弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

資料編3(近世編2)

新編弘前市史 資料編3(近世編2)

第7章 藩政期の人々の生活と文化

 本章では、藩政初期から幕末期まで、すなわち資料編2(近世編1)の藩政前期をも含めて人々の生活の実態を扱った。
 第一節「武家の生活」では、藩主と藩士の生活を取り上げた。第一項では、藩主の生活の実態は、第七代藩主津軽信明(のぶはる)が弘前在国中に書き記した「在国日記」によって知ることができる。紙幅の関係で抄録にしたが、信明の生活を通して歴代藩主の生活が推測できよう。第二項では、藩主の住居として弘前城の絵図のほかに江戸屋敷図を示した。特に、後者の江戸藩邸は、上・中・下屋敷と三つに分かれていたが、収録した藩邸の屋敷図は上屋敷の図であって一般にあまり知られていないものである。
 第三項は、藩士の江戸と国元における生活の様子に関するものである。「江戸御留守居役勤方覚」によって、江戸で留守居役が、幕府と公務の連絡や他藩の留守居との交際・連絡に当たっていた様子が知られる。また、「江戸御屋敷勤方御用留」からは、江戸屋敷での勤務の状況をうかがうことができる。「旅籠帳」からは、勤番の藩士が毎日の暮らしに、どのような品物を買っていたかが分かり、またその他種々の出費の状況も知られて興味深い。
 国元での生活は、主として「弘前藩庁日記(国日記)」によってその様子を知ることができる。掲げた史料は衣食住の規定をはじめとし、幕末に至り、藩財政の窮乏から生活困窮に陥るまでの藩士の生活について、その概要を示したものである。
 そのほか、「御家中屋敷建家図」は、宝暦期における弘前城下の上級から下級藩士の屋敷地を書き上げたもので、間取り図とその建家坪数等が詳細に記された資料である。建築史・風俗史等の各分野においても価値の高い資料である。
 第二節の「農村の生活」は延宝九年(一六八一)制定の「農民法度」など、藩政確立期における農民統制の基礎となる基本法ともいうべき重要な法令を収録した。当法令を踏まえて、この後農民を農業に専念させるために、衣食住や耕作についての心がまえや、その他生活の細かな部分の規定に関するものが数多く出された。
 さらに、農作業の日程表からは、農民が稲作にどのように従事していたかを読みとることができる。農民の生活については、「天和の唐竹村書上」(資料編2第五章第二節)をも参照していただきたい。「晴雨日記」は幕末における弘前城下近辺の農村の様々な出来事を記した記録である。 (解説 黒瀧十二郎)
 第二項の「農村の変容」では、十八世紀後半以降の、主として土地所有の実際と移動が把握できる堀越組小比内村庄屋の小山内家文書を掲載した。村内に所在する家臣団の知行地の在り方を示す寛政七年(一七九五)「御家中知行田畑帳」からは、弘前藩の知行制の実態が浮かび上がってくる。年貢収納機構と村請制の問題も含め、今後、この種の知行田畑帳の収集と分析が、弘前藩の基礎構造研究に必要であろう。
 第六章第一節とも深く関連するが、特に宝暦・天明期以降、農民層の二極分解、もしくは下層農民の富裕層への経済的依存が顕著になっていく。田畑・屋敷等の永代譲渡証文の増加が具体的にそれを示している。富裕層による土地集積や、その一方での日雇いや仮子の増大は、大庄屋制度や人別把握など、農村政策の背景となるものである。これら証文類は、その変容を示す代表的な史料であり、またそこから読み取れる事柄も多い。本項では小山内家文書の多くを占める土地移動に関わる証文類のうち、代表的なものを掲げておいた。
 なお、安政五年(一八五八)「入置申一札之事」は、家を出た妻が、再度夫のもとに戻った際の詫状である。「髪ヲたつ切、鼻を剃れ候ても」構わないという文言を含んだものであり、女性史の観点からも興味深い史料である。 (解説 瀧本壽史)
 第三節の「町場の生活」では、町人が記した生活に関する記録類が意外と残されておらず、収録史料は限られたものとなった。なかでも延宝九年(一六八一)制定の「町人法度」は、町人統制の基礎となる基本法ともいうべき重要な法令である(資料編2第二章第一節一参照)。その後、衣食住を中心とする生活に関する法令が再三出されたが、これは支配者側からの統制を強化する法令であった。
 一方、幕末に書かれた町名主の「御用留」から、新町(あらまち)名主中畑忠三郎が記したものを一点取り上げたが、弘前城下の町人の動向を知ることができよう。
 第四節「人々の風俗と慣習」では、藩士・農民・町人を区別せずに、年中行事・日常生活・祭礼と旅についての史料を掲載した。第一項には、主な年中行事を挙げ、なかでも「年中家之定法」は町人の家の行事と思われるが、一年間の行事内容を記したもので興味深い。
 第二項では、「奥民図彙」「津軽風俗画巻」「弘藩明治一統誌月令雑報摘要抄」に描かれている絵を中心とした史料から、さらに「弘前藩庁日記」に記されている史料によって、人々の生活の様子を浮き彫りにしようと試みた。
 第三項では、弘前城下の八幡宮祭礼と藩士の旅に関する記録を収録した。特に後者の「万覚扣」は、弘前から江戸・京都に至る藩士の旅日記で、旅の様子がよく描かれている。「御用留」は江戸上りを命じられて、江戸藩邸で勤務していた際に書き留めた公務日誌である。 (解説・黒瀧十二郎)
 第五節では「学芸の隆盛」を取り扱った。まず第一項は「藩校と学問」とし、藩校「稽古館」の関連史料を掲載した。
 寛政六年(一七九四)十月、藩校創設に関する触れが出された。そこでは、学校とは「礼節を講じ人道を明らかにする基にして、孝悌忠信の教え皆是より出る」ところであると創設の意義が宣揚され、これまで当藩にこうした教育機関のなかったことを遺憾とし、明春から造営に取りかかるので、創設の暁には「御家中の子弟一統に文武之道相嗜様」にと、学業督励が謳われた。
 これより先、四代藩主信政のころから「城中講釈」が行われ、好学の八代藩主信明は萩生徂徠の弟子宇佐見灊水に師事し、講釈日を定例化するなど、藩校創設への強い意図を持ちながら、寛政三年(一七九一)に没した。藩校創設はこれを継承した九代藩主寧親の代の一大事業であったと言えよう。
 寛政六年八月、津軽永孚(ながざね)を総司として、山崎図書等に学校御用懸が仰せ付けられ、創設に向けて準備が着々と進められ、寛政八年(一七九六)七月九日には入学式を迎えるに至った。学校は「稽古館」と名付けられ、陣容を整え、釈奠(せきてん)(孔子を祭ること)・養老の祭事も執行されていた。しかし、文化年間に至ると松前御用のため規模縮小や休業を余儀なくされていった。それでも時代の要請に応えて、西洋兵学や蘭学を取り込みながら、新政府のもと明治五年(一八七二)十一月、私立東奥義塾として発足するまで歴史を生き延びた。
 本節では、こうした稽古館の歴史的経過をたどれるよう、「弘前藩庁日記」・「稽古館創記」・「封内事実秘苑」等の史料から重要と思われる記事を抽出して、年を追って編纂した。
 なお、釈奠・養老に関する記事が他藩に比較して豊富に見られるが、これらの記事は儒学史・社会史の視点からも興味深く大いに役立つものと思われるので、別項にこれをまとめた。釈采(せきさい)に関する記事が豊富であるという事は、取りも直さずこれを重んじた当藩の学校方針と特色の一端を物語っていよう。
 また第二項では、思想関係の史料として平尾魯僊(仙)の『幽府新論』、毛内有右衛門の『志記』、森内左兵衛の『復政談』を取り上げた。各々の史料の冒頭に解説を付してあるので参照願いたい。 (解説・小島康敬)
 第三項では、工芸分野のなかでも弘前市や津軽地方とゆかりの深い「津軽塗」に関する資料を集成した。
 内容は、一、塗物の生産と技術、二、進物・献上品としての津軽塗、三、塗師の三項に分け、主として、「弘前藩庁日記 国日記」(弘前市立図書館蔵)と近衛家の雑事日記(京都市陽明文庫蔵)から、関係資料を集めた。最も古い記事は、寛文四年(一六六四)であり、それ以降幕末までの期間の記事を収録した。またこのように三項に分けたのは、純粋に工芸技術的な側面に拘泥するのではなく、津軽塗が近世社会にあってどのように発展を遂げてきたのか、いかなる技術集団がこれらの工芸品を製作し、それらが社会的にいかに活用されたのかなど、津軽塗をめぐる社会状況を藩政資料から追跡しようという目的に基づいている。
 なかでも特に目につくのは、藩政後期に入ると、藩主の津軽家が塗物を領内特産品として注目し、朝廷や将軍家をはじめとして、他の大名家、近衛家などの公家への進物ないし献上品として位置づけていることである。ここに津軽塗が全国的な知名度を獲得する素地が形成されたものと考えられ、おそらくそれらの製品が好評でありかつ名声を博したことから、現在につながる名産品としての基礎づくりがなされたのであろう。
 津軽塗に関しては、弘前市立博物館から刊行された『津軽の伝統工芸 津軽塗』(一九八一年)をはじめとして多くの研究書や啓蒙書が刊行されているから、それを御覧いただくとして、ここでは特にそれについての解説をすることはしない。また塗物の原材料となる漆木の栽培関係については、資料編2の第四章「産業と海運の発達」第一節「殖産政策の展開」の「三、漆仕立」を参照されたい。また貞享期の村方における漆栽培については、同書第五章「藩政時代の町と村」第二節「村方の様子」を参考にしていただきたい。
 紙幅の関係から、塗物秘伝書などに代表される技術関係の伝書類は、掲載できなかった。 (解説・長谷川成一)
 第四項は「来遊の人士」とし、東北地方を巡遊した菅江真澄と幕府巡見使に随行して視察した際の見聞を綴った古川古松軒の紀行文の中から、弘前市域及び関係地域の部分を掲載した。 (解説・黒瀧十二郎)