酒田市立図書館/光丘文庫デジタルアーカイブ

解説文

建造物

関村 関学校

(セキムラ セキガッコウ)



関村 関学校 写真

時期:明治
作成年:明治初期
所蔵:酒田市立光丘文庫

明治8年(1875)関村に開校した。後に関尋常小学校と改称。旧酒田市立東平田小学校の前身である。

 


 

琢成学校

(タクセイガッコウ)



琢成学校 写真

時期:明治
作成年:明治初期
所蔵:酒田市立光丘文庫

明治12年(1879)11月8日開校。琢成の校名は当時の太政大臣三条実美が、礼記の「玉不琢不成器。人不学不成行」から命名した。校舎は、本町通りの突き当り(現消防署の場所)にあり、洋風三階建で楼上に大時計があった。明治16年(1883)3月5日火災により焼失する。現在の酒田市立琢成小学校の前身。写真は明治13年9月に併設された酒田中学校の看板がみえることから、明治13年~15年頃に撮影されたもの。

 


 

中村鉄工所

(ナカムラテッコウショ)



中村鉄工所 写真

時期:明治
作成年:明治42年
所蔵:酒田市立光丘文庫

明治18年(1885)庄内で最初の鉄工所である中村鉄工所が秋田町角(現「萬谷」向かい側)につくられた。広告は明治42年(1909)6月発行の酒田写真倶楽部『写真集第一輯』に掲載されていたもの。

 


 

曽根田村 誠信学校

(ソネダムラ セイシンガッコウ)



曽根田村 誠信学校 写真

時期:明治
作成年:明治中期
所蔵:酒田市立光丘文庫

明治10年(1877)4月開校。明治20年(1887)に曽根田簡易小学校と改名。同23年(1890)焼失。漆曽根尋常小学校と合併し、曽根田分教場となる。同24年新築移転し、北平田高等尋常小学校に改称。旧北平田小学校の前身。

 


 

藤塚村 藤波学校

(フジヅカムラ フジナミガッコウ)



藤塚村 藤波学校 写真

時期:明治
作成年:明治初期
所蔵:酒田市立光丘文庫

明治7年(1874)8月藤塚学校を設立、同10年12月藤波学校と改称。明治20年(1887)4月藤塚小学校と改称。同23年藤塚字南畑に校舎を新築。現在の西荒瀬小学校の前身。

 


 

本楯村 勤成学校

(モトタテムラ キンセイガッコウ)



本楯村 勤成学校 写真

時期:明治
作成年:明治初期
所蔵:酒田市立光丘文庫

明治7年(1874)教山学校として開校。明治9年(1876)に勤成学校と改称し、同20年(1887)4月本楯尋常高等小学校と改称。旧酒田市立本楯小学校の前身。

 


 

生石村 朝穎学校

(オイシムラ チョウエイガッコウ )



生石村 朝穎学校 写真

時期:明治
作成年:明治初期
所蔵:酒田市立光丘文庫

朝穎学校(ちょうえいがっこう)は明治11年(1878)開校、同20年(1887)4月生石尋常小学校と改称。旧酒田市立東平田小学校の前身。

 


 

酒田幼稚園

(サカタヨウチエン)



酒田幼稚園 写真

時期:明治
作成年:昭和8年
所蔵:酒田市立光丘文庫

明治36年(1903)青木マサが青木幼稚遊戯園を開設した。これが酒田における幼稚園の始まりである。同園はその後酒田第二尋常小学校の一部を借りて経営していたが、同44年(1911)に閉園。そのあとを池田藤八郎がひきつぎ、同年酒田幼稚園が開園した。園主が池田藤八郎、園長は山形県立酒田高等女学校長桧山友蔵だった。大正6年(1917)12月に寺町の現在地に移転した。写真は『昭和8年市制施行時酒田町写真集』より。

 


 

琢成尋常高等小学校

(タクセイジンジョウコウトウショウガッコウ)


琢成尋常高等小学校は明治12年(1879)開校の琢成学校の後身である。写真は『昭和8年市制施行時酒田町写真集』より。
<学校の変遷>
明治12年(1879)5月琢成学校
 →明治20年(1887)5月酒田高等尋常小学校
 →明治25年(1892)11月酒田尋常高等小学校
 →大正7年(1918)4月琢成尋常高等小学校
 →昭和16年(1941)4月酒田第一国民学校
 →昭和22年(1947)酒田市立琢成小学校
(参考文献 酒田市史編纂委員会編『酒田市史改訂版下巻』)

時期:明治
作成年:昭和8年
所蔵:酒田市立光丘文庫


 


 

琢成第一尋常小学校

(タクセイダイイチジンジョウショウガッコウ)


明治17年(1884)1月外野町妙法寺畑地に開校した琢成第一分校は、一般には「新地の学校」と呼ばれ、明治27年の地震で校舎が全壊するも、昭和11年(1936)7月に当時は中平田村の一部であった浜田小学校現在地に新築移転するまでの52年間、同校は写真の外野町の高台(現在の酒田市シルバー人材センターの位置)にあった。写真は『昭和8年市制施行時酒田町写真集』より。
<学校の変遷>
 明治17年(1884)琢成第一分校
→明治34年(1901)4月酒田第一尋常小学校
→大正7年 (1918)琢成第一尋常小学校
→昭和16年(1941) 4月酒田第三国民学校
→昭和22年(1947)4月酒田市立浜田小学校
(参考文献 酒田市史編纂委員会編『酒田市史改訂版下巻』)

時期:明治
作成年:昭和8年
所蔵:酒田市立光丘文庫


 


 

琢成第二尋常小学校

(タクセイダイニジンジョウショウガッコウ)


明治36年(1903)開校した酒田第三尋常小学校は、大正7年(1918)に琢成第二尋常小学校と改称した。写真は『昭和8年市制施行時酒田町写真集』より。<学校の変遷>明治36年(1903)4月 酒田第三尋常小学校→大正7年(1918)4月琢成第二尋常小学校→昭和16年(1941)4月酒田第二国民学校→昭和22年(1947)4月光ヶ丘小学校→昭和50年(1975)4月琢成小学校と合併(参考文献 酒田市史編纂委員会編『酒田市史改訂版下巻』)

時期:明治
作成年:昭和8年
所蔵:酒田市立光丘文庫


 


 

新井田橋(めがね橋)

(ニイダバシ(メガネバシ))



新井田橋(めがね橋) 写真

時期:明治
所蔵:個人蔵

明治23年(1890)5月20日新井田川にかかる新井田橋が竣工する。その形から「めがね橋」と呼ばれ親しまれていた。

 


 

山居倉庫

(サンキョソウコ)



山居倉庫 写真

時期:明治
作成年:明治26年
所蔵:酒田市史編纂室

明治19年(1886)3月、政府の方針で旧庄内藩士を役員とし、酒田豪商を仲買人とする民営の酒田の米商会所が設立された。米商会所は明治26年、取引所法の公布にともない、株式会社酒田米穀取引所となりその附属機関として山居倉庫が設立された。山居倉庫の経営は酒井家が行い、建築費は本間家が出した。山居倉庫の保管米は入庫にあたって米の産地・銘柄・等級・数量を検査に合格したものについてのみ、倉荷証券(有価証券)を発行し保管した。この検査はきわめて厳しいものであった。倉庫はまた米の一般寄託者に対して入庫票(切符)を交付し、これを持参するものにはいつでも米を渡した。山居倉庫15棟を中心に発行される切符は、現在の価格で1兆円にものぼった。大正3年(1914)12月、陸羽西線が開通し、鉄道による輸送が便利になったのを機に、余目・砂越・藤島・本楯・遊佐などの各駅に支庫を設立した。大正から昭和にかけて山居倉庫は全盛期でまさに酒田繁栄の象徴であった。現在、山居倉庫はJA全農山形の管轄になっている。

 


 

両羽橋

(リョウウバシ)



両羽橋ト鳥海山

時期:明治
作成年:明治43年頃
所蔵:個人蔵

明治27年(1894)9月に完成した両羽橋は、最上川にかかる橋としては5番目にできた橋。木製で幾何学的な美しさを持っていた。それまでは渡し船でしか渡れなかった最上川に橋がかかり、羽前国と羽後国が陸続きになったということで両羽橋と命名された。場所は、2代目両羽橋よりも約1キロ上流の大宮と落野目の間に架けられ、橋ができたことに伴い、落野目側には日清戦争で日本が清から得た台湾にちなんだ飲食業を中心とする75戸からなる「台湾」という新たな集落ができ、その集落は昭和8年の河川改修による集落移転まで存在した。この橋は昭和11年(1936)9月に二代目の橋が供用開始されるまでの42年間使用されたが、新両羽橋が完成した後も、数年間にわたって欄干もなくなった木橋が残骸のまま残されていた。(参考文献 建設省酒田工事事務所『21世紀への起点 両羽橋』)

 


 

酒田郵便電信局

(サカタユウビンデンシンキョク)



酒田郵便電信局 写真

時期:明治
所蔵:個人蔵

明治29年(1896)4月27日、本町5丁目角(現セブンイレブン酒田本町3丁目店)に酒田郵便局の木造庁舎が新築される。同年7月に酒田郵便電信局と改称する。絵葉書は「酒田郵便電信電話局」とあり、明治41年(1908)電話の開通以後の撮影である。

 


 

三浦屋

(ミウラヤ)



三浦屋 写真

時期:明治
所蔵:個人蔵

三浦屋は伝馬町(現ファミリーマート酒田中町三丁目店)にあり、当時の酒田を代表する旅館のひとつ。正岡子規、幸田露伴らの文化人や政治家など、多くの著名人が宿泊した。

 


 

酒田高等女学校

(サカタコウトウジョガッコウ)



酒田高等女学校 写真

時期:明治
所蔵:個人蔵

酒田高等女学校は、明治31年(1898)3月29日に酒田町立高等女学校として創立し、同年5月28日に開校した。同35年(1902)県立となり、校舎を竣工した。現在の山形県立酒田西高等学校の前身。

 


 

升田発電所

(マスダハツデンショ)



升田発電所 写真

時期:明治
作成年:明治41年
所蔵:個人蔵

明治39年(1906)10月酒田町営電気を設立し、電気事業の認可申請をおこなう。当時の飽海郡日向村升田地区内に日向川の水を利用して水力発電所を建設し、同41年(1908)9月に創業した。(参考文献 酒田町役場『酒田町営電気事業誌』より)

 


 

酒田電話局

(サカタデンワキョク)



酒田電話開通記念〔絵葉書〕

時期:明治
作成年:明治41年
所蔵:個人蔵

明治41年(1908)12月16日酒田電話局が電話交換業務を開始する。加入者180名。同月21日には酒田・鶴岡間の電話が開通した。東京が電話通話区域となるのは大正12年(1923)、大阪・神戸が通話区域になったのは昭和4年(1929)だった。(参考文献 酒田市史編纂委員会編 『酒田市史改訂版下巻』『酒田市史年表改訂版』)

 


 

安田銀行酒田支店

(ヤスダギンコウサカタシテン)



安田銀行酒田支店 写真

時期:明治
所蔵:個人蔵

安田銀行は明治13年(1880)創業。酒田支店は明治43年1月上中町(現カメラの七桜の向い)に開店する。山形県内では米沢に次いで2番目の支店であった。写真は改築後のもの。

 


 

飽海郡役所

(アクミグンヤクショ)



飽海郡役所改築庁舎記念絵葉書

時期:明治
作成年:大正5年
所蔵:個人蔵

明治11年(1878)郡区町村編成法の公布により、山形県には11の郡が定められ、各郡には郡役所を設置した。飽海郡役所は酒田に置かれ、初代郡長には鹿児島県出身の貴島宰輔(キジマサイスケ)が任命された。明治24年(1891)に郡制が施行され、郡役所では戸籍・衛生・軍事等の業務が行われた。当初の郡役所は酒田町本町1丁目にあり、三階造りの洋風建築だった。同30年(1897)平屋造りで新庁舎を建築。大正5年(1916)10月には本町3丁目の郡会議事堂の隣に二階建ての役所を新築。郡制が廃止されてからは酒田町役場として使用した。(参考文献 酒田市史編纂委員会編『酒田市史改訂版下巻』)

 


 

山形県立酒田中学校

(ヤマガタケンリツサカタチュウガッコウ)



山形県立酒田中学校 写真

時期:明治
作成年:大正10年
所蔵:個人蔵

明治5年(1872)の学制により小学校が各地に開校していたが、中学校設置に関しては森藤右衛門らが設置の募金を始め、その熱意が実って明治13年(1880)琢成学校の校舎の一部を借りて酒田中学校が開校する。しかし、同16年(1883)に校舎全焼により中学校が廃校となる。その後飽海郡会や酒田町及び有志者の努力により、大正9年(1920)4月山形県立酒田中学校が仮校舎を商業学校内に設置して開校した。新校舎は旧亀ヶ崎城跡地に建設し、翌年11月3日に竣工式が行われた。山形県立酒田東高等学校の前身。(参考文献 酒田市史編纂委員会編『酒田市史改訂版下巻』)

 


 

酒田町立商業補修学校

(サカタチョウリツショウギョウホシュウガッコウ)



酒田町立商業補修学校 写真

時期:明治後期
所蔵:個人蔵

明治40年(1907)5月9日開校。当初は酒田尋常高等小学校(琢成小学校の前身)に付設されていたため、学校長は尋常小学校校長の五十嵐三作が兼任していた。初年度入学者52名。大正3年(1914)4月に学校名を酒田町立商業学校と改称し、同6年(1917)12月、片町(現在の上本町)に校舎を新築移転した。写真は寺町にあった小学校(現総合文化センターの場所)に付設されていた時期のもの。

 


 

警察署

(ケイサツショ)



酒田警察署 写真

時期:明治 大正
作成年:昭和8年
所蔵:酒田市立光丘文庫

明治8年(1875)6月酒田警察出張所が設置される。同9年(1876)それまでの鶴岡県・山形県・置賜県が合併して山形県ができると、酒田の警察は第三警察出張所となり、翌年酒田警察署と改称。同16年(1883)本町四丁目に警察署を新築するが、同27年(1894)の大地震で建物が大破。翌年利右衛門小路から下袋小路にわたる敷地に新築移転した。写真は『昭和8年市制施行時酒田町写真集』より。(参考文献 酒田市史編纂委員会編 『酒田市史改訂版下巻』 酒田警察署 『警察のしおり』)

 


 

行在所

(アンザイショ)



行在所 写真

所蔵:酒田市史編纂室

明治天皇が酒田行幸の際、宿となしたのが渡邊作左衛門(1835~1883)宅である。渡邊は西荒瀬村出身で田川郡田谷村の豪農先代・渡辺作左衛門の養子に入り酒田で米商を営み、旧庄内藩の新井田倉庫を買占め米券を発行した。この時、渡邊作左衛門は本間家をしのぐ程の経済的勢いがあった。明治天皇行在所に決まった作左衛門は一身をなげうって行在所を建築。行在所建設には6450円という莫大な金額を費やした。場所は本町6丁目である。行在所の出費と事業拡大の破たんにより作左衛門は明治天皇酒田行幸わずか1年後の明治15年(1882)には財を蕩尽し没落した。