水戸市立図書館/デジタルアーカイブ

水戸の町名

改訂 水戸の町名 地理と歴史

[上市(うわいち)の部]

宮町三丁目


宮町三丁目

黒羽根町(くろばねちょう)
 黒羽根町(以前は黒羽町とも記された)は、確かな史料は見当たらないが、那珂川水運の関係から下野国黒羽(栃木県黒羽町)からの移住者が多かったので名付けられたといわれている。
 黒羽根町は東が奈良屋町、西が裡南町・藤沢小路、南が梅香、北が南町に隣接していた。
 この地は、寛永二年(一六二五)以後に武家屋敷となったもので、武家屋敷は南北四〇間の長さで道路を挾んであったが、元禄九年(一六九六)一月に新木町(後の下金町)からの出火によって延焼している。
 その後寛政九年(一七九七)には、一三軒の武家屋敷がかぞえられる。
 慶安四年(一六五一)六月、上町の奈良屋町片町から下町の根積町へ、千波湖の中の北東部に柳堤が築かれたが、その土石は梅香から黒羽根町にかけての崖を切り崩して運んだものである。
 明治六年には第一大区第一小区に、同八年も第一大区第一小区に、同十五年には宮下連合村に、同十七年には上市連合村に、同二十二年には水戸市黒羽根町となった。
 大正十五年には、この町に井戸の数が二四、昭和四年には二七あった。
 黒羽根町は、昭和四十一年四月に南町一丁目、南町二丁目、宮町三丁目、梅香一丁目となっており、この地には、水戸鉄道病院や水戸協同病院、新いばらきタイムス社、市営宮町駐車場などがある。
奈良屋町(ならやちょう)
 奈良屋町は、下谷(したや)(以前は奈良屋町両町と奈良屋町片町を合わせて奈良屋町といい、下谷ともいった)と和正院(わしょういん)町が一緒になって出来た町である。
 町名の由来については、奈良屋という商人の開いた町だとか、あるいは奈良物商があったために付けられたとかいろいろの説があるが、いずれとも断定は出来ない。
 奈良屋町両町(黒羽根町の南端より東に下るところ)は町屋敷で南側六七間、北側は七六間余あり、奈良屋町片町(両町を下りつめて南に走り千波湖畔に至るところ)は一七七間余であった。天保年間の「水戸上下御町丁数調書」では、奈良屋町両町は間数が南側六七間余、北側七三間余で、家数は二五軒、奈良屋町片町は間数が一七七間余で、家数は二四軒となっている。藩政時代は、この両町と片町を合わせて奈良屋町と呼んでいた。

天保期の黒羽根町,奈良屋町

 この地には、寛永二十年(一六四三)に常福院(じょうふくいん)(真言宗)が開基されたが、寛文六年(一六六六)には破却されている。
 安永三年(一七七四)に、奈良屋町両町の南側にあった藤田屋で藤田一正(幽谷)が誕生した。一正は、立原翠軒に学び、十五歳で彰考館に入り、後に彰考館総裁にもなり、私塾青藍舎(せいらんしゃ)を開き、子の東湖をはじめ多くの門人を育てた。
 その幽谷の教えを受けた一人で、後に彰考館総裁や弘道館教授などを歴任し、「新論」などを著して水戸学の理論的指導者となった会沢安(やすし)(正志斎)も天明二年(一七八二)にこの地に生まれている。
 寛政十二年(一八〇〇)、奈良屋町と下町の七軒町の者が願い出て、五月から七月まで千波湖での夜船が御免となり、両所の船宿から船を雇って出すことが許された。そのため湖上を遊覧する客が多くなり、下谷河岸(奈良屋町)には楊弓の遊び場や、茶屋などの休憩所が出来た。吉田神社の祭礼の時などは、ここから船を仕立てて漕ぎ出し、船中飲めや歌えと興をほしいままに楽しみながら、湖上を渡って吉田山の下に行ったという。
 また町年寄大高織衛門は、安政四年(一八五七)十月の日記に、
 下町へ生人形、夜芝居、女新内、本八町目に角力、上町は奈良屋町講釈、泉町女義太夫、馬口労町説教、下金町浮世噺
と記しており、水戸の町のどこかには必ず寄席が開かれ、奈良屋町でも定期的に開かれていたことがうかがえる。
 和正院町は、黒羽根町の東に当たり、奈良屋町片町の北より起こって、南町に接する片側町で、町名の起こりは、大町よりこの地に移った修験和正院の存在からである。
 慶安四年(一六五一)六月、上町と下町との通路を便利にするため、千波湖の中に土堤が築かれた。これは柳堤(やなぎづつみ)あるいは新道(しんどう)と呼ばれ、奈良屋町片町から下町の根積町に通じ、長さは一八町あった。この堤を築くのに用いた土石は、梅香から黒羽根町にかけての崖を切り崩して運んだもので、その土石を取った跡に町家が建ち、和正院町となった。

柳堤(常磐公園攬勝図誌より)

 この町の北端から奈良屋町千波湖岸に至るまでは五町四二間七寸で、天保年間の「水戸上下御町丁数調書」によると、間数は一五四間で、家数は二七軒とある。
 和正院町、奈良屋町、宮下の三町のうちから、町人の代表としての名主一人が選ばれていた。
 明治六年には第一大区第一小区に、同八年も第一大区第一小区に、同十五年には宮下連合村に、同十七年には上市連合村に、同二十二年には水戸市奈良屋町となった。
 大正七年三月二十五日に汽車の飛火で奈良屋町から起こった火災は、折からの強風にあおられ、黒羽根町、南町、仲町に広がり、さらに大町、田見小路まで焼き尽し、罹災戸数は四九六戸にものぼった。
 昭和四年には、この町に井戸の数が六五あった。
 奈良屋町に隣接する町は、東が南三ノ丸・宮下、南が水戸市(駅南)、西が黒羽根町、北が南町となっていた。
 奈良屋町は、旧国道六号の北側は昭和四十一年四月に宮町二丁目、宮町三丁目、南町一丁目となり、水戸駅構内にあたる所は昭和四十五年五月に宮町一丁目となり、常磐線の南側にあたる所は昭和五十一年二月に桜川一丁目となった。

明治42年の新道