弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

資料編3(近世編2)

新編弘前市史 資料編3(近世編2)

第6章 幕藩体制の動揺と民衆

 本章では、基本的に十八世紀中期の宝暦期(一七五一年~)から安政元年(一八五四)の箱館開港にいたる約一〇〇年間を扱っている。この期間は、概ね次のようにとらえることができよう。
 宝暦期とそれに続く明和・安永・天明期の約三〇年間は、近世社会の大きな転換点・分岐点として認識されている時期であり、宝暦・天明期として一括して把握されてきた。この時期は幕藩体制に動揺が生じ、次の時代に連なる諸要素が形成され始めた時期である。一方では、ロシアの南下をはじめとする対外危機が表面化し始める時期でもあり、海防や蝦夷地開発の問題など、その後の国内政治と密接な関連を持つようになっていく。そしてこれらの状況は、幕府や諸藩に種々の改革を必然化させながら、幕藩体制の解体と幕末維新の変革に直接影響を与え、さらに鎖国体制の枠組みを大きく崩した日米和親条約による下田・箱館開港につながっていくことになる。藩政の展開もまたこの大きな流れの中に位置づけることができる。
 本章においては、社会状況の変質および対外危機とそれへの領主的対応、そしてその中での民衆の動向をあとづける意図から、「後期藩政の展開と社会状況」「藩政改革の実施と黒石藩の成立」「蝦夷地警備と開港下の政治動向」「後期藩政下の民衆」の四部構成をとっている。周知のように、この約一〇〇年の間にはさまざまな個別の重大事件が生じている。しかしその背景を探るとき、これらはいずれも密接に関連しているのであり、社会全体に生じた時代の大きな変化を、本章の表題である「幕藩体制の動揺と民衆」をキーワードにとらえていければと考えている。
 第一節では津軽弘前藩の寛政改革を招来し、藩体制解体への起点となるような社会状況の変質と民衆運動(一揆・打ちこわし)を扱った。第一項では、宝暦・天明期の社会状況として、藩政改革を必然化し、その後の藩政の課題として上げられていく諸要素について基礎構造に主眼を置いて項目立てを行った。
 第二項では、第一項の状況に規定されて窮乏した藩財政が、大坂・江戸の諸銀主との関係から飢餓移出をせざるを得ない状況にまで陥っていること、そして、知行の借り上げや蔵入地化などの家臣団への負担転嫁が日常的となり、藩財政が極めて逼迫した状況にあったことを示した。言うまでもなく、藩政転換の大きな要因、または契機となったのがこの時期に連年続いた不作・凶作であった。特に宝暦五年と天明三・四年の大凶作は飢饉となって、藩の基礎構造や財政構造に大きな打撃を与えたのである。
 第三項では、天明三年(一七八三)の打ちこわしと文化十年(一八一三)の民次郎一揆を主に扱った。一揆・打ちこわしの要因は一つではなく、当該期の社会状況を背景としている。天明三年の打ちこわしの根底には、第一項で示した宝暦期以降の農村状況が大きく影響していた。また、文化十年の民次郎一揆の背景には、享和期(一八〇一~〇三)以降の開発策による重い負担と年貢収取の強化、それに蝦夷地警備のための郷人夫の差し出しによる農村の疲弊があったことが読みとれる。なお、民次郎一揆については、第三節の蝦夷地警備との関わりで述べた方が一揆そのものについての理解は得られると思われるが、先述したように、本章で扱う約一〇〇年の時代を近世社会の中で大きくとらえようとする意図からここでまとめて扱った。当該期の一揆・打ちこわしの大規模化・広域化、要因の多様化、そして組織的行動様式という共通項をくくりだすことができよう。
 以上、第一節で示された状況と課題は、その後の領主的対応を導き、規制していくことになる。いわゆる藩政改革である。基礎構造を中心とした社会変動は階級支配の変質・動揺をもたらすことから、それへの対応として、支配体制の再編が目指されたのである。当藩においては、十八世紀初頭の年貢高の頭打ちを前提として、凶災による農村の疲弊と貨幣経済の進展を背景とした藩財政の窮乏は、特に天明飢饉に特徴的に見られるように、本百姓の絶対的減少、荒れ地の増大をもたらしたことから、農民的剰余を強力に収取するのは不可能に近い状況であった。ここに、家臣団編成を藩財政窮乏の克服にいかに有効に活用していくかが、藩政の課題として藩当局に認識されてくるのである。 (解説 瀧本壽史)
 第二節は、この課題克服のために行われた寛政改革と、その後の藩政の動向を天保期(一八三〇~四三)頃まで見通したものである。寛政期以降、多大な出費と動員数を必要とする蝦夷地警備という新たな軍役負担が、藩政の動向を左右してくることから、本節の背景にはすべてこの蝦夷地警備の問題が少なからずからんでいるが、蝦夷地警備の展開は時間軸でとらえた方が理解しやすいと考え、第三節に一括した。
 第一項では寛政改革をとりあげた。当藩の藩政改革ではすでに『資料編2(近世編1)』において乳井貢による宝暦改革をとりあげている。宝暦飢饉と天明飢饉を直接の契機としながらも、両者は基礎構造の変質度の差異と対外危機の有無という点で、大きく性格が異なっている。宝暦改革が体制維持の復古的改革という性格が強いのに対し、寛政改革は財政再建と対外危機を支配体制の再編によって打開しようとした改革であった。しかも藩体制の枠組みを維持しつつ、表面化してきた矛盾を体制の中に取り込もうとした、先取的性格を有した改革といえる。『近世編1』の最後を宝暦改革とし、『近世編2』の最初を宝暦・天明期の社会状況として設定した理由でもある。
 最初に改革意見書をとりあげた。藩政の現状認識と課題を明示し、それへの対応を具申した意見書は、改革を総合的に把握する絶好の史料である。これまで荻生徂徠の『政談』を理論的背景とした毛内宜応の意見書がとりあげられることが多かったが、ここでは、寛政改革の推進を図るために、郡奉行・勘定奉行に登用された赤石安右衛門と菊池寛司の意見書「覚」を採用した。寛政改革の理論的根拠となったものである。
 赤石・菊池らによって積極的に推進された寛政改革の中心政策は、藩士土着政策(「在宅」政策)であった。この時期、密接に相互規定しあっている藩財政と藩士財政双方の困窮を、より強固な農民収取を可能とする地方知行制の導入によって藩士財政を自立させ、彼らによる農村支配を厳格にすることによって藩財政基盤を確立し、また藩士への経済援助を断ち切ることで藩財政の困窮を克服しようとした政策であり、宝暦以降の農村状況と寛政期以降の蝦夷地警備がその背景にあった。「国日記」の記載を中心に、天明四年令から寛政十年(一七九八)の廃止に至る経緯と廃止後の対策に関する法令を掲げたほか、在宅藩士の一覧表を付した。
 第二項は、寛政改革失敗後の文化・文政期の藩政が、廃田・新田の復興・開発に本格的に取り組むとともに、国産奨励策を積極的に進めていったこと、および、文化の高直りとそれにともなう津軽黒石藩の成立について扱った。
 前者は、藩士土着政策によってなし得なかった藩財政窮乏の克服を、百姓からの年貢収納量を増加させるという基本原則に立ち返ることで図ろうとしたものである。この政策は、生産を支える水利関係の整備や、農耕従事者の確保策をともなったことから一定程度の成果を収めることになるが、蝦夷地警備の継続の中での開発強化は当然農民の負担増を招くのであり、ここに、前掲の民次郎一揆などを位置づけることができる。
 文化の高直りは、この継続する蝦夷地警備への功によって領知高が文化二年(一八〇五)に七万石に、さに文化五年に十万石に上昇したものである。ただし、新たに領地を幕府から拝領したのではなく、同じ領地内での名目だけの石高増加であったことから、家格の上昇と引き換えに蝦夷地警備の軍役負担・財政負担が一層増すことになった。黒石藩の成立もこの流れの中でとえられる。交代寄合の旗本である黒石の津軽親足を一万石の大名に昇格させることで、弘前藩主とともに、蝦夷地警備の軍役を強化しようとしたのである。
 なお、幕府は弘前・盛岡両藩の反目と家格上昇志向を巧みに利用しながら蝦夷地警備の強化を図っていたが、ここに文政三年(一八二〇)の津軽寧親の侍従昇任を原因とする相馬大作(下斗米秀之進)事件が起こった。この事件は江戸においても評判になるほどであったが、一連の過程を「封内事実秘苑」によって示した。
 第三項は、天保飢饉とその後の藩政を扱った。天保年間は三年(一八三二)から十年(一八三九)まで、五年を除き七カ年の凶作に見舞われるが、特に四年・七年・十年は大凶作となった。藩財政の一層の窮乏への対応は、備荒貯蓄・倹約の励行・知行借り上げ・面扶持の実施、富裕層への御用金の賦課など従来の政策範疇を越えるものではなかったが、なかでも、預かり手形の発行を特色ある政策としてあげることができる。
 領内米穀の買い上げ手段として、御元方の田中勝衛によって企図され、「宮崎札」の通称で天保八年十月に発行された預かり札は、正金銭に交えて領内での通用も図られた一種の藩札であった。廻米によって金銭を獲得できる領内米の払底、食料の購入による金銀の領外への流出等で領内の貨幣が著しく不足し、融通が閉塞して領民が困窮に及んだために発行されたことが史料から読みとれる。翌春に払い米の代金が得られるまでの政策であり、同年の収穫を見込んでのものであったが、結局天保八年も不作で、買い上げすべき米穀が出回らなかったために、札価が下落して物価の変動をきたし、領内経済が混乱するに至った。ただ、買い上げ米の主な対象が藩士たちの知行米であったこと、預かり手形の発行数が少なかったこと、通用期間が短かったことなどから、失敗の影響は小さかったとされている。かくして宮崎札の多くは、引き換え不能の紙幣として藩士たちの手元に残ることとなったのである。
 宮崎札の発行は、その通用についての規定もなく、極めて一時しのぎ的なものであったが、富裕な御用達商人の保証する手形であり、その信用によって通用を図ろうとしたところに大きな特徴がある。藩の信用を背景とした宝暦期の標符と最も違うところでもある。これに関わって、宮崎札の発行とほぼ同時に「弘前大問屋」が設置されたことは見逃すことができない。郡中の問屋を彼らの指揮下に置き、領内の流通を取り仕切らせるもので、諸湊・三関所の出入り荷物についても把握させている。この時期、藩が商人による商品流通統制を目指していたとすれば、宮崎札の捉え方も今後変わってくるのではないだろうか。弘前大問屋五人がいずれも米穀商売家業の商人であったことも興味深い。
 なお、この宮崎札については、長谷川成一『弘前藩における藩札の史料収集と研究』(日本銀行金融研究所委託研究報告No.4平成七年)を参考とした。同報告書では、天保九年に予定されている幕府巡見使の下向による財政支出の増加を賄う必要があったことを、宮崎札発行の動機の一つとして指摘している。
 第三項ではこのほか、化政期以降の藩政の流れの中で、より積極的に推進された殖産策としての漆木の植林と、農業従事者確保のための徹底した人別把握の実施についても示しておいた。特に文久三年(一八六三)の面改めは、役人が直接各町・在に赴いて家別に行うもので、田畑・屋敷・牛馬・持船などの調べも伴う、藩あげての徹底した内容であった。 (解説 瀧本壽史)
 第三節は、弘前藩の蝦夷地警備について、寛政年間以降安政期まで「国日記」を中心に時間軸にそってあとづけるとともに、蝦夷地警備と藩士・民衆との関わりの一端を集成した。なお、第一節、第二節で掲げた藩財政の窮乏、民衆の一揆、寛政改革、文化の高直りと黒石藩の成立などの背景に、この蝦夷地警備があることについては、既に述べた通りである。
 弘前藩の蝦夷地出兵は寛文九年(一六六九)の「蝦夷蜂起」に始まるが(資料編2第二章第二節参照)、その後、寛政元年(一七八九)まで松前派兵の幕命は下っていない。以下、蝦夷地警備の概略を年次的に示して、本節の理解に供することとする。
 寛政元年五月、飛騨屋久兵衛請負の国後場所およびその対岸のメナシ地方で、日本人出稼ぎ者の横暴に苦しむアイヌが決起し、津軽領の三人を含む和人七十一人を殺害した。当時「蝦夷騒動」と呼ばれた事件である。この騒動にあたり、松前より要請のあり次第出兵すべき旨の幕命があり、弘前藩では合計一六五〇人の出動態勢を整えている。しかし、八月、松前より鎮定の報告があり、結局派兵せずに終わっている。
 三年後の寛政四年(一七九二)九月、ロシア使節ラクスマンが船頭光太夫を送って根室に来航し通商を求めた。幕府は、石川忠房らを宣諭使としてラクスマンと福山において会見させるために、その護衛として弘前・盛岡両藩に松前派兵を命じた。弘前藩はこの幕命により、山田剛太郎以下二隊二四二名を編成し、翌五年三月、三厩から松前へ渡海させている。しかし、ラクスマンに対して長崎入港の信牌を与えて引き取らせたことから、格別の争いもなく八月に帰弘した。
 なお、老中松平定信を中心とする幕閣は、このような蝦夷地をめぐる一連の動向の中で、弘前・盛岡両藩領の三~四千石を村替で幕領とし、青森・三厩を候補地として北国郡代(奉行)を設置する構想を立てている。この構想は定信の失脚によって挫折したため本節では取り上げなかったが、その構想は、蝦夷地直轄という、より積極的な蝦夷地対策に引き継がれていくことになり、弘前藩は否応なくその先鋒を担わされることになる。
 幕府が蝦夷地直轄に乗り出す直接の契機となったのは、寛政八、九年、ブロートン指揮のイギリス船プロビデンス号が、大陸東岸の測量を行いながら蝦夷地各地に出没した事件であった。同九年九月に松前警備を命じられた弘前藩は、侍大将山田剛太郎以下五〇〇人の警衛隊を編成し、十一月から順次出発してその任についた。ただし、この時の派兵は、同十一年までの勤番と定められたもので、事態が収拾されれば帰還できるというものではなかった。
 その寛政十一年(一七九九)、幕府は東蝦夷地を七年間の御用地として直轄統治に踏み切り、以後、享和二年(一八〇二)には東蝦夷地を永久上知、さらに文化四年(一八〇七)には松前藩を陸奥梁川九千石に転封し、松前・蝦夷地一円を幕領化していった。蝦夷地の直轄は、対露関係の相対的緩和によって、文政四年(一八二一)に松前藩に松前・蝦夷地一円が返還されるまで続くことになるが、この間、弘前藩は一年の休みもなく蝦夷地の警備に当たらなければならなかった。先述した第一節、第二節に関わることが基本的にこの時期に集中しているのは、このためである。
 なかでも、ロシアが樺太クシュンコタンや択捉などの日本側施設を攻撃(いわゆる択捉事件)した文化三、四年は日露関係が最も緊張した年であり、弘前藩の渡海人数も千人を越え、財政的にも多大な出費を要した年であった。弘前藩における蝦夷地警備関係史料で最も多いのもこの択捉事件に関する記述であり、いかに藩政や家臣団、一般民衆に大きな影響を与えたかが伺える。本項では、この間の事情を伝えるとともに、斜里での厳しい勤番の状況を記載した、齋藤勝利「松前詰合日記 全」と、斜里町の禅龍寺に残る、文化六年「シヤリ場所死亡人扣」を全文掲載した。ともに著名な史料でありながら、これまで全文活字化されたことがほとんどなく、入手しにくかったものである。なお、この期の西蝦夷地警備の拠点であり、北蝦夷地への渡海口でもあった弘前藩宗谷陣屋については、瀧本壽史「弘前藩宗谷陣屋をめぐって」(『年報市史ひろさき3』)を参照されたい。
 文政四年(一八二一)に蝦夷地警備を解かれて以後は、三厩詰と沿岸警備に専念することになるが、安政元年(一八五四)の日米和親条約で下田・箱館が開港。幕府は翌二年、松前藩領を除いて再び全蝦夷地を直轄地とし、仙台・秋田・盛岡・松前各藩とともに弘前藩に蝦夷地警備を命じている。さらに安政六年、弘前・盛岡・秋田・仙台に庄内・会津を加えた奥羽六藩に蝦夷地の一部を給与し、その開発・経営をさせながら防備に当たらせる体制に変更している。弘前藩では寿都から瀬棚までを領地として与えられ、寿都に陣屋(通称「津軽陣屋」)を建設したが、他藩同様、積極的な経営策をとることなく、戊辰戦争の過程で撤収している。なお、寿都の陣屋については『寿都町文化財調査報告書』Ⅱ(寿都町教育委員会 昭和五十五年)が刊行されている。
 以上が、弘前藩の蝦夷地警備の概要であり、第一項の構成を、寛政年間、文化四年、文政四年、安政期とした理由でもある。なお、蝦夷地警備を、弘前藩に成立期から幕末まで課せられた公役の中に位置づけて詳細に分析したものに、長谷川成一「北方辺境藩研究序説」(同氏編『津軽藩の基礎的研究』国書刊行会 昭和五十九年)があるので参照されたい。
 このほか、蝦夷地警備との関わりで、出兵藩士死亡にあたっての家督相続の問題、渡海安全祈願と死者供養の問題、警備人数の大半を占めていた農民層に関わる問題、そして幕府の蝦夷地直轄化にともなうアイヌ民族への同化政策に関わる問題について、紙幅の許す範囲で掲載した。掲載史料のうち、弘前八幡宮文書については長谷川成一「近世北奥大名と寺社」(尾藤正英先生還暦記念会編『日本近世史論叢上巻』吉川弘文館 昭和五十九年)、高照神社「御告書付」については瀧本壽史「弘前藩『御告御用』の基礎的考察」(弘前大学『國史研究』第九十八号 平成七年)、「忍ぶ草」については同「弘前藩蝦夷地警備関係史料『忍ぶ草』」(『年報市史ひろさき3』口絵解説)、蝦夷改俗関係については菊池勇夫『北方史のなかの近世日本』(校倉書房 一九九一年)をあわせて参照されたい。 (解説 瀧本壽史)
 第二項では、幕末期の武備の充実について取り上げた。幕末期の弘前藩にとって最大の課役が北方警備であることは言うまでもないが、それに対して藩内では様々な軍事訓練が実施された。現在の南塘グランドは当時風光明媚な溜池であり、庶民の憩いの場でもあったが、文化年間よりたびたび水練場として整備され、大矢場も設置されて、盛んに藩士の調練が行われた。また、城南の宇和野でも軍事演習が藩主臨席のもとで実施された。ここでは、それらの様子を「御用格」・「国日記」を中心に紹介した。
 さらに、北方警備にともなって武器も西洋式銃器が積極的に導入された。すでに文久年間には施条銃のミニエー銃が藩士に貸与され、洋式小銃は「当時必用之利器」と認識されていた。こうした動向は戊辰戦争時の軍制改革の下地となり、明治元年(一八六八)に短期間で藩兵の西洋式改変を可能にしたのである。 (解説 坂本壽夫)
 第四節「後期藩政下の民衆」で掲げたのは、「金木屋(かなぎや)日記」嘉永六年(一八五三)の一年分である。同日記を通じて、藩政後期の弘前地域並びに津軽地方における民衆の世界を探ろうとの目的に基づいている。「金木屋日記」自体は、弘前市立図書館八木橋文庫に所蔵されており、天保八年(一八三七)から慶応元年(一八六五)に至る(途中天保九年から嘉永五年に至る期間と文久三年の一年分が現存していない)、二一冊の日記である。
 筆録者は、武田又三郎敬之(たけだまたさぶろうたかゆき)、弘前城下の本町(ほんちょう)で質屋・酒屋を経営し、山一金木屋の店名を持ち城下のみならず領内でも有数の有力商人として活躍した人物である。日記を記録し始めたのは、家業の不振から弘前の隣町岩木町の賀田(よした)へ彼が転居して後のようである。しかし内容は後述するように、これも領内有数の商人であった別家の金木屋(屋号カネキ、〓、甚左衛門家)との交際をはじめ、幕末の政情や商売に関する情報など、ビビッドな記述に溢れていると言っても過言ではない。
 本節で嘉永六年(一八五三)を特に選定して掲載したのは、次の理由による。周知のごとく、同年六月にアメリカ海軍の提督ペリーに率いられた、いわゆる黒船の来航によって、国家全体が大きな衝撃を受け、以後、開国に向けて大きなうねりが始まり、幕藩体制は急速に崩壊の道を突き進むことになる。また蝦夷地では、同年十一月にクシュンコタンにロシア船が来航して乱暴を働くなど、同年は北と東から幕藩制国家が深刻な脅威にさらされた年でもあった。同日記にもペリー来航記事とともにロシア船の来航記事が共に詳細に記録されており、庶民の世界に国家的危機がどのように受け止められたのか。海外情報に揺れる民衆の状況や、経済変動が生活にいかなる影響を及ぼしたのかなど、幕末における民衆生活史を知る上でもまことに適切な年ではないかと考え、同年の日記を掲げることにした。
 金木屋敬之は、賀田へ転居したとはいえ酒屋を同地で経営しており、鯵ヶ沢湊や青森湊から廻船によってもたらされた全国の情報の収集に余念がなく、弘前、黒石、五所川原などにおける諸品の相場、物価などを克明に記録して経営に資するようにした。加えて城下有力商人であったことから、家老の大道寺(だいどうじ)氏ほか藩の役人達とも親交があって、藩政に関わる情報も漏れなく収集している。また居住地賀田の周辺の農作物のでき具合や弘前を含め近隣の人々の行事・生活習慣などもくまなく記している。なかでも日々の天気付けは詳細かつ克明であり、一日の記録の約半分をそれに費やしているが、紙幅が限定されていることから、割愛せざるを得なかった。
 同日記中にみえるさまざまな符丁は、詳らかにしえない点が多いが、特定の商人の屋号については、『山一金木屋又三郎日記 抜粋編』(青研 一九九五年)によれば、次の通りである。〓は弘前本町金木屋(別家、甚左衛門家)。〓は鯵ヶ沢菊屋池田氏。〓は板柳(いたやなぎ)井筒屋松山氏。〓は五所川原高橋氏。三は青森瀧屋伊東氏か。そのほかの符丁については不明。これら各地の有力商人達は縁戚関係を結んでいたようで、幕藩体制後期における領内有力商人の情報ネットワークの在り方を考える上でも貴重である。なお金木屋の本家と別家の関係については、吉村和夫『金木屋物語』(北の街社 一九八六年)を参考にした。 (解説 長谷川成一)
 第二項の「町方の構造」では、まず、町方を構成する様々な職人や家業の全体像を把握するため、寛政八年(一七九六)と元治元年(一八六四)の弘前町中の諸職・諸家業調べを表にして示した。調査項目に違いは見られるが、職種・家業の内訳や御役職と無役の別などをみることで、この間の変容をうかがうことができる。人々の生活に関わって、いかに多くの職人や家業が必要とされ、同時にまた、藩による統制がなされていたかが知られよう。
 本項では次に、各町の具体的な在りようを探るため、和徳町(文久三年・一八六三)と本町支配新寺町(明治二年・一八六九)の戸数・人別調帳を掲載した。各家の家族構成とともに、戸主やその妻などの出自や縁組・相続の記載、他の家業の兼業や日雇い、さらには松前への出稼ぎ状況なども記載され、幕末維新期の町人の実態を明らかにすることができよう。なお、黒瀧十二郎「弘前城下の町人について」(『年報市史ひろさき8』)では本項の史料を用いて和徳町と桶屋町の分析がなされている。また、和徳町の資料は文久の面改めとの関わりで実施された調査の結果を示したものであり、本章第二節第三項もあわせて参照されたい。 (解説 瀧本壽史)