酒田市立図書館/光丘文庫デジタルアーカイブ

酒田市史年表

昭和期

昭和(1926~1989)

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昭和7年19321月藤井康夫・岩本桂仙らが酒田短歌会をつくる。会員14名。
1月・2月の積雪の尤も多い季節に妙法寺や正徳寺裏等の砂地を摺鉢形に掘り、雪を貯蔵して大きな雪山をつくり、夏季の需用期に売出す。(郷土よみもの・天籟の巻)
3月16日川村本県知事が酒田港第二期計画につき、県の方針を発表する。山形市四山樓における鉄道運輸総会の宴会席上、川村知事は荒木酒田商工会議所会頭に向い、非公式ながら酒田港第二期計画につき、県の方針を発表する。その内容は酒田及び酒田港に対して、殆んど致命的・断圧的・侮辱的なものであり、この事が巷間に伝わると、ついに三万町民の奮起となる。(酒田港誌)
昭和10年頃、第二次大本教弾圧事件により東北別院も歌碑も取り壊される。
4月2日川村知事の発言に端を発し、酒田全町実業団体、中和会外七団体主催、一千余名が出席(公会堂)し、酒田築港促進連盟が成立する。(酒田港誌)
4月25日本楯村の城輪柵跡が国の史跡名勝天然記念物に指定される。
4月大山町出身の舞踊家吉続豊明が鶴岡幼稚園・酒田幼稚園を会場として研究所を設立する。10年8月には鶴岡家中新町大督寺境内に「仏教会館」(名称ルンビニイ会館)が風間幸右衛門の厚意によって竣功する。豊明はドイツモダンダンスの源流を学ぶ。
4月『酒田港繁昌史』発刊、著者大滝白櫻。
5月本間光正の寄附金を基礎として細民救済を目的とする。財団法人酒田弘済会を創立する。
5月14日下の山眼科医師佐藤清治が光丘文庫に美術工芸参考品、85点を寄附する。参考品はかつて東京帝室博物館に出品し、多年公衆の観覧に供していたのを、関東震災後、取り下げたもので、陶磁器を主とし、一々特色ある貴重品である。中でも法隆寺舊蔵の古寫經壹巻の如きは最も優秀にして国宝に値するものである。現在は本間美術館に移管されている。氏は十全堂社長として、酒田市飽海郡医師会長を兼ね、つねに深く仏教を信じ、公共慈善の志厚く、多年学校医となって施療する。(酒田港誌)
5月28日川村知事が「酒田港よ何處へ往く」というリーフレットを連盟会長中村禎吉に提示する。(酒田港誌)
5月31日右リーフレットを公開して、酒田町民の奮起を促す。築港促進連盟は成立以来、全町与論の中堅となって、各方面にわたり、活発敢為の運動を継続する。
5月当港河海分離工事が完成する。下瀬背割堤防より、南方突堤まで、700メートルの締切は、昭和6年11月より開始、冬季間は作業を休止し、4月下旬より再び着手して本日完成する。これを以て酒田築港の眼目たる河海分離は完了する。(酒田港誌)
5月庄内で初めて余目で農民がメーデーを行い、参加者全員(約150名)が検挙される。
5月『小野幸吉遺作画集』が刊行される。発刊者佐藤三郎。
6月2日市制施行促進連盟において「日本海に於ける重要港湾とその酒田港」なるパンフレットを各関係方面に配布する。
6月12日本間光正(陸軍騎兵中尉、本間家九代当主)が、船場町の下蔵跡に馬場をつくり、蹄友会(酒田乗馬倶楽部)を組織し、馬場開場式を挙行する。蹄友会は旧紀元節(現建国記念日)には雪風をついて市中行進をした。
7月23日工学博士宇田新太郎が酒田飛島間の無線電信につき調査し光丘文庫を参観する。(酒田港誌)
7月29日文学博士平泉澄が酒田高等女学校における夏期大学で講演ののち、光丘文庫を参観して古書を調査する。(上に同じ)
7月31日徳川義親が同校において講演し、夜間、光丘文庫に遊ぶ。(上に同じ)
8月10日帰省学生が集まって酒田演劇集団がつくられ、旗揚げ第1回公演(「朝から夜中まで」、人形劇「熊」、「カリガリ博士」)を港座で行う。
8月29日~9月1日まで、東京帝国大学史料編纂官伊木寿一、同編纂官補相田二郎は、光丘文庫において、本間家蔵の史料並びに古文書を展観する。
9月7日一等汽船々長神足徳三郎が南米デラボオカ共和国(República de La Boca)より、表彰状と勲章を授与される。明治17年1月、上台町徳太郎の次弟に生まれ、叔父寅治郎の養子となる。鳥羽商船学校卒業後、大阪商船株式会社に入り、海上勤務三十余年にして世界を周航する事二十回に及び、海の偉人と称される。(酒田港誌)
9月12日光丘文庫において参前舎理事長早野元光・同理事山田敬斎・文学士石川謙の心学講話会を開く。(上に同じ)
9月新井田川切替工事(新井田川口を船場町から現川口に切替える工事)を始め、11月完成する。
10月12日函館生まれの富山春吉ら一味十名の紙幣偽造団を酒田警察署で検挙する。
11月5日酒田市制施行について書類を内務大臣に提出する。
11月14日内務・大蔵の省議において酒田築港8ヵ年継続事業、工費165万円に決定、支出内訳、昭和8年度より、同14年度まで各毎年20万円宛支出、同15年度は25万円。(酒田港誌)
11月18日右事業費を閣議に上程した所、突然、三土鉄道大臣がこれに反対し、長期継続事業費の如き時局救済予算は、全部昭和9年度を以て打切るべき旨を述べる。そのため新規事業予算案は全部保留となる。(上に同じ)
11月21日酒田町当局、酒田築港促進連盟幹部等が急遽上京し、山本内相・三土鉄相・鈴木政友会総裁・内務省各局・貴衆両院議員等を訪れ意見を開陳する。また、本県選出代議士や上京の本県会議員と力を協せて、その事の達成に奔走し、民政党本部に太田貴族院議員を訪ねて援助を懇請する。(上に同じ)
11月22日閣議において妥協案がならず、2カ年継続打切案に内相は譲歩する。
11月22日遊佐町藤崎字茂り森の高山にあった大本教の東北別院(昭和2年頃建設か。この年の晩夏、王仁三郎は観音寺塚渕佐藤勇宅に三泊している)に出口王仁三郎の神聲歌碑がたてられ、完成式には本人が出席する。この頃本間光則をはじめ相当数の信者がいた。
 北海の旅路遥けしわれは今出羽の大野の雨聴きており
11月24日歯科医本間光則が没する。70歳。衆議院議員をつとめた本間耕曹の長男として西荒瀬村に生まれる。山形県における検定歯科医第一号となった。明治24年帰郷して実小路で開業する。町会議員、赤十字社や武徳会などに尽す。晩年は大本教の熱烈な信者となり清貧のうちに今町で没した。浄福寺に葬られる。
11月25日閣議において昭和8、9両年継続事業工費70万円を以て酒田港修築のことに決定する。
12月14日大工町から出火、上内匠町に延焼し、全焼5戸、半焼3戸、土蔵4棟を焼失する。火事
12月「出羽興民」(行地社)が発行される。発行人、斎藤正義。この頃「則天行地歌」がつくられる。作詞大川周明。
 一、久遠の理想抱きつつ
 混濁の世にわれ立てば
 義憤に燃えて血潮湧く
 ああわが胸に漲るは
 天に則り王道を
 地に行わん志
 (四番まであるが略)
12月中旬申請書通り酒田市制実施のことに、内務省局議が内定する。
北平田村不況打開同盟が創立され、会長に庄司柳蔵がなる。(県史資料篇二〇)
非合法で共産党酒田支部がつくられる。
この年庄内凶作。