酒田市立図書館/光丘文庫デジタルアーカイブ

解説文

建造物

酒田町立甲種商業学校

(サカタチョウリツコウシュショウギョウガッコウ)



酒田町立甲種商業学校 写真

時期:大正
作成年:昭和8年
所蔵:1酒田市立光丘文庫 2個人蔵

大正6年(1917)4月に甲種商業学校としての認可を受けた酒田町立甲種商業学校は、本間家より校舎新築費として金1万円と片町(現上本町)の本間家倉庫跡地が寄付され、大正4年(1915)8月以降校舎としていた旧第三尋常小学校校舎(現在の酒田幼稚園の場所)から同地に校舎を大正6年(1917)12月に移転新築した。明治40年の創立以来、初めての新築校舎であった。写真1は『昭和8年市制施行時酒田町写真集』より。2は絵葉書。

 


 

酒田税務署

(サカタゼイムショ)



酒田税務署 写真

時期:大正
作成年:昭和8年
所蔵:酒田市立光丘文庫

大正7年(1918)8月税務署が本町7丁目西南角7番地(元酒田信用金庫本店の場所)に移転する。写真は『昭和8年市制施行時酒田町写真集』より。

 


 

最上川改修事務所

(モガミガワカイシュウジムショ)



最上川改修事務所 写真

時期:大正
作成年:昭和8年
所蔵:酒田市立光丘文庫

最上川は幾度となく氾濫をおこし、周辺に大きな被害をもたらしてきたため、江戸時代にも何度か治水工事が行われていた。また、最上川河口の港は土砂の堆積がはげしく、最上川本流と港を分けることが課題となっていた。大正6年(1917)最上川改修工事が決定し、同8年(1919)に最上川改修事務所を鵜渡川原村山居に移転し、工事が着工した。この工事では最上川の本流を南側の宮野浦方向に流れるようにし、船場町沿岸には最上川とは堤防で分けられた港湾を造る計画であった。写真は『昭和8年市制施行時酒田町写真集』より。(参考文献 土岐田正勝 『最上川河口史』 酒田市史編纂委員会編 『酒田市史下巻』)

 


 

明治天皇行在所趾記念塔

(メイジテンノウアンザイショアトキネントウ)



明治天皇行在所趾記念塔 写真

時期:大正
所蔵:酒田市立光丘文庫

大正11年(1922)5月18日、明治天皇酒田行在所(あんざいしょ)記念塔除幕式が行われる。行在所の建物は明治16年(1883)3月5日の火災により焼失したことから、大正10年(1921)7月16日の町会の決議によりその跡に記念塔を建設したもの。台座は茨城県稲田町産の御影石で、設計及び鋳造は東京美術学校教授の津田信夫、所趾選者は東京帝国大学教授の黒板勝美、撰文は須田古龍、銘及び背記の筆者は本間光弥。総工費1万1,130円80銭。高さ31尺。大正10年7月18日起工、翌年5月17日竣工。昭和19年(1944)2月3日兵器生産のため、鳳凰を含む塔の大部分が金属供出されたことにより、現在は本町公園(現山形銀行酒田支店隣)の中に記念塔の台座のみが残されている。(参考文献 酒田市史編纂委員会編『酒田市史年表改訂版』、「酒田新聞」大正11年5月19日号)

 


 

酒田灯台

(サカタトウダイ)



酒田灯台 写真

時期:大正
所蔵:酒田市立光丘文庫

明治28年(1895)10月酒田灯台を宮野浦に置き、従来の常夜灯を廃止する。灯台は最上川河口左岸にあり、木造六角で白色。建築した大工の佐藤泰太郎(1861~1938)は、ほかにも山王くらぶ、相馬屋など酒田の著名建築物を手掛けた。灯台敷地の陥没により、建物が危険に瀕していることや高い位置の日和山にある電燈(50燭)のほうが、低地にある灯台よりも明るいことにより、日和山の電燈を灯台と勘違いし航路を誤るものがあること、宮野浦に位置することによる不便などの理由により長年に渡り移転を要請した結果、大正12年(1923)8月に河口右岸の大浜に移転し、10月16日から業務を開始する。わが国で2番目に古いといわれ、現在は日和山公園内に保存されている。(参考文献 酒田市史編纂委員会編『酒田市史年表改訂版』庄内人名辞典刊行会『新編庄内人名辞典』「酒田新聞」)【山形県指定文化財】

 


 

酒田小林区署

(サカタショウリンクショ)



酒田小林区署 写真

時期:大正
作成年:昭和8年
所蔵:酒田市立光丘文庫

大正12年(1923)酒田小林区署を出町角(現ノバハイツ日和山公園)に新築する。翌年酒田営林署と改称。写真は『昭和8年市制施行時酒田町写真集』より。

 


 

羽越線建設概要

(ウエツセンケンセツガイヨウ)



日向川橋梁 写真

時期:大正
作成年:大正13年
所蔵:酒田市立光丘文庫

『羽越線建設概要』は、大正4年(1915)6月に建設が認められた羽越線(秋田~村上間)が同13年(1924)7月31日に全線が開通するまでの9年間における建設工事の概要である。山形県内では余目~鼠ヶ関間と酒田~吹浦間の二ヶ所で工事が行われた。酒田~遊佐間の工事では日向川橋梁工事の際に材料運搬用仮橋が大水のため3度も流されるアクシデントもあったが、同8年(1919)12月に同区間の営業を開始した。同13年(1924)7月31日に秋田~村上間の全線が開通し、酒田町では8月2日に小幡楼で祝賀会が開催された。写真は日向川橋梁。

 


 

酒田報恩会託児所

(サカタホウオンカイタクジショ)



酒田報恩会託児所 写真

時期:大正
作成年:昭和8年
所蔵:酒田市立光丘文庫

大正11年(1922)10月に設立された財団法人酒田報恩会は、浮浪者の就業や生活困窮者などの救済のために活動していた酒田町慈善授産会と自彊舎(じきょうしゃ)が合併してできた組織である。報恩会託児所は同14年(1925)6月10日に開設。昭和3年(1928)と同6年(1931)に二階と屋内運動場を増改築した。写真は『昭和8年市制施行時酒田町写真集』より。(参考文献 社会福祉法人酒田報恩会『社団福祉法人酒田報恩会創立百周年記念誌』)

 


 

農林省酒田国立倉庫

(ノウリンショウサカタコクリツソウコ)



農林省酒田国立倉庫 写真

時期:大正
作成年:大正15年
所蔵:酒田市立光丘文庫

米価は大正3年(1914)にはいると前年までの高値から一転して大暴落となり、その後同6年(1917)から再び高騰し、翌年には富山県魚津町の女性たちが米の移出反対と米を安く売ることを求めて資産家や米屋に押し掛ける騒ぎとなった。これをきっかけに「米騒動」と呼ばれる動きが全国各地でおきる。同9年(1920)4月「米穀法」が公布され、米価安定の為政府が米の売買を直接行うことができるようになった。そこで買入米を貯蔵する倉庫が必要となり、同14年(1925)7月に着工。翌年5月に3棟、12月に3棟、全部で6棟の国立倉庫が完成した。(参考文献 酒田市史編纂委員会編 『酒田市史改訂版下巻』)

 


 

酒田駅

(サカタエキ)



酒田駅 写真

時期:大正
作成年:大正3年
所蔵:個人蔵

大正3年(1914)12月24日陸羽横断鉄道酒田線(陸羽西線)が開通し、酒田駅が落成する。大正6年(1917)の酒田駅乗車人員は11万8140人、降車人員11万2059人だったが、同15年(1926)には乗車人員67万938人、降車人員65万4480人と大幅に増加しており、鉄道が輸送と発展の要であったことがわかる。酒田線が開通した当時、酒田駅は西荒瀬村大字酒井新田にあり、昭和3年(1928)酒井新田の住民より酒田への合併願いが出されるが、その実現は同16年(1941)であった。この駅舎は昭和9年5月に新駅舎が完成するまで使用されたもの。(酒田市史編纂委員会編『酒田市史改訂版下巻』より)

 


 

酒田ホテル

(サカタホテル)



酒田ホテル 写真

時期:大正
所蔵:個人蔵

渡辺旅館は、もとは清川(現庄内町)にあり、特に新庄駅が開業した明治36年(1903)6月からは、庄内と内陸、仙台、東京間を往復する旅行者は、最上川を本合海から、1日2往復する酒田水運会社の汽船(両羽丸、最進丸)に乗って清川に上陸し、清川から人力車または徒歩で酒田や鶴岡に向かうため、交通の要衝に位置する旅館として大変繁盛していた。明治45年(1912)時点の人力車数も、渡辺旅館は28台を所有し、清川村では最多の旅館であった。しかし、大正3年(1914)6月14日に清川駅が開業し、客足が途絶えたことにより、酒田今町(現日吉町1丁目)に移転新築したもので、渡辺旅館の名のほかに「酒田ホテル」の名前でも知られており、戦前には酒田の代表的な旅館として、観光名所を紹介する数多くの市街図や絵葉書を発行している。なお、石原莞爾が昭和22年(1947)5月1日に酒田商工会議所で開かれた極東国際軍事裁判特別臨時法廷に出席のため、酒田で宿泊したのもこの旅館である。(参考文献 酒田市史編纂委員会編「酒田市史年表改訂版」 佐藤良次「荘内案内記」 立川町史編纂委員会「立川町の歴史と文化」)

 


 

飽海郡会議事堂

(アクミグンカイギジドウ)



飽海郡会議事堂 写真

時期:大正
作成年:大正4年
所蔵:個人蔵

郡会議事堂は明治19年(1886)に本町3丁目に建築された。当時は洋風二階建の建築物だった。この写真は大正4年(1915)に改築した議事堂。中央を議事所とし、階上と階下に傍聴席を設け、左右に参与員室、階下両側に控室を設置していた。後に1500名が収容できる公会堂として使用されたが、昭和20年(1945)7月17日の建物疎開により取り壊され、戦後は昭和37年(1962)に市民会館が建設されるまでテニスコートの敷地となっていた。(参考文献 酒田市史編纂委員会編『酒田市史改訂版下巻』)

 


 

臨港線最上川駅

(リンコウセンモガミガワエキ)



臨港線最上川駅 写真

時期:大正
作成年:大正4年
所蔵:個人蔵

大正4年(1915)4月、酒田駅から港に臨港線が敷設され、貨物専用の最上川駅(酒田港駅)が設置された。

 


 

今咲屋

(イマサキヤ)



今咲屋 写真

時期:大正
作成年:大正
所蔵:個人蔵

今咲屋旅館は今町(現小松屋本店南隣)にあり、もとは今清楼(こんせいろう)と称した料理屋で、後に旅館となる。女主人の咲江(1855~1926)は今町生まれ。藤間流の踊、山田流の琴を習う。大正4年(1915)花柳寿三郎の踊りを見てその新しさに魅せられ、彼を酒田へ招き花柳流を広める。酒田芸界の中心的存在であった。(参考文献 佐藤良次『荘内案内記』酒田市史編纂委員会編『酒田市史年表改訂版』)

 


 

酒田日本基督教会堂

(サカタニホンキリストキョウカイドウ)



酒田日本基督教会 写真

時期:大正
作成年:大正13年
所蔵:個人蔵

日本基督教団酒田教会は、明治31年(1898)6月15日、愛媛県出身の矢野猪三郎の伝道によって始まった。当初は教会の建物がなかったことから、民家などを借りて布教し、日曜学校や講演会などを開催していた。大正2年(1913)に今町に土地を求めて同4年(1915)に伝道所兼牧師館を建設。同13年(1924)春にはハーマン・ヘンリー・クック記念教会堂(日吉町1丁目の双葉幼稚園)が完成した。ハーマン・ヘンリー・クック(Herman Henry Cook 1878-1916)はオハイオ州ニューノックスビル生まれのドイツ系移民の子孫で、ドイツ改革派教会の宣教師として明治35年(1902)に妻のエマとともに来日し、仙台での教会勤務を経て、明治41年(1908)に山形・秋田の伝道担当宣教師として山形市に居住し、酒田を含めた県内全域での伝道活動を大正4年(1915)まで行った。絵葉書左上の肖像写真がその人。最後期にはオートバイで県内を移動して布教活動を行ったが、大正5年(1916)4月7日に東京で亡くなっている。なお、彼の孫にあたるアイリーン・ロドリゲス氏がこの教会を平成12年(2000)に訪れている。(参考文献 日本基督教団酒田教会『日本基督教団酒田教会創立八十八周年記念誌』酒田市史編纂委員会編『酒田市史改訂版下巻』Irene T. Rodriguez:”No Time To Rest, The Story of H. H. Cook, Missionary To Japan”)

 


 

山居倉庫東宮殿下行啓記念研究室

(サンキョソウコトウグウデンカギョウケイキネンケンキュウシツ)



山居倉庫東宮殿下行啓
記念研究室 写真

時期:大正
作成年:大正15年
所蔵:個人蔵

大正15年(1926)5月山居倉庫構内に東宮殿下行啓記念研究室を建設する。研究室は米に関する参考資料を蒐集するほか、生産に関する実地の研究施設として酒井家の後援により試作田を設置し、倉庫員にこれをあたらせた。(参考文献 酒田市史編纂委員会編 『酒田市史年表改訂版』)

 


 

小幡瞰海楼

(オバタカンカイロウ)



小幡瞰海楼 写真

時期:大正初期
作成年:大正初期
所蔵:個人蔵

瞰海楼小幡は、桜小路で明治9年(1876)に営業を始めた酒田を代表する料亭で、日和山の高台に立地していたことから、その名のとおり最上川や港が見渡せ、「眺望絶佳」を売り物としていた。板垣退助、西郷従道などの多くの著名人が宿泊したほか、明治14年(1881)9月の戸長選挙も小幡で行われている。明治27年(1894)の震災でも桜小路のほとんどが火災により焼失した中でも焼失を免れ、大正11年(1922)10月には洋館を建設し、東京の精養軒で修業したコックを迎えて本格的なフランス料理による洋食部を立ち上げている。この写真は洋館建設前の大正初期の小幡楼正面の様子。現在洋館のある場所には和館があったことがわかる。

 


 

斎藤裁縫塾

(サイトウサイホウジュク)



斎藤裁縫塾塾生募集広告

時期:大正 昭和
作成年:昭和8年5月1日
所蔵:酒田市立光丘文庫

斎藤裁縫塾は、大正12年(1923)斎藤又治と辰夫妻が女子の裁縫技能の向上の為に創立した。当初は淨徳寺内で教えていたが、翌年9月酒田駅前の飽海郡耕地整理組合事務所内の一部を借りて移転する。昭和2年(1927)1月15日斎藤裁縫塾は私立酒田裁縫女学校と改称。この年の生徒数は127名。翌年校舎があった飽海郡耕地整理組合事務所の敷地の一部を借り受けて新校舎が建築される。旧天真高等学校、現在の酒田南高等学校の前身である。写真は、斎藤裁縫塾の移転記念写真と私立酒田裁縫女学校校舎、塾生募集広告。(参考文献 酒田裁縫女学校『本校教育の概要』)

 


 

光丘文庫

(コウキュウブンコ)



光丘文庫(建設中) 写真

作成年:大正14年
所蔵:酒田市立光丘文庫

「森山式鉄筋コンクリートブロック構造」で初めて建てられたのが光丘文庫である。森山式鉄筋コンクリートブロック構造について玉井哲雄千葉大学工学部教授は以下のように説明する。「この森山式ブロック造は、平坂なコンクリートブロック(型枠ブロック)をコンクリートの型枠のように並べ、要所には鉄筋を組み、中にコンクリートを流し込み壁を造る。型枠ブロックの内側を軽く湾曲させ、中の圧力を軽減させるとともに、ブロックの重量を軽減させる工夫があったり、二列の型枠ブロックはちぎりと呼ばれるコンクリート片で結ばれているなど、他のブロックに比較して森山の独自性もあらわれている」。森山式鉄筋コンクリート造は当時としては画期的な建物であった。設計は内務省神社局の角南隆である。森山式鉄筋コンクリート造を考案した森山善平(1891~1967)は東京で森山工務店を営んでいた。森山の主な仕事として、戦前は大宰府天満宮、大山祇神社、湊川神社宝物殿、戦後は氷川神社、鳩森八幡、隠田神社などが挙げられる。写真は建設中の光丘文庫。