酒田市立図書館/光丘文庫デジタルアーカイブ

酒田市史年表

江戸時代

元文(1736~1740)

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元文5年17402月14日稲荷小路から出火し、12軒が罹災する。うち7軒は破壊消防による。火事
光丘文庫地内にこの年3月19日建立の石幢型の珍しい庚申塔がある。これは市内では二番目に古い塔である。
4月4日寺町から出火し、37軒を焼失する。火事
4月17日稲荷小路から出火し、19軒を焼失する。火事
5月17日塩飽島丸尾の久三郎船が佐竹右京太夫のとどけ米三千俵を積んで秋田を出帆、19日朝五ッ頃(午前八時)東風にあう。22日雨天で大波のため海水が船体に入る。23日辛じて飛島にたどりつき、濡米225俵が出る。(飛島誌)
5月22日播州高砂の三浦有隣斎(迂斎)が紀行した折の「東海済勝記」によると、有隣斎が宿泊していた加賀屋六兵衛宅へ本間光寿が訪ねてきて、茶事の案内を受けたことが記されている。 「山寺・飛島を経て酒田に至る、狩川より七里、猟師町といふ所に宿かりてしばらく休み、ゆかりある加賀屋何某がもとにおとづれぬれば、其の家のあるじ、叔父なる、甥なる、あまた出で来て、江戸を立ち給ひし日並のとく聞えぬれば、あとの月の初めよりまち侍る、あるじっかふまつりてん、などいひて下部ども具し来り、行李かつがせて伴ひ行きぬ、そのやどりに行きて見ればいづくもかきはらひ、簾青やかにかけわたし、風のおとづれもにくからず覚ゆ、此家はもとよりゆかりのあれば、旅のつかれをも休めなぐさむるに、たつき出来ぬる心地ぞしぬ。此所の女、外へ出るを見るに、ひとへものをかつき歩き行く。上方の被衣に似たり。しづの女までも斯して衿を内より手にて持、面あらはにせず」。(東海済勝記) かつぎは最初京都から流入されたが、たちまち流行し、「庄内かつぎ」とよばれるものができた。かつぎに地方名がついているのは京都と庄内だけという。
5月下旬から鳥海山噴火。「5月、山上瑠璃壺・不動石・硫黄谷、火を噴き、東西三百間、南北八十間を焼く。」寛延元年まで続く。(遊佐郷大庄屋阿部氏御用留)
7月酒井忠寄に命ぜられた日光山諸堂祠修繕の工が成る。その費用48,470両に達する。(荘内歴史年表)
11月18日本間家中興の祖、本間久四郎原光が没する。法名、濳神院釈宗旦。67歳。俳号金英、下日枝神社の本殿と拝殿の間に光丘が寄進した常夜灯2基に原光と光寿の法名が刻まれている。(荘内経済年表)
出町の皇太神社はもと台町の北大神宮山にあったが享保19年焼失後、この年現境内に移建する。
元文年間、八雲神社は八軒町文殊院境内にあり、牛頭(ごず)天王と称する。
大庄屋斎藤半内が湊口銭方となり、売買口銭を百両につき一両二歩の取立てとし、1,700~1,800両より2,200~2,300両までの上納をする。(酒田港誌)
本間俊安が本町一丁目に分家して医を開業する。
飛島家数198、人数1,554。その他水子・下男・旅人・役人の出入が多いことから年間17,890俵の飯米が必要と主張する。(飛島誌)
貞女みや、台町清右衛門の妻、清右衛門が蝦夷地に渡って別世帯を持ったため、みやは独力で生計を立て、女児を養育するとともに姑に孝養を尽した。この年11月夫が帰ってくる。