜水は、天和二年(一六八二)四月に没し、一時は江戸駒込邸内に祠堂を建てて祀られていたが、祠堂は、正徳二年(一七一二)三月この八幡小路に移された。祠堂のあったところは、奥行五一間三尺、その西は奥行六一間四尺であった。その後は城中に祀られた。
 五代藩主宗翰(むねもと)の宝暦九年(一七五九)には、この地に藩主の別館「貴楽亭(きらくてい)」が建てられた。その後、宝暦十一年一月「貴楽亭」を「田見御殿」と改めた時に、八幡小路も田見小路と改められた。田見は台地上より低地の水田が眺められたことに起因したといわれる。
 田見小路には、もと八幡宮の西に番所があり、寛政十一年(一七九九)の代官制廃止の際に、郡奉行所の役人の詰所として田見小路役所が建てられた。
 寛政九年には、ここに二〇軒の武家屋敷があった。

安政期の田見小路

 明治六年には第一大区第一小区に、同八年も第一大区第一小区に、同十五年には田見小路連合村に、同十七年には上市連合村に、同二十二年には水戸市田見小路となった。
 大正十五年には、この町に井戸の数が一八、昭和四年には二一あった。
 田見小路は、昭和四十一年四月に北見町、大町一丁目、大町二丁目、大町三丁目となっており、この地には、市立図書館、市立博物館がある。