水戸市立図書館/デジタルアーカイブ

水戸の町名

改訂 水戸の町名 地理と歴史

[上市(うわいち)の部]

三の丸二丁目


三の丸二丁目

北三ノ丸(きたさんのまる)
 この地の東端には、水戸城があり、古くは大掾馬場氏、続いて江戸氏、その後佐竹氏が居城した。後に徳川家康は佐竹氏を秋田に国替えし、子の武田信吉、同じく徳川頼宣(後の紀州初代藩主)、更に慶長十四年(一六〇九)には第十一子徳川頼房(七歳)を城主とした。その後寛永二年(一六二五)二ノ丸を本城として以来二六〇年間、徳川御三家の居城として栄えた。そのシンボルである水戸城は、明治五年の火災と、昭和二十年の戦災によって焼失した。
 三ノ丸は、東の堀を隔てて二ノ丸に接し、西側には奈良屋町から田見小路の東に続く堀で仕切られた台地上にあり、東西に走る二本の道路によって、北三ノ丸・中三ノ丸・南三ノ丸の三つに区画されていた。
 北三ノ丸は、東西一四六間一尺二寸、南北は短い部分で四二間、長い所で五九間で、不規則な形に割られていた。最も重要な地であるところから、寛文年間には中山備前守(二万石)、松平権之助(三千石)、真木隼人(三千石)ら重臣の屋敷があった。武家屋敷の配置について、寛文、元禄、天保の城下図により比較して見ると、ほとんど変化はみられない。寛政九年(一七九七)には、北三ノ丸に六軒、中三ノ丸に七軒の武家屋敷がかぞえられる。
 しかし、延宝九年(一六八一)一月の穂坂八郎左衛門の邸から出火した火災で、武家屋敷数軒が焼失してしまった。更に安永五年(一七七六)十二月にも、大町からの出火によって延焼し被害を受けた。
 この地には、鹿島郡で開基されたと伝えられる和光院(わこういん)(真言宗)が、大永二年(一五二二)に移って来て、天正十八年(一五九〇)の江戸氏没落時に兵火に罹り後に田島村(内原町)に移るまであった。また、佐竹氏在城の時には、長壽院(ちょうじゅいん)・龍蔵院(りゅうぞういん)などの寺院が建立されたが、後にこれらは藩の政策によって寺町に集められた。

天保期の北三ノ丸

 中三ノ丸は、はじめは鳥居瀬兵衛脇の町と称していたが、元禄三年(一六九〇)に改称されたもので、東側は南北一四六間半、東西八五間で、ここは八屋敷に割られ、西側は東西四五間で、南北は東側にほぼ等しく、西部の堀を背にして五屋敷に割られ、寛文年間には、松平一学(三千石)、松平八左衛門(二千石)、太田主水(五千石)らの重臣が居住していた。
 その後、天保十二年(一八四一)に九代藩主斉昭が、藩士の子弟の教育施設として弘道館を造営するために、この地にあった重臣の屋敷を他へ移したので中三ノ丸の名称はなくなってしまい、以後この地は北三ノ丸に入った。
 当時の弘道館は、現在残っている敷地と、更に茨城県庁・市立三の丸小学校の敷地をも占める広さで、約一七万八〇〇〇平方メートルもあったが、現在は三万四〇〇〇平方メートルと約五分の一になっている。本館(正庁)のほかに兵学・歌学・音楽など諸礼の建物や武館・医学館・天文台・馬場・調練場などもあったが、明治元年の天狗・諸生両党の弘道館の戦いと昭和二十年の戦災で本館以外は焼失した。孔子廟・八卦堂・鹿島神社などは再建され、昭和二十七年には国指定特別史跡となった。
 明治六年には第一大区第一小区に、同八年も第一大区第一小区に、同十五年には田見小路連合村に、同十七年には上市連合村に、同二十二年には水戸市北三ノ丸となった。
 昭和四年には、この町に井戸の数が三三あった。
 北三ノ丸に隣接する町は、東が柵町・川岸通・三光町、西が元白銀町・田見小路、南が南三ノ丸・大手町・柵町三丁目・柵町四丁目・柵町五丁目・柵町六丁目、北が霞町であった。
 北三ノ丸は、昭和四十一年四月に水郡線の西側が三の丸一丁目、三の丸二丁目、北見町、大町一丁目となり、水郡線の東側は昭和四十五年五月に三の丸三丁目となった。
 この地には、茨城県庁をはじめとして茨城県議会議事堂、茨城県警察本部など県政の中心が、また県立図書館、水戸税務署、茨城行政監察局、茨城労働基準局、茨城食糧事務所、関東財務局水戸財務部、水戸地方法務局、水戸地方検察庁、水戸地方公安調査局、茨城県水戸土地改良事務所、自衛隊茨城地方連絡部、建設省常陸工事事務所水戸出張所、更には市立三の丸小学校、教育研究所、茨城大学附属小学校、市立第二中学校、県立水戸第一高等学校、県立水戸第三高等学校、茨城新聞社、茨城放送などもあり、本県における政治、文教の中心地区になっている。

明治42年の茨城県庁付近