酒田市立図書館/光丘文庫デジタルアーカイブ

解説文

地図

西川原谷地実測絵図

(置上出瀬)(ニシガワラヤチジッソクエズ(オキガミシュッセ))



西川原谷地実測絵図
(置上出瀬)

時期:江戸時代
作成年:江戸時代
所蔵:酒田市立光丘文庫

谷地とは湿地帯のことで、そこに生育する萱などの植物は江戸時代の人々にとっては田畑の肥草、馬の秣、屋根材などに利用され、生活の上で欠かせない資源であった。この絵図の左側に新井田川、中央には最上川が流れている。栗林谷地、栗林畑の所有者栗林家は、渡辺家とともに代々酒田町組大庄屋を務めた家である。

 


 

内町組上片町絵図

(ウチマチグミカミカタマチエズ)



内町組上片町絵図

時期:江戸時代
作成年:江戸時代
所蔵:酒田市立光丘文庫

江戸時代の酒田は、酒田町組・内町組・米屋町組の三組に分かれ、それぞれの組には大庄屋などの町役人がおり、人々を支配していた。この絵図は内町組で代々大庄屋を勤めた伊東弥左衛門家に保管されていた資料で、通りの名前、各家の所有者、屋敷の間口と奥行が記入されている。この絵図の東側は、享保11年(1726)に米蔵を火災から守るため住人を移動して空地とした。片町とは西側にのみ家があったので「片町」という名前がついた。図の「御堀」は亀ヶ崎城の外堀。

 


 

内町組中ノ口川端町・山王堂町絵図

(ウチマチグミナカノクチカワバタマチ・サンノウドウマチエズ)



内町組中ノ口川端町・
山王堂町絵図

時期:江戸時代
作成年:江戸時代
所蔵:酒田市立光丘文庫

江戸時代の酒田は、酒田町組・内町組・米屋町組の三組に分かれ、それぞれの組には大庄屋などの町役人がおり、人々を支配していた。この絵図は内町組で代々大庄屋を勤めた伊東弥左衛門家に保管されていた資料で、通りの名前、各家の所有者、屋敷の間口と奥行が記入されている。

 


 

内町組浜町絵図

(ウチマチグミハママチエズ)



内町組浜町絵図

時期:江戸時代
作成年:江戸時代
所蔵:酒田市立光丘文庫

江戸時代の酒田は、酒田町組・内町組・米屋町組の三組に分かれ、それぞれの組には大庄屋などの町役人がおり、人々を支配していた。この絵図は内町組で代々大庄屋を勤めた伊東弥左衛門家に保管されていた資料のひとつで、通りの名前、各家の所有者、屋敷の間口と奥行が記入されている。浜町はこの地一帯が砂山であったことからその名前がついた。北にある善導寺は明治21年に現在の北今町に移転した。

 


 

内町組下内町・突貫絵図

(ウチマチグミシモウチマチ・ツラヌキエズ)



内町組下内町・突貫絵図

時期:江戸時代
作成年:江戸時代
所蔵:酒田市立光丘文庫

江戸時代の酒田は、酒田町組・内町組・米屋町組の三組に分かれ、それぞれの組には大庄屋などの町役人がおり、人々を支配していた。この絵図は内町組で代々大庄屋を務めた伊東弥左衛門家に保管されていた資料のひとつで、通りの名前、各家の所有者、屋敷の間口と奥行が記入されている。内町はもともと亀ヶ崎城の外郭の内側にあっため内町と呼ばれていたが、元和8年には武家屋敷は引き上げ、町屋敷となった。貞享2年(1685)には上内町と下内町に分かれた。南端から2軒目に伊東家(伊東伝内)の屋敷がある。

 


 

内町組元米屋町絵図

(ウチマチグミモトコメヤマチエズ)



内町組元米屋町絵図

時期:江戸時代
作成年:江戸時代
所蔵:酒田市立光丘文庫

江戸時代の酒田は、酒田町組・内町組・米屋町組の三組に分かれ、それぞれの組には大庄屋などの町役人がおり、人々を支配していた。この絵図は内町組で代々大庄屋を勤めた伊東弥左衛門家に保管されていた資料のひとつで、通りの名前、各家の所有者、屋敷の間口と奥行が記入されている。この地に年貢米を置いたことから米屋町と言われていたが、文禄2年(1593)に新しい米蔵を作り、そこを新米屋町と呼んだため、今までの所を元米屋町と言った。東西に抜ける松原地は、松を植えて火事の延焼を防ぐ役割があった。

 


 

内町組鷹町・外野町絵図

(ウチマチグミタカマチ・トノマチエズ)



内町組鷹町・外野町絵図

時期:江戸時代
作成年:江戸時代
所蔵:酒田市立光丘文庫

江戸時代の酒田は、酒田町組・内町組・米屋町組の三組に分かれ、それぞれの組には大庄屋などの町役人がおり、人々を支配していた。この絵図は内町組で代々大庄屋を勤めた伊東弥左衛門家に保管されていた資料のひとつで、通りの名前、各家の所有者、屋敷の間口と奥行が記入されている。鷹町と外野町は、宝永5年(1708)にそれまで砂山だった場所に新たに124軒の屋敷割がなされて誕生した町である。

 


 

御陣屋附近見取図

(オジンヤフキンミトリズ)



御陣屋附近見取図

時期:江戸時代
作成年:江戸時代
所蔵:酒田市立光丘文庫

最上川河口付近と新井田川の流れの様子がわかる絵図である。御米置場が「御ちん屋(御陣屋)」と書かれている。柵に囲まれた陣屋には大きな屋根は見えず、端の方に小さい屋根が描かれている。米をこの陣屋に運び、野積みにしていたことがうかがわれる。陣屋が周囲の土地よりも高い位置にあったことがよくわかる絵図である。

 


 

飛島(写)

(トビシマ(ウツシ))



飛島(写)

時期:江戸時代
作成年:江戸時代
所蔵:酒田市立光丘文庫

酒田港から北西に約39㎞海上にある山形県唯一の離島。面積は約2.75㎢。鳥海山噴火の際にその一部が吹き飛ばされてできたという伝説がある。「大泉叢誌(おおいずみそうし、だいせんそうし)」には別(わかれ)の島と呼ばれるのが飛島ではないかと書いている。江戸時代は庄内藩の領地であり、藩から島役人が二人派遣されており、年貢は鯣で納めていた。天和3年(1683)の家数は152軒、人数は790人そのうち男434人、女356人(「大泉叢誌」より)。 「大泉叢誌(おおいずみそうし、だいせんそうし)」は、庄内地方の古事伝承、古文書、由来や伝説等を記録したもの。全139巻。庄内藩士坂尾宗吾(サカオソウゴ 1763~1851)とその子萬年(ナガトシ 1786~1863)、孫の清風(キヨカゼ 1808~1845)が三代にわたって書き続けた。原本は鶴岡市の致道博物館に所蔵され、その写しが光丘文庫に所蔵されている。

 


 

鳥海山図(写)

(チョウカイザンズ(ウツシ))



鳥海山図(写)

時期:江戸時代
作成年:江戸時代
所蔵:酒田市立光丘文庫

鳥海山は山形県と秋田県の県境にある標高2236mの活火山で、出羽富士とも呼ばれ古くから山岳信仰の対象でもあった。この図は鳥海山の山の様子と吹浦から登る道(図面の赤線)を記している。図面上に享和元年(1801)の噴火でできた新山について「新山ヲ享和山トモ言フ享和年中山焼ノセツ新ニ突出セリ荒神嶽本社ルリ壺ノ辺尽ク落入テ谷トナレリ」と書いてある。この図は文化8年(1811)に「大泉叢誌」の作者坂尾宗吾の子萬年(ながとし)が実際に登って描いたものである。「大泉叢誌(おおいずみそうし、だいせんそうし)」は、庄内地方の古事伝承、古文書、由来や伝説等を記録したもの。全139巻。庄内藩士坂尾宗吾(サカオソウゴ 1763~1851)とその子萬年(ナガトシ 1786~1863)、孫の清風(キヨカゼ 1808~1845)が三代にわたって書き続けた。原本は鶴岡市の致道博物館に所蔵され、その写しが光丘文庫に所蔵されている。

 


 

内町組細肴町絵図

(ウチマチグミホソサカナマチエズ)



内町組細肴町絵図

時期:江戸時代
作成年:享保15年
所蔵:酒田市立光丘文庫

江戸時代の酒田は、酒田町組・内町組・米屋町組の三組に分かれ、それぞれの組には大庄屋などの町役人がおり、人々を支配していた。この絵図は内町組で代々大庄屋を勤めた伊東弥左衛門家に保管されていた資料のひとつで、通りの名前、各家の所有者、屋敷の間口と奥行が記入されている。肴町とは肴(魚)を売る商売をしていた人々が多く住んでいたためこの名がついた。細肴町の東は肴町と呼ばれ、こちらは酒田町組に属していた。

 


 

鶴田谷地境絵図の事

(ツルタヤチサカイエズノコト)



鶴田谷地境絵図の事

時期:江戸時代
作成年:享保15年
所蔵:酒田市立光丘文庫

荒瀬郷鶴田村、上野曽根村、下安田村、安田興野村、地蔵寺村、上安田村、古川村と平田郷牧曽根村、中野曽根村、上興野村の合計10ヶ村が、鶴田谷地の利用について取り決めした絵図。人々は谷地に育つ萱を屋根に使い、草を肥料にするなどして生活していたため、周辺の村ではその利用について話しあって決めていた。絵図には利用場所の広さ(間数)が書いてあり、境界線には村の代表である肝煎が印(絵図中の丸部分)を押して確認していた。

 


 

内町組給人町絵図

(ウチマチグミキュウニンマチエズ)



内町組給人町絵図

時期:江戸時代
作成年:享保16年頃
所蔵:酒田市立光丘文庫

江戸時代の酒田は、酒田町組・内町組・米屋町組の三組に分かれ、それぞれの組には大庄屋などの町役人がおり、人々を支配していた。この絵図は内町組で代々大庄屋を勤めた伊東弥左衛門家に保管されていた資料で、通りの名前、各家の所有者、屋敷の間口と奥行が記入されている。給人(下級武士)の家があったことから町の名がついた。この絵図には作成年が記されていないが、「享保16年(1731)亀ヶ崎御城下給人町御水帳」にある名前と絵図上の名前が一致しており、同時期のものと思われる。

 


 

出羽一国御絵図

(デワイッコクオンエズ)



出羽一国御絵図

時期:江戸時代
作成年:宝暦10~12年頃
所蔵:酒田市立光丘文庫

進藤重記(1709~1769)は飽海(あくみ)郡吹浦村に生まれ、同村大物忌神社の神職となる。晩年は著述に専念し、「出羽国風土略記」等の作品を著した。「出羽国風土略記」全10巻は、自序によると宝暦10年(1760)冬から書き始め12年(1762)7月に終了している。出羽の国の歴史や風土、寺社等について著しており、「出羽一国御絵図」はその添付絵図である。この絵図では薄緑色の太線が郡境、赤線が街道、街道沿いの黒点は一里塚を表している。また、絵図では遊佐郡・櫛引郡・田川郡の三郡に分かれているが、寛文4年(1664)に飽海郡・田川郡の二郡に変わっているため、その時代より前の絵図であることがわかる。主要な湊から湊までの距離や土地の説明もあり、図を見ながら出羽国全体の地誌が楽しめる図である。【酒田市指定文化財】

 


 

鷹尾山・常禅寺山絵図面(写)

(タカオサン・ジョウゼンジヤマエズメン(ウツシ))



鷹尾山・常禅寺山絵図面(写)

時期:江戸時代
作成年:文化元年(写)
所蔵:酒田市立光丘文庫

現在の酒田市の東部、八幡地区と平田地区の当時の様子が分かる絵図である。この絵図は、江戸時代に平田郷と荒瀬郷の村が鷹尾山と常禅寺山の入会権を巡って争った際に作った。当時の人々は山で薪や山菜を取り、草を刈って田畑の肥料や馬の飼料に利用しており、山の恵みは生活に欠かせないものであった。そのため、山を利用する人々の間でたびたび争いがおきていた。

 


 

荒瀬郷吉田新田村絵図面

(アラセゴウヨシダシンデンムラエズメン)



荒瀬郷吉田新田村絵図面

時期:江戸時代
作成年:文政元年
所蔵:酒田市立光丘文庫

吉田新田村は庄内藩荒瀬郷古川組の吉田組に属する村である。明治22年(1889)に上田村となり、昭和29年(1954)に酒田市と合併した。絵図が書かれた当時の村の家数は30軒、村の総生産高は352石9斗4升3合1勺だった。絵図中には住民の名前、石高(田畑の生産高)、役職名が書いてある。赤字の「イ」「ロ」「ハ」等の文字は、五人組の組仲間を表す。

 


 

荒瀬郷鶴田村絵図

(アラセゴウツルタムラエズ)



荒瀬郷鶴田村絵図

時期:江戸時代
作成年:文政元年
所蔵:酒田市立光丘文庫

鶴田村は庄内藩荒瀬郷古川組の吉田組に属する村である。明治22年(1889)に上田村となり、昭和29年(1954)に酒田市と合併した。絵図が書かれた当時の村の家数は34軒、村の総生産高は古荒新田を含めて506石6斗2升6合3勺だった。絵図中には住民の名前、石高(田畑の生産高)、役職名が書いてある。赤字の「イ」「ロ」「ハ」等の文字は、五人組の組仲間を表す。

 


 

古川組南吉田村絵図

(フルカワグミミナミヨシダムラエズ)



古川組南吉田村絵図

時期:江戸時代
作成年:文政元年
所蔵:酒田市立光丘文庫

南吉田村は庄内藩荒瀬郷古川組の吉田組に属する村である。明治22年(1889)に上田村となり、昭和29年(1954)に酒田市と合併した。絵図が書かれた当時の南吉田村の家数は61軒、村の総生産高は長助新田を含めて830石6斗1合2勺だった。絵図中には住民の名前、石高(田畑の生産高)、村の役職名が書いてある。赤字の「イ」「ロ」「ハ」等の文字は、五人組の組仲間を表す。絵図を書いた伊藤邦孝は源吉とも称し、南吉田村の肝煎(村役人)と吉田組大組頭(吉田組四ヶ村の代表)を兼務していた。

 


 

六ツ御囲、三ツ御囲、内御囲絵図(写)

(ムツオカコイ、ミツオカコイ、ウチオカコイエズ(ウツシ))



六ツ御囲、三ツ御囲、
内御囲絵図(写)

時期:江戸時代
作成年:文政5年(写)
所蔵:酒田市立光丘文庫

庄内藩の年貢米を納めていた蔵は新井田川沿いにあり、これはその見取図である。蔵は内蔵(絵図では内御囲)、六ツ蔵(六ツ御囲)、三ツ蔵(三ツ御囲)に分かれており、この三つの蔵を総称して「新井田蔵」「酒田蔵」あるいは「いろは蔵」と呼んでいた。この図を見ると飽海郡の遊佐郷・平田郷・荒瀬郷、田川郡狩川通・中川通・櫛引通・京田通とそれぞれの名前が書かれた蔵に米を収納していた様子がわかる。

 


 

徳川時代大日本明細全図

(トクガワジダイダイニホンメイサイゼンズ)



徳川時代大日本明細全図

時期:江戸
作成年:昭和5年
所蔵:酒田市立光丘文庫

この絵図は江戸時代の城下・街道・名所などを再現した図である。デザイン優先のためか日本列島の形などが正確とは言えないが、歴史マップか観光マップとして当時の人々がこれを見て楽しんでいただろうことが伝わってくる。編集・発行の高田可恒(ヨシツネ)は鶴岡出身で、『山形県荘内実業家伝』など多くの郷土関係書を著した。

 


 

松山築城御願之節絵図面(写)

(マツヤマチクジョウオネガイノセツエズメン(ウツシ))



松山築城御願之節絵図面(写)

時期:江戸前期
作成年:江戸時代
所蔵:酒田市立光丘文庫

正保4年(1647)、庄内藩初代藩主酒井忠勝の三男忠恒(ただつね)が二万石の地を分知(ぶんち)され、松山藩が成立した。後に三代忠休(ただよし)の時に幕府の若年寄などを勤めた功績により築城が認められた。この絵図はその際の城郭図である。天明2年(1782)に大手門が完成するが、その後は藩財政の窮乏により一部未完成のままとなった。大手門は落雷により焼失するが、寛永4年(1792)酒田の豪商本間光丘の寄進により再建された。松山城大手門は県内唯一の城郭建築として県の指定文化財になっている。「大泉叢誌(おおいずみそうし、だいせんそうし)」は、庄内地方の古事伝承、古文書、由来や伝説等を記録したもの。全139巻。庄内藩士坂尾宗吾(サカオソウゴ 1763~1851)とその子萬年(ナガトシ 1786~1863)、孫の清風(キヨカゼ 1808~1845)が三代にわたって書き続けた。原本は鶴岡市の致道博物館に所蔵され、その写しが光丘文庫に所蔵されている。

 


 

新潟屋

(ニイガタヤ)



元禄9年酒田町大絵図の模作

時期:江戸前期
所蔵:酒田市立光丘文庫

本間家初代とされる本間原光(ホンマモトミツ 1674~1740)(本間久四郎)が、本町二ノ丁に住み三十六人衆を務めていた本間久右衛門から元禄2年(1689)に分家して本町一ノ丁に新潟屋を開業した。新潟屋は現在、本間家お店(おたな)となっている。新潟屋の商いは、播磨・大阪・京都などの上方へ米を出し、衣類・染物・金物などを仕入れるという卸業をしていた。また、両替商も業とした。新潟屋の暖簾は正徳の末(1715)あたりまで続いたという。この図は荘内神社にある「元禄9年酒田町大絵図」を酒田市史編纂委員会が模したもので、本町屋敷割の中に久四郎として新潟屋が出ている。(酒田市史編纂委員会編『酒田市史改訂版上巻』より)

 


 

御米置場画図

(オコメオキバエズ)



御米置場画図

時期:江戸前期
作成年:宝暦5年
所蔵:酒田市立光丘文庫

寛文12年(1672)、河村瑞賢(1617~1699)は幕府領の年貢米を江戸に送るために西廻り航路を整備するとともに、積出がしやすいように最上川沿いに幕府専用の米蔵を設けた。これは御米置場とも瑞賢倉とも呼ばれた。この絵図は宝暦5年(1755)に酒田町奉行所に提出された絵図の控えであり、これによると東西82間3尺(約149m)、南北54間(約97m)の広さで、米を積み出す門が五カ所、その他に番所や稲荷宮等がある。現在の酒田市日和山公園に河村瑞賢庫跡の石碑が建っている。

 


 

酒田町絵図(写)

(サカタマチエズ(ウツシ))



酒田町絵図(写)

時期:江戸前期
作成年:文政3年
所蔵:酒田市立光丘文庫

明暦2年(1656)5月2日、清次郎の家(絵図に赤で示す)から出火した火は酒田の町を襲った。「明暦の大火」と呼ばれる火災である。これはその火災区域を示した図であるが、同時に最も古い酒田の町並みを記録した絵図で、文政3年(1820)に写したものである。朱色の線で囲まれた部分が火災の範囲であるが、町の大部分を占めており、いかに大規模な火災であったかがわかる。絵図の左には酒田の町ごとの家の軒数を記録している。総軒数は1277件であった。【酒田市指定文化財】

 


 

亀ヶ崎御城内絵図(写)

(カメガサキゴジョウナイエズ(ウツシ))



亀ヶ崎御城内絵図(写)

時期:江戸時代、天和、貞享
作成年:文政5年
所蔵:酒田市立光丘文庫

亀ヶ崎城はもとは東禅寺城と呼ばれ、関ヶ原の戦いの後に出羽の国を支配した最上義光は、家臣の志村伊豆守光安(あきやす)を城主とした。慶長8年(1603)年に酒田湊に大きな海亀が上がり、その報告を受けた最上義光は大変喜び、酒田の城の名前を「亀ヶ崎城」、鶴岡の城を「鶴ヶ岡城」と改称した。城主の伊豆守は戦で荒廃した酒田の復興に尽力し、酒田の町並みの基礎を作った。最上氏が改易となり庄内藩酒井氏がこの地を治めるようになると、鶴ヶ岡城を殿様の居城とし、亀ヶ崎城には城代が置かれた。現在の県立酒田東高等学校敷地内には、当時の土塁跡が残っている。この絵図は天和2年~貞享2年(1682~1685)頃の様子を表しており、文政5年(1822)に写したものである。

 


 

鳥海山矢島ト境論御裁許墨引図(写)

(チョウカイザンヤシマトサカイロンゴサイキョスミビキズ(ウツシ))



鳥海山矢島ト境論御裁許墨引図
(写)

時期:江戸中期
作成年:江戸時代
所蔵:酒田市立光丘文庫

宝永元年(1704)に由利郡矢島領の村と飽海郡庄内領の村との間で鳥海山の境界について争いが起きた。幕府は10月22日に判決を下し、庄内方の勝訴となった。その時の境界を示したのがこの絵図である。 「大泉叢誌(おおいずみそうし、だいせんそうし)」は、庄内地方の古事伝承、古文書、由来や伝説等を記録したもの。全139巻。庄内藩士坂尾宗吾(サカオソウゴ 1763~1851)とその子萬年(ナガトシ 1786~1863)、孫の清風(キヨカゼ 1808~1845)が三代にわたって書き続けた。原本は鶴岡市の致道博物館に所蔵され、その写しが光丘文庫に所蔵されている。

 


 

喎蘭新訳地球全図

(オランダシンヤクチキュウゼンズ)



喎蘭新訳地球全図

時期:幕末
作成年:寛政8年
所蔵:酒田市立光丘文庫

大阪の蘭学者橋本宗吉(直政)(1763~1836)が、寛政8年(1796)にオランダ製の地図数点をもとに作成した世界地図である。水戸藩の儒学者で地理学の第一人者長久保赤水が校閲し、篆刻家曽谷学川が序文を寄せている。両半球図の周囲に主な国や地域の説明があり、当時の世界に関する知識がどのようなものであったかを知る手掛かりになる。この地図では北アメリカのカリフォルニア半島が島として描かれ、オーストラリア大陸の形がはっきりと示されていないなど、世界各地の地形が当時まだ十分に解明されていなかったことがうかがえる。

 


 

新刊輿地全図

(シンカンヨチゼンズ)



新刊輿地全図

時期:幕末
作成年:文久元年
所蔵:酒田市立光丘文庫

メルカトル図法に基づいて作られた幕末を代表する世界図である。明治時代に入ってからも販売され、多くの人々に利用された。原図は1857年オランダのアムステルダムで出版された航海用地図である。そのため当時の主要航路が書かれている。地図の周囲に各国の国旗があり、下部には各地の主な山や川などの名前や高さ、長さなどが記されている。製作者の佐藤政養(1821~1877)は飽海郡升川村(現在の遊佐町吹浦)生まれ。弘化元年(1844)藩の推薦で江戸へ出て砲術を学ぶ。のちに勝海舟の下で蘭学を学び、安政4年(1857)に長崎で測量及び軍艦操縦の術を習得。幕府より軍艦操練所蘭書翻訳方を命ぜられる。横浜の開港を勝海舟に提言した。維新後は東京・横浜間を始め鉄道敷設に尽力し、「鉄道の父」と呼ばれる。昭和39年(1964)吹浦駅前に銅像が建立された。

 


 

陸奥出羽国郡行程全図

(ムツデワコクグンコウテイゼンズ)



陸奥出羽国郡行程全図

時期:幕末~明治
作成年:江戸後期
所蔵:酒田市立光丘文庫

橋本玉蘭齋(1807~?)は幕末から明治初期にかけて活躍した歌川派の浮世絵師で、五雲亭貞秀、歌川貞秀とも称されている。新しい西洋文化でにぎわう横浜の様子を描いた「横浜絵」や、鳥瞰による風景画を描いて人気を博した。また、全国各地をまわって名所を描いており、当文庫所蔵の「出羽庄内酒田風景」もそのひとつである。一方で地理に関心を持ち、「大日本四神図」などの様々な地図を制作した。この「陸奥出羽国郡行程全図」は、鳥瞰図を得意とした玉蘭齋ならではの立体的な描写が山や半島の描写などに表れており、鮮やかな色使いが特徴的な美しい絵図である。

 


 

二郡縮図(写)

(ニグンシュクズ(ウツシ))



二郡縮図(写)

時期:年代不明(江戸後期)
作成年:江戸時代
所蔵:酒田市立光丘文庫

庄内藩は領地を三郷五通(遊佐郷・荒瀬郷・平田郷・狩川通・中川通・櫛引通・京田通・山浜通)に分けて治めており、この絵図では飽海郡・田川郡の二郡を三郷五通と松山藩領、御預所(幕府領を庄内藩に預けて統治を委ねた地)が色分けされているのが特徴である。「大泉叢誌(おおいずみそうし、だいせんそうし)」は、庄内地方の古事伝承、古文書、由来や伝説等を記録したもの。全139巻。庄内藩士坂尾宗吾(サカオソウゴ 1763~1851)とその子萬年(ナガトシ 1786~1863)、孫の清風(キヨカゼ 1808~1845)が三代にわたって書き続けた。原本は鶴岡市の致道博物館に所蔵され、その写しが光丘文庫に所蔵されている。