酒田市立図書館/光丘文庫デジタルアーカイブ

解説文

人物

松森胤保

(マツモリタネヤス)



松森胤保 写真

時期:明治
作成年:明治24年
所蔵:酒田市立光丘文庫

松森胤保(マツモリタネヤス 1825~1892)は庄内藩士長坂市右衛門治礼の長男として鶴岡に生まれる。文久2年(1862)禄200石の家督を相続し、翌年6月に支藩松山藩付家老を命ぜられる。戊辰戦争では松山藩軍務総裁と本藩の参謀を兼ねて戦う。明治維新後は区長、中学校長、県会議員として活躍した。胤保は多忙な中で、生物学、考古学、物理学、天文学、工学、音響学、建築、民俗学、人類学など多岐にわたる160部500冊以上の著書を残している。そのうち光丘文庫は『両羽博物図譜』(7部59冊)のほか『北征記事』、『物理新論』など41部128冊を所蔵しており、すべて山形県指定文化財となっている。(参考文献 庄内人名辞典刊行会編『新編庄内人名辞典』)

 


 

白崎良弥

(シラサキリョウヤ)



白崎良弥 写真

時期:明治
所蔵:酒田市立光丘文庫

白崎良弥(シラサキリョウヤ 1875~1953)は鶴岡の豪商・風間富右衛門の次男として生まれ、酒田の白崎五右衛門家の養子となった。一旦は上京したものの、酒田に戻り教育者の池田賚(イケダタモウ 1832~1903)につき漢学を修めた。奉公義会幹部となり、また酒田町会議員(大正2年~大正14年)を歴任した。光丘神社の創建や財団法人光丘文庫の設立に尽力、光丘文庫第二代の文庫長(昭和3年~昭和22年)を務めた。(参考文献、庄内人名辞典)

 


 

明治天皇

(メイジテンノウ)



明治天皇巡幸図

時期:明治期
作成年:明治14年
所蔵:酒田市立光丘文庫

明治天皇(1852~1912)は日本各地の巡幸に多くの時を費やしている。明治14年(1881)、北海道・東北巡幸が行われた。山形県には明治14年9月22日から10月3日まで滞在し県内各地を回った。巡幸の供奉員は北白川宮能久親王(キタシラカワノミヤヨシヒサシンノウ)・左大臣有栖川宮熾仁親王(アリスガワノミヤタルヒトシンノウ)、参議大隈重信、参議大木喬任(オオキタカトウ)、宮内卿徳大寺実則(トクダイジサネツネ)ら文武官員約320名余である。他に参議・黒田清隆、内務卿・松方正義(マツカタマサヨシ)以下20余名が先発官として先行し、さらに三島県令はじめ県官、巡査、人夫らを加え、総勢1000名以上の一大行列であった。酒田には9月25日に来臨している。行在所は本町の渡部作左衛門の邸宅であった。酒田では福島地方裁判所酒田支庁や琢成学校を視察し、行在所を務めた渡辺作左衛門には赤白縮緬、御紋付三ツ組銀盃などが下賜され、有志者、郡吏、村吏、教員の方々にも下賜金が与えられた。(引用文献 酒田市『酒田市史 改訂版』)

 


 

本間光美

(ホンマコウビ)



本間光美 写真

時期:明治
所蔵:酒田市史編纂室

本間光美(ホンマコウビ 1836~1913)酒田本間家6代当主。戊辰戦争の際、庄内藩に10万両の軍資金を提供。明治2年(1869)庄内藩主の磐城平転封阻止のため裏工作に奔走、この時、光美は5万円を献金している。明治21年(1888)5月家業の本立銀行を設立し頭取に就任。明治29年(1896)乾田馬耕を普及させるために教師として伊佐治八郎を招き明治30年(1897)には子息の光輝と共に本間農場を作った。

 


 

三烈士

(サンレツシ)



三烈士の碑

時期:明治
作成年:明治2年

明治2年(1869)4月21日の午後酒田今町の刑場で斬首刑が執行された。斬首を受けたのは庄内出身の旧幕臣・佐藤桃太郎(19歳)、関口有之助(21歳)、天野豊三郎(30歳)の3人である。天野豊三郎は幕府遊撃隊軍監、佐藤桃太郎は同機械方、関口有之助は岡崎藩士で、いずれも幕府長年の恩顧にむくいるため箱根で戦い、敗れると榎本武揚ひきいる軍艦三嘉保丸に乗り込み、北海道に独立国を建設しようと函館に向かったが、嵐にあって銚子沖に漂流し下総国に上陸した。その間に、会津は落城し、仙台は官軍に囲まれて、庄内藩だけが善戦しているとの情報が入り死場所を求めて、庄内にやってきた。しかし庄内へ着いた時には庄内藩も降伏した後であった。藩では鶴岡八ツ興野村の寺院である林髙院にかくまい降伏を薦めたが、3人は最後まで降参することをいさぎよしとはせず、官軍の酒田民政局長官・西岡周碩の訊問にまっ向から反論批判して処刑されたのである。なお、林昌寺(浄土宗)には3人の書及び三烈士の碑がある。(参考引用文献 佐藤三郎箸『三烈士の最後』)

 


 

高橋直勝

(タカハシナオカツ)



高橋直勝 写真

時期:明治
所蔵:酒田市市史編纂室

高橋直勝(タカハシナオカツ 1849~1898)は自由民権運動家。直勝は亀ケ崎足軽目付高橋直義の長子として飽海郡鵜渡川原(現・酒田市)に生まれた。戊辰戦争に出征。明治2年(1869)には酒田民政局長官・西岡周碩(ニシオカシュウセキ 1838~1912)が創設した学而館に学んだ。明治14年(1881)酒田戸長となり、辞した後、森藤右衛門が設立した「両羽新報」に記者として勤めながら自由民権運動に尽力した。明治18年(1885)~明治24年(1891)まで県議会議員を務め、明治29年(1896)には周囲に推されて西荒瀬村村長になった。晩年は郷里の勤王志士・阿部千萬太(アベチマタ 1821~1868)の顕彰に尽くした。高橋直勝は反骨精神が旺盛で正義感が強く文章が巧みで漢詩をよくした。

 


 

颯田本真尼

(サッタホンシンニ)


颯田本真尼(サッタホンシンニ 1845~1928)は浄土宗の尼僧で明治27年(1894)10月の荘内大震災の際、数多くの救援物資を酒田に運んできた。本真尼は愛知県吉田町の颯田清左衛門の長女として生まれ、12歳で浄土宗の寺で得度し尼僧となった。18歳の時に吉田町に慈教庵を創設して、明治16年(1883)には本堂を建てて徳雲寺と改めた。本真尼は善行や布施行を尊び、災害があると聞けば、南は九州、北は北海道に至るまで日本全国に赴いたという。酒田に来たのは本真尼49歳の時である。本真尼の行動や人柄は酒田の人達に強烈なインバクトを与え、酒田に本真尼を慕う人々が激増した。その後、本真尼は毎年のように酒田を訪れ、時には個人の家に寝泊まりをし仏教を説いた。瑞相寺(浄土宗)には本真尼が寄附を集めた建てた「震火災横死霊」の碑が建っている。

 


 

田山花袋

(タヤマカタイ)



田山花袋 石碑

時期:明治

田山花袋(タヤマカタイ 1871~1931)は明治期・大正期の小説家。博文館が創刊した「文章世界」の主筆となった。明治40年(1907)に発表した『蒲団』により自然主義運動の先駆者となる。代表作は『田舎教師』『時は過ぎゆく』『一兵卒の銃殺』『残雪』『百夜』『東京の三十年』等々。田山花袋が酒田に来たのは花袋が三十三の時である。その様子は『羽後の海岸』に記載されている。酒田市の日和山公園内に『羽後の海岸』の一節を刻んだ石碑が建っている。

 


 

若山牧水

(ワカヤマボクスイ)


若山牧水(ワカヤマボクスイ 1885~1928)歌人。牧水は宮崎県東郷村に生れ、明治41年(1908)早稲田大学英文科を卒業、学生時代に同卿の北原白秋・土岐善磨(トキゼンマロ)らと親交を結ぶ。反明星派の立場をとり「海の声」「独り歌へる」を発表。明治43年(1910)「別離」を刊行し世に認められる。牧水の歌風は旅・自然を親しみ、大らかな豊かな情感と寂寥感を歌いつづけ牧水調と呼ばれた。牧水は放浪の旅を好んだ。牧水が酒田に来たのは大正6年(1917)8月6日の夕刻である。秋田の短歌会の帰りであった。「北国紀行」「さびしき樹木」に酒田について記してある。日和山公園には若山牧水の碑が立っている。

 


 

森藤右衛門

(モリトウエモン)


森藤右衛門(モリトウエモン 1842~1885)は酒田の自由民権運動家。明治7年(1874)、政府は年貢の金銭納入を可としていたが、酒田県では江戸時代と変わらない米納で納めさせていた。また、雑税を取立て、松ケ岡の庄内士族による開墾に農民を無償で使役することなどに端を発し、庄内の農民が酒田県に対して騒動を起こした。世に言う「ワッパ騒動」である。農民は初め江戸時代の一揆のような形で反抗していたが埒があかなかった。そこに自由民権運動家の森藤右衛門が農民側につき参戦。藤右衛門はワッパ騒動の運動方針を法廷闘争に切り替えた。その結果、裁判で勝訴。明治12年(1879)に藤右衛門は山形県下最初の政党である尽性社を組織し、明治14年(1881)4月には「両羽新報」を発行して、自由民権運動に力を注いだ。植木枝盛(ウエキエモリ)の著書『民権自由論』の表紙に日本の代表的自由民権運動家として佐倉宗五郎(サクラシュウゴロウ 生没年不詳)、福沢諭吉(フクザワユキチ 1835~1901)、板垣退助(イタガキタイスケ 1837~1919)らとともに森藤右衛門が描かれている。現在、『民権自由論』は東京大学大学院法学政治学研究科附属近代日本法政史料センター明治新聞雑誌文庫に保管されている。酒田東高校に隣接する公園内には森藤右衛門顕彰碑が建っている。菩提寺は大信寺(真宗本願寺派)である。

 


 

矢島晁英

(ヤシマチョウエイ)



矢島晁英 寿碑

時期:明治初期

矢島晁英(ヤシマチョウエイ 1832~?)教育者。飽海郡鵜渡川原村に生まれ、嘉永元年(1848)庄内藩士・上野直記の許で漢学及び剣術を学ぶ。庄内藩に仕えて江戸藩邸にて勤仕。明治時代に入ると西岡周碩が創設した学而館の句読師(くどくし)を勤めた。有徳の教育者として広く信望を得た。酒田市立亀ケ崎小学校内に矢島斎治(晁英)の寿碑が建っている。

 


 

正岡子規

(マサオカシキ)



正岡子規 石碑

時期:明治初期

正岡子規(マサオカシキ 1867~1902)は俳人。子規は愛媛県松山に生まれ、東京帝国大学文科大学を中退し陸羯南(クガカツナン)が主宰する新聞「日本」(にっぽん)に入社。明治28年(1895)日清戦争従軍記者として金州(現在の中国・大連市)に同行したが帰国の船中で喀血。その後、六年間病床で俳句の創作を続けた。子規は与謝蕪村を評価し、知識・理屈よりも感情を、空想よりも写実を説いた。子規の俳句は大正13年(1924)に刊行された『寒山落木』にまとめられ、その作風は生活に目を向けた写生句が多い。正岡子規が奥羽遊歴の旅に出たのは新聞「日本」時代である。その時の様子や俳句は『はて知らずの記』として刊行されている。下の日枝神社に隣接する小高い丘には子規が詠んだ「鳥海にかたまる雲ゆ秋日和」と刻まれた石碑(写真)が佇んでいる。

 


 

荒木彦助

(アラキヒコスケ)



荒木彦助 写真

所蔵:酒田市立光丘文庫

荒木彦助(アラキヒコスケ 1890~1946)は酒田下内匠町の富豪荒木彦助の長男として生まれた。本名は彦太郎。京都帝国大学に入学するものの中途退学。学生時代より剣道に励み自宅に荒木道場を作る。酒田米穀取引所仲買人となって活躍。本間光丘を祀る光丘神社を創建するにあたり中心的役割を果たした。初代財団法人光丘文庫長(大正12年~昭和3年)を務める。川柳の井上険花坊と親交を結び自身も川柳を愛好し多くの川柳を詠んだ。(参考引用文献・庄内人名辞典刊行会編『庄内人名辞典』)