酒田市立図書館/光丘文庫デジタルアーカイブ

酒田市史年表

明治期

明治(1868~1912)

年号選択
 
元号年月日事項文キーワード
明治30年18973月近江町より出火し、18軒を焼失する。(伊東家文書)
4月現産業会館の処に酒田商業会議所が創立される。初代会頭、小山太吉。
4月第八十一国立銀行酒田支店内に株式会社両羽銀行酒田支店が設置される。
4月安祥寺裏畑に小学校(高等科)女子部が設立される。
5月27日文博、教育者西村茂樹が来酒する。酒田尋常高等小学校において国民道徳の講演をする。酒田支会(のち飽海支会と改む)時に起る。同32年6月27日再遊し、飽海郡会議事堂で修身講話をする。(酒田港誌)
6月第八十一国立銀行酒田支店が廃止される。
6月酒田と鶴岡の有志が鶴岡水力電気会社の創立を計画する。
大凶作、ウンカ大発生。9月になっても青稲で前代未聞の凶作である。米相場は2~3月頃4円60~70銭。11月頃新米7円15銭となる。このとき加茂の秋野惇蔵が神戸より函館回しで酒田に南京米を移入して危機を救う。(遊佐町史年表)
10月船場町に合資会社酒田正米買入所が創立する。営業種類、正米売買及び委託販売。重役古屋太七。初め染屋小路において営業、そのあと本町七丁目に遷り、明治40年ころに船場町に遷って営業をする。(郷土誌・地)
10月東田川・飽海両郡から高水堤防工事の起工を知事に請願する。
10月18日文豪幸田露伴(遊行雑記)が米沢出身の文学者大橋乙羽(千山万水)とともに来酒する。このときの紀行碑が日和山公園にある。露伴は明治25年7月にも土崎港から汽船で酒田に向ったが、嵐のため寄港を断念している。
11月教育者本間與吉が没する。34歳。俊明・宣徳。本町七丁目に生まれ明治初年山形県師範学校を卒業。哲学館に学び、琢成学校の教員となる。酒田青年会を組織し、雑誌『岳南の青年』を刊行する。
本間家が同家の小作人を指導する目的で本間農場を設置し、各種の農事試験を行う。
酒田三品取引所が創立され、塩・石油・株式を取り扱う。
飽海郡役所を改造し、さらに平家造の庁舎を新築する。坪数168坪。工費5095円
広岡新田で梨・西瓜・桃・ブドウ等の西洋種の栽培を始め、いわゆる黒森船で酒田へ販売する。
酒田・秋田間を資本金280万円で鉄道を敷設しようとする羽後鉄道が計画され、政府に許可申請する。(遊佐町史年表)
この頃、刈屋に本楯の伊藤勘助が梨の新品種長十郎を植える。(刈屋梨栽培のあゆみ)
堀切り藤井伊一・本町森重郎が羽後国立花会頭職を名乗り、池坊の伝統をついでいる。
この頃から客馬車も走るようになる。荷馬車・荷車もしだいに多くなってきた。自転車もみられるようになる。
庄内柿の品種改良により、種なし柿の苗木を分譲する。(遊佐町史年表)
海軍大将元帥伊東祐亨が新潟より船で来港し、伝馬町三浦屋に宿する。翌日再び船に乗って秋田に行く。(酒田港誌)
酒田回遭業組合が設立する。(郷土誌・地)