酒田市立図書館/光丘文庫デジタルアーカイブ

解説文

その他

渡津丸

(ワダツマル)



度津丸 写真

時期:明治
作成年:明治
所蔵:酒田市立光丘文庫

度津丸(わだつまる)は明治19年(1886)に運航を開始した酒田-新潟間の定期船。大正6年(1917)に酒田に来た若山牧水は度津丸に乗って新潟にむかった。その後鉄道開通により、酒田-新潟間の定期航路は大正9年(1920)廃止となる。写真は『市勢要覧“さかた”73年版』より。

 


 

相馬屋事件

(ソウマヤジケン)



相馬屋大広間 写真

時期:明治
所蔵:酒田市立光丘文庫

明治26年(1893)1月28日夕刻から午後8時まで相馬屋二階新座敷で、京都宮風と銘うった新年の宴会が催された。出席者は保守系政治家・大地主・回船問屋・米商達などの酒田を代表する名士14人であった。参加者は天皇、大臣参議などにふんし衣装も京都から新調した衣冠束帯を着用、芸娼妓らも白綸子に緋の長袴といういでたちで宮中さながらの宴会であった。この宴会が革新系、自由党の機関紙「荘内新報」の記者の耳に入り、2月1日の同紙に「空前絶後の一大奇獄、不敬事件」として大きく載った。酒田警察暑では内偵のうえ2月5日、14人を一斉に検挙し、投獄のうえ11名は7日から9日まで、3名は7日から13日まで、極寒の許、厳しい取調べを行った。結局、裁判では無罪になったものの事件柄、戦前まで酒田ではそれについて語ることはタブーとされていた。写真は新年会が行われた相馬屋の大広間。

 


 

酒田奉公義会

(サカタホウコウギカイ)



酒田奉公義会

時期:明治
作成年:明治39年6月16日
所蔵:酒田市立光丘文庫

明治37年(1904)2月日露戦争に従軍する兵士の留守家族を支援するために酒田奉公義会が結成された。留守家族の状況に応じて生活支援や就労の手助け、出征兵士の壮行会などを行った。同38年(1905)9月に日露戦争が終結すると翌年6月20日にその役割を終えたとして解散するが、その戦没者の家族などに対する就業支援と教育保護活動は酒田共励会が引き継いだ。この写真は解散する直前に撮影したものである。(参考文献 酒田市史編纂委員会編『酒田市史改訂版下巻』)

 


 

庚申塔

(コウシントウ)



庚申塔

時期:明治

庚申信仰の源流は不老長生を願う中国の道教である。考子の『三尸教』(さんしきょう)によると庚申の夜に、北極星の主・北帝は、おおいなる神秘の国の高い宮殿において、あらゆる罪料の門を聞き、すべての精霊から請願を受ける、とされる。一方、人間の体内中には青い老人、白姑と呼ばれる白い姫君、血尸(けっし)という血まみれの屍という三尸(さんし)の虫がいる。三尸の虫は人間が死ぬことによってしか体中から出ることができず、体内を牢獄と心得ているので、一日も早く死んでもらいたくてしょうがない。そのため庚申の夜には宿っている人間の罪科を最大もらさず、つぶさに北帝に報告するという。北帝は罪の軽重によって寿命を縮めるというから恐ろしいことこのうえないことである。そこで人間は三尸の虫が、その家のカマドから煙突を通って天に昇ってゆくことを知り、まずカマドにアメを塗って防いだ。次には、人が眠ると腹の中から鼻の穴を通って出ることを知り、眠らないようにした、これが庚申待である。どうしても一人では眠くなるので、数人が集まって夜が明けるのを待ったのが庚申講の始まりである。庚申塔は全国に散在し、また、庄内地域にも多く存在する。写真は下日枝神社の庚申塔。(参考文献 『続酒田ききあるき』田村寛三)

 


 

三居稲荷

(サンキョイナリ)



三居稲荷 写真

時期:明治
所蔵:個人蔵

明治27年(1894)7月8日山居の三居稲荷の遷座式を行う。以前からその地にあった稲荷神社と、庄内藩江戸藩邸にあった太郎稲荷・禎祥稲荷を合祀し、三居稲荷と称して新たに社殿を造営し、山居倉庫の守護とした。写真には川が流れているが後に埋め立てられ、現在では道路になっている。(参考文献 酒田米穀取引所 『株式会社酒田米穀取引所附属山居倉庫写真帖』)

 


 

酒田に電灯がつく

(サカタニデントウガツク)



酒田電気開業記念〔絵葉書〕

時期:明治
作成年:明治42年
所蔵:個人蔵

明治41年(1908)11月3日酒田にはじめて電灯がつく。翌年7月4日に行われた祝賀会では会場の瞰海楼(かんかいろう、旧小幡)の門前に建てた大緑門に電灯を飾り、中町秋田町等にもイルミネーションを付けたという。(参考文献 酒田町役場『酒田町営電気事業誌』より)

 


 

第17水雷艇寄港

(ダイジュウナナスイライテイキコウ)



第17水雷艇 写真

時期:明治
作成年:明治42年
所蔵:個人蔵

明治42年(1909)4月19日海軍の水雷艇が酒田に寄港し市民の歓迎を受ける。(参考文献 酒田市史編纂委員会編『酒田市史年表改訂版』)

 


 

第二うめが香丸

(ダイニウメガカマル)



第二うめが香丸 写真

時期:明治
作成年:明治42年
所蔵:個人蔵

明治42年(1909)8月7日義勇艦第二うめが香丸が酒田港に寄港する。当時の酒田港は大型の軍艦は港内に入ることができなかったので、小舟で軍人が上陸したり、町民が見物に出かけたりした。義勇艦とは平時は商船として有事の際には補助巡洋艦として使用できる船舶のことで、帝国海軍協会が国民から義勇金を募集して建造された。第二うめが香丸はその義勇艦隊建造計画によって建造された第二船目の船舶で、明治42年(1909)7月6日に竣工。鉄道省の関釜連絡や青函航路の客船として使用されていた。大正元年(1912)9月22日に門司大里沖にて荒天のため浸水し、沈没した。(参考文献 酒田市史編纂委員会編『目でみる酒田市史』)

 


 

秋田町

(アキタマチ)



秋田町 写真

時期:明治
所蔵:個人蔵

秋田町は酒田から秋田へ行く秋田街道ぞいの町。伝馬町とならんで古くから旅館と小売商店の多い町であった。「書林」の看板は青山堂書店。

 


 

長坂

(ナガサカ)



長坂 写真

時期:明治
所蔵:個人蔵

現在の酒田市光ヶ丘はこの頃長坂と呼ばれていた。大正4年(1915)刊行の『荘内案内記』には長坂松林のことを「漫歩に宜(よろし)く納涼によし」と紹介しており、当時から人々に親しまれていた様子がわかる。

 


 

酒田木材株式会社

(サカタモクザイカブシキカイシャ)



酒田木材株式会社 写真

時期:明治後期
所蔵:個人蔵

明治39年(1906)10月酒田木材株式会社が創業する。同年に創業した酒田製材合名会社とともに酒田製材業の中心となって発展していく。明治39年酒田港からの木材移出額は146,694円で主に東京や小倉に移出していたが、同42年(1909)には398,800円と拡大していった。(参考文献 酒田商業会議所『明治39年酒田商業統計』 酒田築港期成同盟会『酒田築港調査資料』)

 


 

柳小路

(ヤナギコウジ)



柳小路 写真

時期:明治末期
作成年:明治末期
所蔵:個人蔵

柳小路は明暦の絵図では地蔵院小路と記されている。宝暦10年(1760)火災予防のために道幅を広げ、堀や土手をつくり、後に柳を植えた。そのため広小路とも柳小路とも呼ばれた。写真の右手にみえる建物は、現在のNTT東日本酒田支店の場所にあった酒田警察署で、利右衛門小路側(現在の港橋側)から中町方面をみたもの。左側奥の二階建ての建物は郵便局である。(参考文献 酒田市史編纂委員会編『酒田市史改訂版別巻』)

 


 

明治教育創施之処

(メイジキョウイクソウシノトコロ)


明治2年(1869)3月23日、学校設立に関して以下のような太政官布告が発せられた。「庠序の教え備張らず候ては、政教行はれ難く候につき、今般諸道府県において、小学校設けられ、人民教育の道あまねく御施行在らせられたき思し召し候間、東北府県速やかに学校を設け、御趣意貫徹候様、尽力致すべき旨、仰せ出され候事」。これに基づき酒田民政局長官であった西岡周碩(ニシオカシュウセキ 1838~1912)が明治2年(1869)6月22日、天正寺境内に学而館(がくしかん)を創立した。句読師(教員)には吉泉晋太郎・宮田角右衛門・森藤右衛門・西野長兵衛などが名を連ねている。諸生80数名が学而館の門をくぐった。西岡が酒田を去ると学而館の熱意は失われ明治3年(1870)10月4日には廃校となった。学而館は西岡周碩の教育的熱意で運営されていたのであった。天正寺境内には学而館発祥の地として「明治教育創施之処」の碑(大正12年(1923)12月建立)が建っている。