弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

資料編2(近世編1)

新編弘前市史 資料編2(近世編1)

第1章 藩政成立への道 編年史料(天正十七年~明暦二年)

天正十七年(一五八九)八月二日、豊臣秀吉、南部信直へ朱印状を下し、信直の親類並びに檜山安東氏を同行しての上洛に支障なきことを伝える。
天正十七年(一五八九)八月二十日、加賀金沢城主前田利家、南部信直へ書状を遣わし、大浦為信に叛逆の動きあること、並びに来年、出羽・陸奥両国仕置に、豊臣秀吉の出馬あることを伝える。
天正十七年(一五八九)十二月二十四日、豊臣秀吉、朱印状を下し、南部右京亮為信の鷹献上を感謝する。
天正十八年(一五九〇)正月十六日、豊臣秀吉、津軽為信へ判物を下し、弟鷹の献上を賞し、ついで境目を堅固に守衛すべきことを命じる。
天正十八年(一五九〇)正月二十八日、織田信雄、南部右京亮為信へ判物を下し、黄鷹の受領と豹皮進覧を伝える。
天正十八年(一五九〇)三月、大浦為信、秋田の湊安東実季と盟約を結び、波岡城を攻略し、津軽一円を領有するという。
天正十八年(一五九〇)四月十一日、豊臣秀次、南部右京亮為信へ判物を下し、角鷹の献上を賞する。
天正十八年(一五九〇)七月十一日、高野山遍照院良尊、八戸政栄に書状を遣わし、南部氏の小田原参陣成就を伝える。この前後、為信、参陣を果たすという。
天正十八年(一五九〇)七月二十七日、豊臣秀吉、南部信直へ朱印状を下し、南部内七郡を安堵する。津軽郡は含まず。
天正十八年(一五九〇)七月晦日、豊臣秀吉、宇都宮にて朱印状を下し、出羽・陸奥のみならず、津軽・宇曽利・外浜に至るまで、大名の足弱衆の上洛を命じる。
天正十八年(一五九〇)七月、豊臣秀吉、奥羽両国へ禁制を下付する。
天正十八年(一五九〇)七月、加賀金沢城主前田利家検地のため津軽へ赴く。
天正十八年(一五九〇)八月十日、豊臣秀吉、石田三成へ定書を下し、刀狩を再度徹底するとともに、奥羽両国にても刀狩の実施を命じる。
天正十八年(一五九〇)八月十二日、豊臣秀吉、浅野長吉へ朱印状を下し、奥羽両国に検地を実施するように命じる。
天正十八年(一五九〇)十月七日、豊臣秀吉、浅野長吉へ朱印状を下し、陸奥国の刀狩を実施するように命じる。
天正十八年(一五九〇)十一月、前田利家、津軽仕置を終えて帰陣することを、津軽より国元へ伝える。
天正十八年(一五九〇)十二月二十九日、前田利家の家臣河島重続、津軽仕置の終了と、南部右京亮為信並びに足弱衆の上洛を伝える。
天正十八年(一五九〇)、この頃、大浦氏に扶養されていた浅利頼平、秋田氏の比内回復後、同地へ復帰する。
天正十八年(一五九〇)、この年、大浦為信、碇ヶ関道を開鑿するという。
天正十九年(一五九一)六月二十日、豊臣秀吉、津軽為信へ朱印状を下し、九戸一揆への出陣を催促する。
天正十九年(一五九一)六月二十日、豊臣秀吉、伊達政宗へ朱印状を下し、徳川家康等、九戸一揆討伐軍の道筋にある各城の明け渡しを命じる。
天正十九年(一五九一)七月二十日、伊達政宗、九戸政実と南部信直の間を調停せんとする。
天正十九年(一五九一)七月二十二日、南部信直、家臣野田某へ書状を下し、九戸一揆討伐の上方衆平泉到着と津軽為信の参陣を伝える。
天正十九年(一五九一)八月九日、豊臣秀次、津軽為信へ判物を下し、津軽仕置に蒲生氏郷等を派遣することを伝える。
天正十九年ヵ(一五九一)十月晦日、豊臣秀吉、津軽為信へ鷹献上を命じ、沿道へ献上道中に支障なきよう命じる。
天正十九年(一五九一)十二月十日、豊臣秀吉、津軽為信へ朱印状を下し、津軽領内の巣鷹商売禁止と鷹の保護を命じる。これより先、秀吉、全国に鷹場所を設置し、十月、大鷹狩を行う。
文禄元年(一五九二)正月、関白豊臣秀次、条書を下し、唐入りにつき大名の名護屋参陣を命じる。
文禄元年(一五九二)十二月晦日、津軽為信、肥前名護屋において、南部氏、秋田氏との和解を望み、徳川家康へ斡旋を依頼する。
文禄二年(一五九三)正月六日、豊臣秀吉、松前よりの巣鷹献上に、津軽為信等の領内で献上道中に支障なきよう命じる。
文禄二年(一五九三)五月二十五日、関白豊臣秀次、津軽為信へ朱印状を下し、名護屋在陣の労をねぎらう。
文禄二年(一五九三)五月二十七日、南部信直、八戸直栄へ書状を遣わし、名護屋の陣にて津軽為信が前田利家の家臣奥村主計に叱責され、浅野長吉、利家の陣屋へ不参の状況を伝える。
文禄二年(一五九三)、この頃津軽氏、京都・大坂・敦賀・駿府に屋敷を構えるという。
文禄三年(一五九四)、津軽為信、堀越城を修復し、大浦より堀越へ、家臣団、神社・仏閣等を移転させる。
文禄四年(一五九五)三月二十七日、豊臣秀吉、南部信直へ朱印状を下し、秋田・津軽・南部領内で材木を伐採し、敦賀への廻漕を命じる。
文禄四年(一五九五)十一月二十日、若狭小浜の組屋源四郎、津軽の太閤蔵米を売却する。
文禄四年(一五九五)十一月二十六日、浅野長吉、若狭小浜の組屋源四郎売却の、津軽の太閤蔵米販売代金を受領する。
文禄四年(一五九五)、この年、南部領と津軽領の境界を二本股と苅場沢に決定するという。
慶長元年(一五九六)七月、この月、秋田実季、津軽為信へ伐採した伏見作事用杉板を渡し、為信受領して敦賀へ廻漕する。
慶長二年(一五九七)正月二十六日、津軽為信の次男津軽信堅、死去する。
慶長二年(一五九七)二月、これより先、秋田実季、津軽為信へ伏見作事用杉板を渡す。為信、受領せず。
慶長二年(一五九七)二月二十二日、津軽為信、家臣千徳大和守を誅殺する。
慶長二年(一五九七)三月、種里八幡宮造立。
慶長二年(一五九七)三月、この月、津軽信枚、秋田実季の婿になるという。
慶長三年(一五九八)八月二十六日、津軽信建、秋田実季へ書状を遣し、浅利頼平の身上につき、津軽氏の無関係なること、比内にての塩商売の不変なることを伝える。
慶長三年(一五九八)十二月、これより先、秋田実季、津軽為信へ伏見作事用杉板を渡す。為信、これを受領せず、杉板は秋田山中に放置される。
慶長三年(一五九八)、この頃、津軽為信、同信枚、山城伏見に屋敷を構える。
慶長四年(一五九九)十二月十三日、これより先、秋田実季、津軽為信へ伏見作事用杉板を渡す。為信、これを山中より運搬せず。
慶長四年(一五九九)、この年、津軽為信、津軽左馬建広を娘婿とし、大寺城に置く。
慶長五年(一六〇〇)正月二十七日、津軽為信、右京大夫に任官する。
慶長五年(一六〇〇)六月十三日、津軽領、大地震。同十五日、岩木山南側焼け崩れるという。
慶長五年(一六〇〇)七月七日、徳川家康、北奥羽の各大名に上杉景勝包囲の指令を出す。津軽為信の配置について指示なし。
慶長五年(一六〇〇)八月十九日、徳川秀忠、津軽為信へ書状を下し、関ケ原への出陣を催促する。為信、美濃国大垣城攻略に参加するという。また、国元にて、重臣尾崎等、深浦湊より出港せず、のち誅殺されるという。
慶長六年(一六〇一)三月、この月、津軽為信、領内清水森において大法会を催し、戦死者を弔う。
慶長六年(一六〇一)五月六日、津軽平蔵信枚、父津軽為信留守につき、参議西洞院時慶へ装束借用を依頼する。
慶長六年(一六〇一)五月十一日、津軽信枚、従五位下越中守に叙任される。
慶長六年(一六〇一)五月十八日、津軽信枚、参議西洞院時慶より道具を借用し、返却する。
慶長六年ヵ(一六〇一)六月朔日、津軽信建、上洛の上、挨拶したき旨を参議西洞院時慶へ伝える。
慶長六年(一六〇一)六月九日、津軽信建、参議西洞院時慶へ帷子三・樽一荷を進上する。
慶長六年(一六〇一)七月五日、津軽信建、医師棒庵の大坂下向を報じ、参議西洞院時慶へ面会を願う。
慶長六年(一六〇一)八月十二日、津軽信建、病気回復せざるにより、参議西洞院時慶へ医庵斎の下向を依頼する。
慶長六年(一六〇一)八月十三日、津軽信建、左大臣近衛信尹へ、煎海鼠を贈る。
慶長六年(一六〇一)八月二十四日、徳川家康、上杉景勝の米沢移封について、近隣大名を動員する。津軽為信への指示なし。
慶長六年(一六〇一)九月二十二日、これより先、津軽信建、伏見にて徳川家康へ拝謁する。
慶長六年(一六〇一)九月、津軽為信、百沢寺下居宮を再建し、棟札を奉納する。
慶長六年(一六〇一)十一月七日、津軽建広、信建の女子死去の報を、大坂の信建へ伝達する旨、参議西洞院時慶へ伝える。
慶長六年ヵ(一六〇一)、この年、津軽信建、大坂から帰る参議西洞院時慶へ面会を依頼する。
慶長六年(一六〇一)、この頃、津軽為信、上野国大舘に二千石を加増されるという。
慶長七年(一六〇二)正月三日、津軽信建と内室、正月礼物を参議西洞院時慶と少納言時直へ進上する。ついで、西洞院家より信建へ贈物あり。
慶長七年(一六〇二)正月八日、津軽信建、千田与七郎を使者として、参議西洞院時慶へ鯛等を贈る。
慶長七年(一六〇二)正月九日、参議西洞院時慶、前関白近衛前久の陪膳に、津軽為信の礼使津軽建広を伴う。
慶長七年(一六〇二)正月十六日、津軽信建、左大臣近衛信尹ヘ正月礼に参上する。
慶長七年(一六〇二)正月十七日、参議西洞院時慶、津軽信建と内室を饗する。信建、内室、具足屋一介、津軽建友より贈物あり。
慶長七年(一六〇二)正月十九日、津軽信建、参議西洞院時慶を丸〔円〕山正阿弥寺にてもてなし、時慶内室より、信建と信建室、小宰相、女房衆、下女へ贈物あり。
慶長七年(一六〇二)正月二十三日、津軽為信、参内し、ついで前関白近衛前久邸へ赴き、少納言西洞院時直を陪膳に雇う。為信、大霊寺恵仙へ参る。
慶長七年(一六〇二)正月二十四日、津軽信建、大坂へ下向する。
慶長七年(一六〇二)二月五日、津軽信建、上洛し、参議西洞院時慶を訪れ、青鷺等を贈る。
慶長七年(一六〇二)二月九日、津軽為信、津軽へ帰国し、信建は大坂へ下向する。
慶長七年(一六〇二)二月二十三日、津軽信建、参議西洞院時慶より啓迪集を借覧する。
慶長七年(一六〇二)二月二十六日、津軽信枚、同建広、同為信、参議西洞院時慶へ当年礼として関東紙等を贈る。
慶長七年(一六〇二)三月十日、津軽信枚、左大臣近衛信尹へ、馬・太刀を贈る。
慶長七年(一六〇二)三月十九日、参議西洞院時慶、津軽信建療治のため、医師伯中院、坊城、松木各氏へ大坂下向を依頼し、信建にも薬種を送る。
慶長七年(一六〇二)三月二十一日、参議西洞院時慶、津軽信建を見舞う。
慶長七年(一六〇二)三月二十六日、参議西洞院時慶、津軽氏のため、太刀・装束を作内某へ依頼する。
慶長七年(一六〇二)四月二日、津軽信建、参議西洞院時慶へ啓迪集を返却し、再度次巻を借覧する。
慶長七年(一六〇二)四月五日、津軽信建、病状回復せず、上洛して快安の薬種を求めんことを、参議西洞院時慶へ伝える。
慶長七年(一六〇二)四月十七日、津軽信建、奈良からの帰途に怪我をする。参議西洞院時慶へ伝えて、医師吉田意安の下向を依頼する。
慶長七年(一六〇二)四月十九日、参議西洞院時慶、吉田意安の大坂下向承諾につき、津軽信枚と、舟馬等の下向準備を相談する。
慶長七年ヵ(一六〇二)四月二十六日、津軽建広、参議西洞院時慶へ神馬を贈る。
慶長七年(一六〇二)四月二十七日、参議西洞院時慶、津軽信枚へ大折箱、同信建へ吉田意安よりの薬種を遣わす。
慶長七年(一六〇二)四月二十八日、津軽建広、参議西洞院時慶へ、医師吉田意安の下向を願う。
慶長七年(一六〇二)四月二十八日、津軽信建、山城国平野社へ、再興料として神馬一疋等を奉納する。
慶長七年(一六〇二)五月朔日、参議西洞院時慶、津軽信枚の装束調進のため、家司真木長蔵を信枚へ付け置く。
慶長七年(一六〇二)五月十一日、参議西洞院時慶、平野社へ参詣し、津軽信建奉納の神馬を牽く。
慶長七年(一六〇二)五月十三日、参議西洞院時慶、津軽信建より依頼のある色紙に、左大臣近衛信尹の揮毫を申し入れる。十七日、時慶、近衛邸へ参上し、色紙の完成分を受領する。
慶長七年(一六〇二)五月二十五日、津軽信建、上洛を報じる。参議西洞院時慶、津軽信枚、同建広へ匂袋を贈る。
慶長七年(一六〇二)五月二十七日、津軽信建、参議西洞院時慶を訪ね、絵屋喜助とともに饗せられる。
慶長七年(一六〇二)六月二日、津軽信建、参議西洞院時慶へ太刀折紙を所望する。信建、伏見にて徳川家康へ拝謁するという。
慶長七年(一六〇二)六月七日、左大臣近衛信尹、参議西洞院時慶へ、津軽信建依頼の屏風の色紙について、談合の使者を送る。
慶長七年(一六〇二)七月十八日、これより先、津軽信枚家臣、加賀金沢城主前田利長の家臣と、洛中にて争闘し、互いに死者あり。
慶長七年(一六〇二)七月二十七日、参議西洞院時慶、津軽信建の帰国と、津軽・前田両家の家臣争闘の終結を聞く。
慶長七年(一六〇二)、津軽信建、参議西洞院時慶へ梨地金具の鐙を贈る。
慶長七年(一六〇二)八月六日、津軽信建、帰国の宴を葛木内斎宿にて催し、参議西洞院時慶を招く。各贈物あり。時慶、信枚母海雲院、二男式部と交歓あり。
慶長七年(一六〇二)八月八日、津軽信建、出京し草津宿に宿泊する。参議西洞院時慶、左大臣近衛信尹へ信建の進物を持参する。信建、前関白近衛前久にも、進物を贈る。
慶長七年(一六〇二)八月十四日、津軽建広、参議西洞院時慶へ、来春の上洛を伝える。
慶長七年(一六〇二)八月十五日、津軽建広、左大臣近衛信尹へ、白鳥を贈る。
慶長七年(一六〇二)八月十五日、参議西洞院時慶、新屋敷に津軽信枚、同建広を招き、倉主水も来邸する。
慶長七年(一六〇二)八月十六日、参議西洞院時慶、津軽建広へ、同為信、信建、信建内室のため大師観音経等を贈る。
慶長七年ヵ(一六〇二)九月七日、津軽信建、関白近衛信尋へ祗候の希望を、参議西洞院時慶へ伝える。
慶長七年(一六〇二)九月二十七日、津軽信建の室、信建上洛の留守中に縊死するという。
慶長七年(一六〇二)九月、津軽為信、神明宮へ建立の棟札を奉納する。
慶長七年(一六〇二)十月十三日、津軽為信、尾崎村九郎左衛門へ知行を充行う。
慶長七年ヵ(一六〇二)十月二十六日、津軽信建、参議西洞院時慶へ塩鮭等を送る。
慶長七年ヵ(一六〇二)十一月三日、津軽信建、参議西洞院時慶へ指貫を送る。
慶長七年ヵ(一六〇二)十一月七日、津軽建広、出家禅師号についての書状を、参議西洞院時慶へ送る。
慶長七年ヵ(一六〇二)十一月晦日、津軽信建、病状回復する。
慶長七年(一六〇二)十二月三日、これより先、津軽信建、参議西洞院時慶へ書状と鮭を贈る。五日、時慶、返書と密柑等を信建等へ送る。
慶長七年(一六〇二)十二月十三日、津軽信建、参議西洞院時慶へ来春の使者派遣を伝える。
慶長七年(一六〇二)十二月二十四日、津軽信建、高坂弥作を使者として、参議西洞院時慶へ書状と太刀馬代三百疋等を贈る。
慶長七年(一六〇二)、津軽信建、息大熊火傷後の措置をめぐり、家臣天藤氏を誅するという(天藤騒動)。
慶長八年(一六〇三)二月二十三日、津軽信建、山城平野社へ奉加料として、大津において米一〇俵を調進し、奉納することを参議西洞院時慶へ伝える。
慶長八年(一六〇三)三月二十一日、津軽信枚、参議西洞院時慶へ書状を遣わす。次いで時慶、信枚へ見舞人を送る。
慶長八年(一六〇三)四月二十一日、津軽左馬助の室、死去する。藤先寺へ葬り、大寺に三重の塔を建立して菩提を弔う。
慶長八年(一六〇三)四月二十二日、参議西洞院時慶、中島金十郎と称する者、津軽挙状を所望したため、これを給する。
慶長八年(一六〇三)五月四日、津軽信枚、参議西洞院時慶へ、生鮑等を贈る。
慶長八年ヵ(一六〇三)六月十日、津軽為信、秋田久保田城主佐竹義宣の家臣大野蔵人へ書状を遣わし、入部後の佐竹氏と親和ならんことを伝える。
慶長八年(一六〇三)八月十九日、参議西洞院時慶、津軽信建の帰国後、初めて書状を受領する。ついで、時慶、前関白近衛前久の津軽への返信を遣わす。
慶長八年(一六〇三)八月二十九日、参議西洞院時慶、津軽信建の使者三畝〔世〕寺弥三郎帰国につき、太刀馬代を遣わす。
慶長八年(一六〇三)八月、津軽為信、百沢寺大堂へ棟札を奉納する。
慶長八年(一六〇三)十月九日、参議西洞院時慶、津軽為信の上洛を聞く。為信、伏見へ赴くという。
慶長八年(一六〇三)十月二十二日、参議西洞院時慶、津軽為信の上洛を祝い、祝儀を贈る。為信、腫物を煩う。
慶長八年(一六〇三)十一月二十四日、津軽為信、参議西洞院時慶へ、鹿毛の馬と太刀を贈る。
慶長八年(一六〇三)十二月二十一日、津軽為信、参議西洞院時慶へ、昆布等を贈り、時慶からも為信へ贈物あり。
慶長八年(一六〇三)、この年、高岡に町屋派立を命じる。
慶長九年(一六〇四)正月十二日、津軽為信、参議西洞院時慶の邸を訪問し、馬・太刀を贈る。ついで少納言時直、為信へ礼に赴き、扇子等を贈る。
慶長九年(一六〇四)二月十五日、津軽信建の使者高坂弥作、参議西洞院時慶の邸に赴き、太刀馬代等を贈る。
慶長九年(一六〇四)二月十一日、津軽地方、地震。
慶長九年(一六〇四)三月七日、参議西洞院時慶、津軽為信の帰国と信枚の上洛を聞く。
慶長九年(一六〇四)三月二十三日、津軽信枚、参議西洞院時慶の邸を訪問し、鯨等を贈り、饗せられる。
慶長九年(一六〇四)四月九日、参議西洞院時慶、津軽信建より書状を受領し、返書を送る。
慶長九年(一六〇四)五月十四日、津軽信枚、参議西洞院時慶と少納言同時直を、振舞に招く。
慶長九年(一六〇四)六月十四日、参議西洞院時慶、津軽信枚参内の際の衣紋についての助言を与える。
慶長九年(一六〇四)七月二十日、津軽信建使者中野弥三郎、参議西洞院時慶へ赴き、鴨・鯨等を贈る。時慶、使者中野弥三郎へ返書を遣わす。
慶長九年(一六〇四)七月二十三日、津軽信建の帰依僧海蔵寺、参議西洞院時慶へ面会する。
慶長九年(一六〇四)八月五日、これより先、津軽信建、使者兼平金四郎を参議西洞院時慶へ派遣し、この日着く。
慶長九年(一六〇四)八月十六日、徳川家康、松前からの鷹献上道中に、津軽領を含めた近江に至る地方の鷹餌供与等に支障なきように命じる。
慶長九年(一六〇四)八月十七日、津軽信建、領内遠寺内(十腰内)観音堂に鰐口を奉納する。(口絵参照)
慶長九年(一六〇四)八月二十九日、参議西洞院時慶、津軽信枚へ台物等を贈る。
慶長九年(一六〇四)九月九日、津軽信枚、使者庚申源七郎を参議西洞院時慶へ遣わし、串鮑等を贈る。
慶長九年(一六〇四)秋、津軽為信、幕府へ検使の派遣を仰ぎ、弘前の城を築くという。
慶長九年(一六〇四)十月二日、参議西洞院時慶、病気の小児見舞に、津軽信枚へ使者を送る。
慶長九年(一六〇四)十一月二十二日、津軽為信、円明寺念西へ、歩米十三石余を鯵ヶ沢で給与する。
慶長九年(一六〇四)、この年、幕府、国内に一里塚の構築を命じ、津軽領にも使者来訪し、一里塚を築かせるという。
慶長九年(一六〇四)、この年、津軽為信、相模住源綱広を津軽へ招き、大小剣三百腰を鍛造させる。
慶長十年(一六〇五)正月十四日、参議西洞院時慶、津軽信建には人足がないため書状を出さず、信枚の母には天野樽等を贈る。
慶長十年(一六〇五)正月三十日、津軽為信、参議西洞院時慶へ、使者森下作兵衛尉を派遣して馬等を贈る。
慶長十年(一六〇五)四月二日、参議西洞院時慶、津軽信建、同建広の書状により津軽建友の死を知る。
慶長十年(一六〇五)四月三日、津軽為信、使者郡市左衛門を参議西洞院時慶へ送り、津軽建友の死去を報ずる。ついで、為信、時慶へ使を送る。
慶長十年(一六〇五)四月二十八日、津軽信枚、参議西洞院時慶、少納言同時直と夕食をともにする。翌日、時慶、信建使者高坂弥作の帰国につき、銀子等を与える。
慶長十年(一六〇五)六月二十五日、津軽為信の家の件につき、具足屋一介籠舎入りとなる。参議西洞院時慶、信枚へ一介の身上を尋ねる。
慶長十年(一六〇五)七月十二日、津軽信建の使者中野弥三郎、参議西洞院時慶へ白鳥等を贈る。津軽へ船便で柘榴等の樹木を送るという。
慶長十年(一六〇五)七月二十二日、参議西洞院時慶、津軽信建の使者中野弥三郎を自邸に招き、信建・糸・建広への贈物を渡す。ついで、薬種も遣わす。
慶長十年(一六〇五)八月二十五日、参議西洞院時慶、津軽信枚へ大鮎を贈る。
慶長十年(一六〇五)八月、津軽領大寺の塔建立され、十五日、供養が行われる。
慶長十年(一六〇五)九月二十日、参議西洞院時慶、津軽信枚を振舞に呼ぶ。
慶長十一年(一六〇六)正月下旬、堀越城下、町方洪水により、材木流失するという。
慶長十一年(一六〇六)二月十七日、津軽為信、左大臣近衛信尹へ白鳥等を贈る。
慶長十一年(一六〇六)三月七日、津軽為信、近衛信尋へ礼を言上し、ついで、二十四日、桜殿にて左大臣近衛信尹へ拝謁する。
慶長十一年(一六〇六)三月、津軽信建、病気療養のため、上洛するという。
慶長十一年(一六〇六)五月、高岡の町屋へ引き移る者へ米穀を給する。町並みしだいに整う。
慶長十一年(一六〇六)九月、愛宕山教学院祐海、津軽為信へ書牒を呈する。
慶長十二年(一六〇七)二月十二日、津軽為信、朝廷へ刀、鶴等を献上する。
慶長十二年ヵ(一六〇七)三月二十六日、越前北庄城主結城秀康、津軽為信へ鷹と舟材木を所望する。
慶長十二年(一六〇七)十月十三日、津軽信建、京都で死去する。
慶長十二年(一六〇七)十二月五日、津軽為信、京都にて死去する。
慶長十二年(一六〇七)十二月二十一日、津軽信枚、京都より江戸へ到着し、幕府から跡目相続を許されるという。
慶長十二年(一六〇七)、この年、津軽領内の湊澗役の徴収を開始するという。
慶長十三年(一六〇八)四月、津軽信枚、国元津軽へ入部する。
慶長十三年(一六〇八)五月、津軽為信の孫津軽大熊、幕府年寄衆へ、叔父津軽信枚を廃して津軽家相続を提訴する。
慶長十三年(一六〇八)七月二日、津軽信枚、百沢寺へ書状を下し、同寺十二坊屋敷方の年貢を免除する。
慶長十三年(一六〇八)十月二十六日、津軽信枚、駿府城殿閣竣工につき、大御所徳川家康へ小袖を贈る。
慶長十三年(一六〇八)、この年、革秀寺建立。八幡宮を高岡の丑寅の方角へ移転させる。
慶長十四年(一六〇九)正月二十五日、津軽信枚の老臣津軽建広等、信枚を廃して嫡孫大熊の擁立を謀り大寺城に拠る。ついで幕府、建広を追放し、津軽仕置を信枚へ委任する。
慶長十四年(一六〇九)四月二十六日、幕府年寄衆、津軽氏へ奉書を下し、下総海上(うなかみ)の船入普請を千石夫にて実施するように命じる。
慶長十四年(一六〇九)五月二十四日、津軽信枚、舞田屋敷村与三左衛門へ黒印状を下し、知行三十石を充行う。
慶長十四年(一六〇九)五月、津軽信枚、津軽へ帰国する。
慶長十四年(一六〇九)六月五日、津軽信枚、家臣白取世兵衛へ黒印状を下し、浜の長峰と浪岡の内鞠沢両村の派立を命じる。
慶長十四年(一六〇九)七月十八日、津軽信枚、革秀寺をはじめ、家臣へも知行充行の黒印状を下付する。
慶長十四年(一六〇九)八月六日、津軽信枚、家臣へ知行充行の黒印状を下付する。
慶長十四年(一六〇九)九月十四日、津軽信枚、大工彦左衛門へ黒印状を下し、黒石村と広内村で五十石を充行う。
慶長十四年(一六〇九)十一月、幕府、猪熊教利事件に連座して、花山院忠長をはじめとする公家衆を処罰する。忠長、夷ケ島へ配流され、後に津軽を配所とする。
慶長十五年(一六一〇)四月十七日、平賀郡広船観音堂建立。
慶長十五年(一六一〇)、この年、津軽信枚、幕府検使の検分を得て、高岡に城郭を築く。翌年、城下の町割りを定め、堀越より寺社、商工民、家臣団移転する。
慶長十五年(一六一〇)六月、この月より風雨強く、在方は人夫供出により難儀するという。
慶長十五年(一六一〇)八月朔日、津軽信枚、岩木山百沢寺へ願文を奉呈する。
慶長十五年(一六一〇)八月、この月、幕府鷹匠三橋信重、高岡へ鷹捕獲に来る。小栗山の松山にて鷹取りを行なう。
慶長十六年(一六一一)二月三日、津軽信枚、とくまい(床前)村野呂二郎四郎へ黒印状を下し、知行三十石を充行う。
慶長十六年(一六一一)三月、幕府、禁裏修造の役を各大名へ賦課し、津軽信枚も四万石の役を課せられる。
慶長十六年(一六一一)四月十日、幕府年寄衆、津軽信枚等の大名へ奉書を下し、松前からの鷹献上道中の領内通過に支障なきように命ずる。
慶長十六年(一六一一)六月二十五日、徳川家康の養女満天姫、津軽信枚へ入輿。
慶長十六年(一六一一)、この年、津軽信枚、幕府より佐々木道運、柄木田勘十郎を預けらる。
慶長十七年(一六一二)正月五日、将軍徳川秀忠、津軽信枚ほかの東北諸大名へ条書を下し、幕府への忠誠と法度遵守を命じる。
慶長十七年(一六一二)六月十二日、津軽信枚、服部勘助へ黒印状を下し、知行五百石を充行う。
慶長十七年(一六一二)、この年、津軽信枚、重臣高坂蔵人を叛逆の疑いにより成敗する。
慶長十七年(一六一二)、この年、津軽信枚、大久保主膳を預けられる。
慶長十八年(一六一三)十一月十八日、津軽信枚、幕府より越後高田城普請役を命ぜられる。
慶長十八年(一六一三)十一月、この月、津軽信枚、熊野宮に棟札を奉納する。
慶長十九年(一六一四)正月、江戸幕府、キリスト教の寺院を破壊し、宣教師を追放する。諸大名も幕府の命に従い教徒を禁圧し、命に従わない者を奥州外浜へ追放する。
慶長十九年(一六一四)四月十九日、津軽信枚、最上氏の臣出羽本城々主本城満茂へ、越後高田城普請赦免につき、帆柱・渡舟板の材木を贈る旨を報ずる。
慶長十九年(一六一四)五月四日、家臣小山和泉、蔵米と打出米を受領する。
慶長十九年(一六一四)五月二十九日、藤屋八郎右衛門等、打出米を受領する。
慶長十九年(一六一四)六月、津軽信枚、浪岡八幡宮へ棟札を奉納する。
慶長十九年(一六一四)六月、この月より弘前城下の南側に南溜池を掘らせる。
慶長十九年(一六一四)七月十一日、家臣小山和泉、豊島修理より打出米を受領する。
慶長十九年(一六一四)七月二十五日、家臣小山和泉、豊島修理より打出米を受領する。
慶長十九年(一六一四)七月、津軽信枚、大坂城攻略の軍勢を引率して津軽を出発。着陣後、幕府より狄の圧えとして、帰国することを命ぜられるという。
慶長十九年(一六一四)九月、津軽信枚、熊野三所宮へ願書を奉呈する。
慶長十九年(一六一四)十月四日、幕府、津軽信枚を含む奥羽・関東の大名へ、大坂参陣の陣触を発令する。
慶長十九年(一六一四)十月十六日、将軍徳川秀忠、津軽信枚を含む奥羽大名を江戸へ参集させ、速かに江戸を出発することを大御所徳川家康へ進言する。
慶長十九年(一六一四)十月十六日、将軍徳川秀忠、津軽信枚を含む奥羽大名へ軍法を発令する。
慶長十九年(一六一四)十一月二十五日、津軽信枚、大坂住吉において大御所徳川家康へ拝謁し、江戸勤番を命じられる。
元和元年(一六一五)春、高岡城下茂森山を削平する工事に着手し、在方より人夫を動員する。
元和元年(一六一五)三月九日、津軽信枚、松前福山城主松前慶広を高岡城にて饗し、双互の親和回復を図る。
元和元年(一六一五)五月八日、盛岡城主南部利直、津軽信枚の狂気なる風聞を聞く。
元和元年(一六一五)五月二十三日、家臣小山和泉、打出米二俵余受領を豊島修理へ伝える。
元和元年(一六一五)六月二十四日、家臣小山和泉、打出米二俵余受領を豊島修理へ伝える。
元和元年(一六一五)閏六月、これより先、高岡城下へ堀越より寺院の移転を命じる。
元和元年(一六一五)九月十日、幕府年奇衆、津軽信枚へ奉書を下し、大坂落城後の落人詮議を下命する。
元和元年(一六一五)、この年、東風にて凶作となり、津軽信枚、帰国して家臣中村内蔵允を越後へ派遣し、種籾を購入させる。
元和二年(一六一六)、この年、前年に続いて凶作。越後よりの入津米と幕府からの拝領米を領内に下付する。多数の餓死者あり。
元和二年(一六一六)十一月十日、これより先、津軽信枚、秋田久保田城主佐竹義宣へ酒を求める使者三階但馬を派遣する。
元和二年(一六一六)、この年、幕府、津軽信枚へ加藤庄三郎を預ける。
元和三年(一六一七)五月七日、津軽信枚、将軍家上洛の供奉備えの六番に編成される。
元和三年(一六一七)五月二十日、幕府年寄衆、津軽信枚へ奉書を下し、信枚の上洛免除を伝達する。
元和三年(一六一七)十月十九日、津軽信枚、参勤の途次、秋田の湊にて駆落者の家臣奥寺右馬丞の成敗を依頼する。
元和三年(一六一七)、この年、津軽信枚、高岡城内に東照宮を勧請する。
元和四年(一六一八)正月、この月、下の切地帯に降灰あり、田地荒廃する。同地開発者を侍に取り立て、新知士と称するという。
元和四年(一六一八)九月・十月、幕臣島田利正の斡旋により、津軽領と秋田領の境界について、検使を派遣して交渉をおこなう。
元和四年(一六一八)十一月二十五日、これより先、津軽信枚、使者寺尾・戸田両名を秋田久保田へ派遣する。
元和四年(一六一八)、これより先、津軽信枚、境界交渉終結慶賀の使者寺尾権兵衛を、秋田久保田へ派遣し、若大鷹等を贈る。
元和四年(一六一八)、この年、キリスト教宣教師ジェロニモ・アンジェリス、津軽領深浦を経由して蝦夷地松前へ渡航する。
元和五年(一六一九)正月三日、これより先、津軽信枚、秋田久保田城主佐竹義宣へ年頭の使者を派遣する。
元和五年(一六一九)正月、津軽信枚、幕府との関係良好にて、屋形様を称するという。
元和五年(一六一九)四月十七日、津軽信枚、境界決定後、初めて秋田久保田城主佐竹義宣の江戸屋敷を訪問し、音信物等を贈る。
元和五年(一六一九)四月二十一日、津軽信枚の重臣乾・高屋両名から秋田久保田藩重臣へ書状あり、上洛費用の借用を願う。この日、判金百枚を貸与され、今年秋返済を約束する。
元和五年(一六一九)五月十一日、幕府、和子入内につき、上洛供奉の条々を大名へ下達する。
元和五年(一六一九)六月二日、幕府年寄衆、福島正則へ奉書を下し、安芸広島領の没収と津軽への減転封を命じる。
元和五年(一六一九)六月八日、秋田久保田城主佐竹義宣、家老梅津憲忠へ書状を下し、福島正則の津軽への国替と津軽信枚への国替通知のなきことを伝える。
元和五年(一六一九)六月十一日、秋田久保田城主佐竹義宣、家老梅津憲忠へ書状を下し、津軽信枚の転封先の不明なること、上洛費用判金百枚貸与について後悔する旨を伝える。
元和五年(一六一九)六月十七日、秋田久保田城主佐竹義宣、家老梅津憲忠へ書状を下し、津軽信枚の越後転封を伝える。
元和五年(一六一九)六月十八日、秋田久保田城主佐竹義宣、家老梅津憲忠へ書状を下し、津軽信枚の越後への転封に際し、秋田領内比内筋・八森筋への荷物運搬を許可する旨を伝える。
元和五年(一六一九)六月十九日、秋田久保田城主佐竹義宣、家老梅津憲忠へ書状を下し、福島正則の津軽入封後、百姓一揆の勃発を危惧する旨を伝える。
元和五年(一六一九)六月二十一日、津軽信枚、国元の服部康成と白取瀬兵衛へ書状を下し、越後への国替につき準備を命じる。
元和五年(一六一九)六月二十日、幕府、津軽国替に幕臣の島田直時派遣を命じる。同二十六日、検使島田直時、秋田久保田より津軽へ出発する。
元和五年(一六一九)七月朔日、秋田領内で越後への国替に準備した津軽家用の馬と船を検使島田直時へ譲る。同月二日、津軽信枚の越後転封の中止決まる。
元和五年(一六一九)七月二日、幕府、福島正則へ口上書を下し、津軽への国替を止め、酒井、牧野両大名領付近に津軽の高四万五千石を宛行う。
元和五年(一六一九)八月六日、津軽信枚、秋田藩重臣梅津政景へ使者秋田金左衛門を遣わし、帷子を贈る。
元和五年(一六一九)八月九日、津軽信枚等、秋田久保田城主佐竹義宣の江戸屋敷の昼数寄に招かる。
元和五年(一六一九)九月六日、津軽信枚、秋田久保田城主佐竹義宣を振舞に招く。
元和五年(一六一九)九月二十二日、津軽信枚、上洛の途次、近江草津を発ち、夜半島本に到着する。
元和六年(一六二〇)八月二十三日、幕府鷹匠伊藤景俊、是日、津軽へ赴くため久保田を通過する。
元和六年(一六二〇)九月一日、これより先、津軽信枚、秋田藩家老梅津憲忠へ山帰大鷹を贈る。
元和六年(一六二〇)十一月八日、幕府鷹匠伊藤景俊、津軽より鷹六箱を同行して、秋田領虻川に至る。
元和六年(一六二〇)十一月十八日、津軽領深浦町、柏木町の派立を命じる。
元和六年(一六二〇)十一月二十三日、秋田久保田城主佐竹義宣、津軽より帰途の幕府鷹師三橋信重を振舞う。
元和六年(一六二〇)十一月晦日、これより先、津軽信枚、出羽亀田城主岩城貞隆の死を弔する使者を、久保田へ派遣する。
元和六年(一六二〇)閏十二月十八日、これより先、秋田久保田城下にて喧嘩し、津軽へ出奔する者あり。呼び戻しに津軽家重臣へ書状を遣わす。
元和六年(一六二〇)、この年、キリスト教宣教師ディオゴ・カルワーリュ、松前から津軽高岡に至り、信者の告解を聴く。ついで、津軽の関を越え秋田領へ入る。
元和七年(一六二一)正月三日、津軽信枚、年頭の使者大道寺直英を秋田久保田城主佐竹義宣へ派遣し、歳暮の音信物、若大鷹等を贈る。
元和七年(一六二一)正月五日、秋田久保田城主佐竹義宣、津軽信枚へ使者を派遣する。
元和七年(一六二一)三月二日、津軽信枚、小知行士十腰内本肝煎八郎五郎等へ知行を充行う。
元和七年(一六二一)九月十八日、幕府、美濃国代官栗原加賀の孫泰藝を、津軽家へ預ける。
元和七年(一六二一)十月、この月、津軽信枚、狼狩りと称して人数を柏木舘野へ動員し、領内人口の把握を図る。
元和七年(一六二一)十月二日、津軽信枚、領内松神と大間越の派立を命じる。
元和七年(一六二一)十一月六日、秋田久保田城主佐竹義宣、江戸屋敷の津軽信枚へ使者を遣わす。ついで、信枚、義宣のもとへ見舞いに訪れる。
元和七年(一六二一)十一月二十五日、秋田久保田城主佐竹義宣、江戸屋敷の津軽信枚へ鷹狩の獲物雁二つを贈る。
元和八年(一六二二)三月ヵ、津軽信枚、熊野三山大権現へ願文を奉呈する。
元和八年(一六二二)十二月二十九日、津軽信枚、年頭の使者柳野織部を秋田久保田城主佐竹義宣へ派遣し、若弟鷹等を贈る。
元和八年(一六二二)、この年、津軽信枚、十三へ巡検し、亀ヶ岡に城と町屋敷建設を企図する。翌年、帰国後、工事を中止する。
元和九年(一六二三)正月八日、重臣乾安儔等、組頭町田村勝右衛門へ定書を下し、鉄炮の射撃等について心得方を申し付ける。
元和九年(一六二三)三月八日、津軽信枚、革秀寺へ知行目録を下し、寺領百石を充行う。
元和九年(一六二三)五月十一日、幕府、徳川家の将軍宣下につき、上洛供奉の条々を大名へ下達する。
元和九年(一六二三)年七月、津軽信枚、徳川家の上洛に供奉する。
元和九年(一六二三)八月、津軽信枚、高岡神明宮に棟札を奉納する。
元和九年(一六二三)閏八月二十六日、津軽信枚、近江国大津町年寄矢島藤五郎から銀五十貫を借用する。
寛永元年(一六二四)正月二十二日、幕府年寄衆、津軽信枚等へ奉書を下し、松前からの鷹献上道中に便宜を計らうよう命じる。
寛永元年(一六二四)正月、津軽信枚、熊野山代参願書を奉呈する。
寛永元年(一六二四)三月八日、津軽信枚、判形を元に戻す。
寛永元年(一六二四)四月十四日、津軽信枚、参勤のため、江戸へ出発する。
寛永元年(一六二四)五月二十一日、津軽信吉、国元へ帰国する。
寛永元年(一六二四)六月十日、これより先、津軽信枚、秋田へ飛脚を遣し、越後より船便にて帰国した旨を伝える。
寛永元年(一六二四)六月二十五日、津軽信枚、森内・大湯両人へ命じて、大湯町村の取立を命じる。
寛永元年(一六二四)十一月二十九日、これより先、津軽信枚、秋田久保田城主佐竹義宣へ弟鷹を贈る。重臣服部康成等の、秋田藩家老梅津憲忠への書状あり。
寛永元年(一六二四)、この年、誓願寺の大堂を建立。
寛永元年(一六二四)、この年、津軽信枚、天海僧正に帰依し、天台止観奥儀の悟明あり。
寛永元年(一六二四)、この年、高岡城内に勧請した東照宮を移し、薬王院を別当として寺領二百石を給する。
寛永二年(一六二五)五月十五日、幕府年寄衆土井利勝、酒井忠世、津軽信枚へ、津軽から江戸への廻船運航を許可する。
寛永二年(一六二五)六月八日、幕府、津軽への預人大久保主膳を赦免し、秋田領通行を許可するという。
寛永二年(一六二五)六月十九日、亀ケ岡在方に同近辺川沼の魚獲と魚商売を許可するという。
寛永二年(一六二五)八月二十九日、幕府鷹師三橋信重、秋田より津軽へ下向する。
寛永二年(一六二五)、この年、津軽領内の総検地を実施し、また酒運上の徴収を開始する。
寛永三年(一六二六)四月六日、津軽信枚、家臣森山弥七郎へ黒印状を下し、青森の派立を命じる。
寛永三年(一六二六)四月六日、津軽信枚、森岡采女正へ黒印状を下し、知行二百五十石を充行う。
寛永三年(一六二六)四月六日、津軽信枚、伊藤六右衛門へ金山の戸沢村派立二百石を充行う。
寛永三年(一六二六)九月三日、津軽信枚、廣田太右衛門へ黒印状を下し、高百石を充行う。
寛永三年(一六二六)、この年、幕府、津軽家へ慶好院(金勝院とも言う)を預ける。
寛永三年(一六二六)、この年、津軽信枚、領内に真言宗五山の制度を敷く。
寛永四年(一六二七)正月二十七日、津軽信枚、秋田久保田城主佐竹義宣へ年頭の使者を遣し、若弟鷹等を贈る。
寛永四年(一六二七)二月十日、津軽領内に強い地震起こる。この年、虫害もあり、天災退散の修法を実施し、虚空蔵堂を建立。
寛永四年(一六二七)三月十八日、津軽信吉、江戸へ登る。
寛永四年(一六二七)五月二十七日、津軽信枚、秋田久保田城主佐竹義宣へ、使者北村久左衛門を派遣する。
寛永四年(一六二七)七月十一日、津軽信枚の家臣戸沢勘兵衛、秋田久保田城下にて秋田藩陪臣と喧嘩に及ぶ。
寛永四年(一六二七)九月五日、高岡城天守に落雷あり、天守ならびに所蔵の武具類ことごとく焼亡する。
寛永四年(一六二七)十月三日、秋田久保田城主佐竹義宣、江戸から帰国する津軽信枚へ、夫伝馬、宿所等を準備し、領内通行に支障なきよう命じる。
寛永四年(一六二七)十月九日、幕府鷹匠伊藤景俊、津軽より鷹六箱同行し、秋田久保田に至る。
寛永四年(一六二七)十一月五日、津軽信枚、江戸から帰国の途次、秋田領戸島より久保田に至る。秋田藩重臣梅津政景、信枚の宿所へ使者を派遣する。
寛永五年(一六二八)四月二十九日、津軽為信室、死去する。
寛永五年(一六二八)七月、百沢寺山門建立。
寛永五年(一六二八)八月二十日、この日より高岡を弘前と称したという。
寛永五年(一六二八)九月十四日、寛永寺大僧正天海、津軽信枚へ書状を遣わし、大久保主膳の赦免を伝える。
寛永五年(一六二八)十一月十九日、津軽信枚、秋田久保田城主佐竹義宣へ、若弟鷹を贈る。ついで江戸へ若大鷹二十居等を搬送する。
寛永六年(一六二九)三月二十五日、秋田領八森の山師、津軽領金山に踏み迷い、成敗にあう。
寛永六年(一六二九)四月五日、津軽信枚に仕官を望む由利の内越左吉とその家族の、秋田領内出判を依頼する。
寛永六年(一六二九)四月二十七日、津軽信枚、百沢寺へ掟書を下す。同日、岩木山虚空蔵堂へ願文を奉呈する。
寛永六年(一六二九)五月十八日、百沢寺の修理を命じ、虚空蔵堂を建立。
寛永六年(一六二九)七月九日、幕府、紫衣事件により妙心寺の東源を津軽へ配流する。江戸から津軽へ至る伝馬宿次の書状を、六月二十六日に発給する。
寛永六年(一六二九)八月十三日、長勝寺へ曹洞宗法度が下される。
寛永六年(一六二九)八月三十日、幕府鷹匠三橋信重、秋田久保田を発ち津軽へ赴く。
寛永六年(一六二九)九月六日、津軽信枚、秋田久保田城主佐竹義宣へ使者青木兵左衛門を派遣し、音信物等を贈る。
寛永六年(一六二九)九月十一日、津軽平蔵信吉、将軍家へ目見えのため、江戸へ出発する。
寛永六年(一六二九)九月二十一日、津軽信枚、百沢寺へ願文を奉呈する。
寛永六年(一六二九)十月九日、秋田久保田城主佐竹義宣、津軽信枚の参勤に、夫伝馬等を給し、領内通行に支障なきよう命じる。
寛永六年(一六二九)十月十一日、幕府鷹師伊藤景俊、津軽から秋田久保田へ参着する。
寛永六年(一六二九)十一月十三日、重臣乾安儔等、青森町の商売、船着等の定書を下付する。
寛永六年(一六二九)、この年、長勝寺山門を造営。
寛永七年(一六三〇)正月四日、津軽信枚、参勤の途次、秋田領の湊、次いで豊島に宿泊する。
寛永七年(一六三〇)五月二十六日、津軽信枚、江戸屋敷にて秋田久保田城主佐竹義宣等を数寄に招く。
寛永七年(一六三〇)六月二日、津軽信枚、秋田久保田城主佐竹義宣の息佐竹義隆を江戸屋敷にて饗応する。
寛永七年(一六三〇)六月二十四日、秋田久保田城主佐竹義宣、津軽領銀山の鉛を購入すべきことを命じる。
寛永七年(一六三〇)七月四日、敦賀の津軽家蔵屋敷の留守居に、庄司太郎左衛門と同茂右衛門を任命する。
寛永七年(一六三〇)十月十二日、秋田久保田城主佐竹義宣、去月十日より津軽信枚の大病を聞く。
寛永七年(一六三〇)十月、この月、津軽信枚、鯵ヶ沢から江戸へ出発する。
寛永七年(一六三〇)十一月二十六日、秋田久保田城主佐竹義宣、津軽信枚の賜暇と、秋田領内通行に支障なきを伝える。
寛永七年(一六三〇)、この年、外浜大野村に牢屋を建設する。
寛永七年ヵ(一六三〇)、この年、津軽信吉へ江戸屋敷にて新士舟橋半左衛門長真を守役として付けるという。
寛永八年(一六三一)正月十四日、津軽信枚、江戸屋敷にて死去。
寛永八年(一六三一)二月四日、家臣舟橋長真、前橋酒井家への預人、最上氏旧臣本城満茂へ信枚の死去を伝える。
寛永八年(一六三一)二月二十一日、津軽信吉、高野山遍照尊院と契約を結ぶ。
寛永八年(一六三一)三月二十七日、秋田領と津軽領の人返し交渉を開始する。六月十七日、津軽より堺の三十郎、秋田へ送還される。
寛永八年(一六三一)四月朔日、津軽信吉、跡目相続を許され、白銀二百枚等を幕府へ献上する。
寛永八年(一六三一)六月十日、秋田久保田城主佐竹義宣、津軽信吉の家臣と乗馬八疋の院内口通行を許可する。翌十一日、加賀材木買衆、能代から津軽へ赴かんとする。
寛永八年(一六三一)六月十五日、津軽信吉、秋田久保田城主佐竹義宣へ使者植田四郎右衛門を派遣し、跡目相続を伝え、太刀馬代判金一枚等を贈る。
寛永八年(一六三一)七月晦日、家臣青木兵左衛門子供の、由利の旗本打越左近へ遣わすための出判を秋田藩へ依頼する。
寛永八年(一六三一)八月十八日、家臣長山助左衛門、江戸より帰国のため、八森の通行を願う。
寛永八年(一六三一)八月二十日、出羽亀田城主岩城宣家の家臣豊後、飛脚を家臣湊修理へ遣わす。帰途、八森にて飛脚切られ、津軽番所へ逃避する。
寛永八年(一六三一)八月二十一日、家臣郡半丞・戸田二郎右衛門、津軽へ帰国の途次、秋田領通行の手形下付を願う。
寛永八年(一六三一)九月六日、幕府鷹匠伊藤景俊、津軽から秋田久保田へ至る。
寛永八年(一六三一)九月十三日、幕府鷹匠三橋信重、津軽へ到着する。
寛永八年(一六三一)九月二十四日、幕府馬買衆渥美政勝・秋山昌吉、秋田の湊へ宿泊し、津軽へ赴く。
寛永八年(一六三一)閏十月十九日、津軽信吉の女房衆、京都へ登るため、秋田領川口番所通過を望む。二十日、信吉の家臣江戸へ番替のため院内口馬の出判を依頼。この日、幕府鷹匠三橋信重、津軽より秋田久保田に至る。
寛永八年(一六三一)十一月八日、秋田藩重臣梅津政景へ服部康成等から書状あり。津軽領より逐電した間男の九兵衛を、返却してほしい旨を伝えられる。堺の三十郎の例をもって伝馬等を用意し送還する。
寛永八年(一六三一)十一月十三日、津軽信吉、秋田久保田城主佐竹義宣へ若青鷹を贈り、父信枚借用の判金百枚返済について、努力する旨を伝える。
寛永八年(一六三一)十一月二十八日、重臣服部康成・乾安儔、秋田久保田城主佐竹義宣の生母死去につき、飛脚を送る。
寛永八年(一六三一)、この年、幕府、駿河大納言徳川忠長の家臣奥津河内守等を、津軽家へ預ける。
寛永九年(一六三二)二月十日、津軽信吉、小知行士新里村太郎右衛門等へ黒印状を下し、知行を充行う。
寛永九年(一六三二)七月十九日、佐渡より硫黄を求めに津軽領へ入りし者、帰国の途につく。
寛永九年(一六三二)八月七日、先に津軽へ配流された東源和尚、幕府より赦免され、秋田久保田に逗留する。
寛永九年(一六三二)九月六日、幕府鷹匠伊藤景俊、秋田久保田から津軽へ赴く。翌七日、同じく三橋信重も津軽へ赴く。
寛永九年(一六三二)十月十一日、幕府鷹匠三橋信重、津軽から秋田久保田へ至る。翌日、同じく伊藤景俊も、津軽より至る。
寛永九年(一六三二)十月十四日、津軽信吉、幕府へ黄鷹四連を献上する。
寛永九年(一六三二)十月晦日、津軽信吉、秋田久保田城主佐竹義宣へ、若黄鷹を贈る。ついで重臣乾安儔・服部康成よりの書状も秋田へ来る。
寛永九年(一六三二)、この年、青森に御仮屋を建造する。
寛永十年(一六三三)二月十六日、重臣服部康成・乾安儔、久保田城主佐竹義宣の死を悼む飛脚を派遣する。
寛永十年(一六三三)四月二十一日、津軽信吉、家臣竹内又兵衛へ黒印状を下し、知行百石を充行う。
寛永十年(一六三三)、津軽信吉、将軍徳川家に拝謁し、暇を賜り、銀百枚等を拝領する。
寛永十年(一六三三)八月ヵ、幕府巡見使、津軽領内を廻り、小泊から蝦夷地へ渡海する。
寛永十年(一六三三)十月三日、津軽信吉、舟橋長真父子を伴ない、大間越より初めて入部する。
寛永十一年(一六三四)正月十一日、津軽信吉、家臣岩橋木工助をはじめ、革秀寺等へも黒印状を下し、知行を充行う。
寛永十一年(一六三四)三月二十一日、津軽信吉、重臣乾安儔と服部康成へ黒印状を下し、外浜への着船を青森に限定させることを命じる。
寛永十一年(一六三四)三月二十二日、津軽信吉、長勝寺へ禅宗法度を定める。
寛永十一年(一六三四)五月十一日、幕府年寄衆、津軽信吉等へ奉書を下し、松前よりの鷹献上道中に便宜を計らうよう命じる。
寛永十一年(一六三四)七月十一日、幕府、各大名へ上洛を命じ、津軽信吉、家臣を召し連れ供奉する。
寛永十一年(一六三四)八月二十六日、上洛後、江戸において重臣津軽伊豆等、舟橋長真らの排斥と、国元退去を訴える。
寛永十一年(一六三四)十月二十八日、江戸屋敷の舟橋長真・乾安儔、国元へ書状を遣わし、幕府年寄衆より津軽信義へ家中騒動につき審問のあったことを伝える。
寛永十一年(一六三四)十二月二十九日、津軽信義、従五位下土佐守に叙任される。
寛永十二年(一六三五)三月十二日、幕府、国書改竄により、対馬宗家重臣柳川調興らを処罰し、この日、調興、津軽へ配流を申し渡される。
寛永十二年(一六三五)三月十六日、肥後熊本城主細川忠利、津軽家を含む大名家の公事訴訟、幕府にて決着せざることを伝える。
寛永十二年(一六三五)、この年、津軽信吉、江戸城天守台の普請に参加するという。
寛永十三年(一六三六)七月二十六日、幕府老中、津軽信吉へ奉書を下し、花山院忠長の赦免を伝える。
寛永十三年(一六三六)八月二十日、幕府評定所にて津軽家々中の公事につき尋問あり。
寛永十三年(一六三六)十一月二十一日、幕府評定所にて公事落着し、乾と舟橋は松山松平家へ、津軽美作と同伊豆は長府毛利家へ預けられ、打越と沼田は追放に処せられる。国元津軽にても多くの家臣、津軽家を退去する。
寛永十三年(一六三六)、幕府老中、津軽信吉へ、朝鮮通信使の日参詣に、鞍置馬の供出を命じる。
寛永十四年(一六三七)十二月三日、幕府老中、津軽信吉へ奉書を下し、肥前島原と肥後天草にてキリシタンの一揆勃発を伝える。
寛永十四年(一六三七)、この年、信濃小諸城主松平氏の息女、津軽信吉へ入輿する。
寛永十四年(一六三七)、この年、津軽信吉の弟津軽信隆の屋敷、城の南門の付近に建築を許され、信隆、盛岡采女とともに家老に任ぜらる。
寛永十五年(一六三八)三月七日、幕府老中、津軽信吉の家臣津軽伊豆等の処分を信吉に任せ、追放を下命する。
寛永十五年(一六三八)三月二十二日、津軽信枚の室死去。長勝寺霊屋の彫刻は葵の紋とする。
寛永十五年(一六三八)三月、この月、津軽信吉、森山内蔵助へ命じて、領内津軽坂に牧場を開かせる。
寛永十五年(一六三八)九月二十七日、津軽信義、浪岡八幡宮へ棟札を奉納する。
寛永十五年(一六三八)、この年、津軽の切支丹七十三人火罪に処せられるという。
寛永十六年(一六三九)二月十九日、総寧寺等関東三ヶ寺より、長勝寺へ条目が下付される。
寛永十六年(一六三九)七月二十三日、幕府老中、津軽信吉へ奉書を下し、領内にてキリシタンの取り締りを厳重にすべきことを命じる。
寛永十六年(一六三九)九月十五日、津軽信吉、領内西の関より帰国する。
寛永十六年(一六三九)、この年、飯詰高野村、開かれる。
寛永十六年(一六三九)、この年、七月よりの大雨にて、下の切地方洪水となり、田地荒廃する。
寛永十七年(一六四〇)六月十四日、これより先、松前恵山の嶽噴火し、津軽領にも灰降る。この日、津軽領大地震あり、岩木山鳴動し、降灰あり。
寛永十七年(一六四〇)六月、この月、津軽信吉、百沢寺大堂に棟札を奉納する。
寛永十七年(一六四〇)九月五日、肥後の相良騒動により、相良頼兄、津軽家へ預けられる。
寛永十七年(一六四〇)九月二十九日、肥後熊本城主細川忠利、相良頼兄の津軽配流を国元へ報ずる。
寛永十七年(一六四〇)十一月二日、津軽信義、津軽信隆へ黒印状を下し、知行五百石を充行う。
寛永十七年(一六四〇)、この年、五穀実らず、凶作。
寛永十八年(一六四一)正月十五日、幕府外科医津軽建義、将軍へ初めて拝謁する。
寛永十八年(一六四一)正月、古懸不動尊を建立。
寛永十八年(一六四一)三月二十五日、津軽信吉、近衛家の進藤修理へ書状を遣して、津軽家系図の証判を依頼し、膃肭臍(おっとせい)等を贈る。
寛永十八年(一六四一)三月二十七日、津軽信吉の証人大道寺次郎市等、暇を与えられる。
寛永十八年(一六四一)四月二十六日、前関白近衛信尋、津軽信吉へ御内書を下し、膃肭臍等の贈物を感謝する。
寛永十八年(一六四一)四月二十六日、前関白近衛信尋、津軽信吉へ書状を下し、津軽系図の筆跡は近衛前久の筆跡なること、政信は近衛尚通の猶子なることを伝える。
寛永十八年(一六四一)四月、この月、外浜安方町に善知鳥宮を再興する。
寛永十八年(一六四一)六月四日、津軽信吉、江戸より帰国する。
寛永十八年(一六四一)十二月三日、幕府外科医津軽建広の跡目、惣領建次が相続する。
寛永十八年(一六四一)、この年、下柏木の派立を命じる。
寛永十八年(一六四一)、この年、大凶作により飢饉。二年飢餓と呼ぶ。
寛永十九年(一六四二)八月十九日、幕府老中、津軽信吉へ奉書を下し、舎弟津軽信英の小姓組番々入に際し信吉よりの樽・肴等献上を将軍へ披露した旨を伝える。
寛永十九年(一六四二)、この年、凶作。越後より米穀を移入し、弘前にて救米一人四升五合を給付する。
寛永二十年(一六四三)五月二十一日、津軽信吉、江戸より帰国する。
寛永二十年(一六四三)九月十一日、幕府老中、津軽信吉へ奉書を下し、筑州大島へ漂着した伴天連といるまんの情報を伝達して、領内キリシタンの取り締りを厳重にすべきことを命じる。
寛永二十年(一六四三)十二月二日、幕府老中、津軽信吉へ奉書を下し、南部領へ漂着したオランダ船ブレスケンス号の情報を伝え、漂着異船の取り扱いを伝える。
寛永期、幕府老中、津軽信吉へ奉書を下し、津軽領内で発覚したキリシタンの詮議を厳重にすべきことを命じる。
正保元年(一六四四)正月二十日、津軽信義、家臣山屋氏をはじめ、家臣団へ知行充行状を下付する。
正保元年(一六四四)正月、津軽信吉、信義と改名する。
正保元年(一六四四)二月、この月、津軽信義、重臣杉山吉成へ黒印状を下し、知行五百石を充行う。
正保元年(一六四四)三月十五日、津軽信義、参勤のため国元を出発する。
正保元年(一六四四)三月、この月、津軽信義、小知行士町田村野呂陸右衛門へ黒印状を下し、知行三十石を充行う。
正保元年(一六四四)三月、この月、板屋野木村の派立を命じ、縄張を実施する。
正保元年(一六四四)九月、松前福山城主松前家の一門松前景広の嫡男宣広、松前を出航し津軽に漂着するという。
正保元年(一六四四)十一月二十四日、幕府老中、津軽信義へ奉書を下し、領内でのキリシタンの詮索を命じる。
正保二年(一六四五)閏五月十一日、幕府、表外科津軽建次等を派遣して、柳原大納言を応診させる。
正保二年(一六四五)九月十九日、盛岡藩、津軽牢人工藤氏の南部領入国を認める。
正保二年(一六四五)十二月九日、家臣鎌田五郎兵衛、台所賄米の受領を八木橋・工藤両氏へ伝える。
正保二年(一六四五)十二月二十七日、幕府老中、津軽信義へ奉書を下し、樽・肴献上を感謝する。
正保二年(一六四五)十二月二十八日、津軽信義、江戸幕府へ陸奥国津軽郡之絵図と津軽知行高之帳を作成し、提出する。
正保二年(一六四五)、この年、幕府から佐久間喜左衛門を預けらる。同人、慶安二年、津軽にて死去。
正保三年(一六四六)正月十一日、幕府証人奉行杉浦正友等三名、津軽信義へ書状を下し、証人森岡与太郎・北村藤九郎への交代を認める。
正保三年(一六四六)三月十一日、津軽信義、参勤のため国元を出発する。
正保三年(一六四六)三月二十五日、幕府、津軽家証人、大道寺二郎一郎から北村藤九郎への交代を認める。
正保三年(一六四六)四月四日、幕府、検使を下関毛利家へ派遣して、同家預り人津軽伊豆の検死を実施させる。
正保四年(一六四七)四月十一日、幕府、津軽家証人北村藤九郎等へ暇を下し、袷・羽織等を賜う。
正保四年(一六四七)四月十四日、盛岡藩、江戸より津軽へ至る船に手形を与え、領内航行に支障なきことを入津船改方へ伝達する。
正保四年(一六四七)五月十五日、津軽信義、江戸より帰国する。
正保四年(一六四七)八月十日、幕府老中、津軽信義へ奉書を下し、長崎へ黒船入津を伝達する。
正保四年(一六四七)十二月二十八日、重臣杉山吉成等盛岡・北村両名へ書状を遣わし、富岡武兵衛の仕置を依頼する。後、津軽信義排斥の家中騒動起こる。
正保四年(一六四七)十二月、この月、津軽信義、一門の津軽信隆へ掛落林村に加増し、五百石の知行宛行状を下す。また、家臣外崎弥五郎右衛門へも知行を充行う。
正保四年(一六四七)十二月二十八日、永平山良頓、長勝寺へ定書を下し、領内僧録に任ずる。
正保四年(一六四七)、この年、領内石渡村より独狐村までの街道を建設し、街道南側に柳を植樹する。
慶安元年(一六四八)正月十八日、領内大洪水により、三世寺村より下通り水深七八尺に及ぶという。五穀不熟の大凶作。
慶安元年(一六四八)閏正月十七日、弘前城内にて乱心者村山七左衛門、北村久左衛門を討つ。唐牛吉太夫、村山を討ち取り、その功を賞して加増される。
慶安元年(一六四八)閏正月十九日、幕府老中阿部重次外二名、津軽信義へ奉書を下し、鶴松誕生慶賀の使者派遣と樽肴進上を謝する。
慶安元年(一六四八)二月八日、幕府老中、津軽信義へ奉書を下し、日社参後の四月に参府すべきを命じる。ついで、日参詣の使者派遣を感謝し、領内軽罪者の赦免を命じる。
慶安元年(一六四八)二月十三日、津軽信義、一門津軽信隆へ知行目録を下付し、三百石を加増する。
慶安元年(一六四八)四月六日、幕府、表番外科津軽建次へ銀十枚を下賜する。
慶安元年(一六四八)四月二十一日、津軽信義、参勤のため国元を出発する。
慶安元年(一六四八)九月八日、幕府鷹師衆、南部領より津軽外浜へ通行せんとし、伝馬・人足の準備を命じる書付写を小湊・青森等へ伝達する。
慶安元年(一六四八)九月九日、盛岡藩、津軽領に付け置いた治右衛門よりの口書を受領する。
慶安元年(一六四八)、この年、幕府普請方より普請役ならびに在番の有無を尋ねられ、開幕以来、普請役賦課のなきことを答える。
慶安元年(一六四八)、この年、韃靼国、高麗へ侵攻し日本国へも侵攻の報あり。江戸屋敷の渡辺図書より幕府の下知次第出陣すべき旨の書状来るも、止む。
慶安二年(一六四九)二月、津軽領分大道小道磯辺路并船路之帳を作成し、江戸へ運搬させる。
慶安二年(一六四九)五月三日、弘前城下横町より火災起き、寺町の五か寺等を焼失。翌三年三月、南溜池の南側に新寺町の派立なる。
慶安二年(一六四九)六月二十日、津軽信義、江戸より帰国する。
慶安二年(一六四九)八月二十三日、佐藤理左衛門・村井新助を青森猟師町派頭に任命する。
慶安二年(一六四九)、この年、十三湊の湊口切替工事に着手するも、成就せず。
慶安三年(一六五〇)正月二十四日、幕府、表外科津軽建次等へ命じて、増上寺方丈を応診させる。
慶安三年(一六五〇)三月十日、津軽信義、参勤のため江戸へ出発する。ついで、嫡子平蔵も初めて江戸へ登る。
慶安三年(一六五〇)四月六日、盛岡藩、津軽領よりの欠落百姓三十二人へ、扶持米を給与する。
慶安三年(一六五〇)四月十八日、津軽領より南部領へ帰参百姓あり。
慶安三年(一六五〇)、この年、寒沢(さぶさわ)の尾太(おっぷ)銀山を開く。
慶安四年(一六五一)四月十六日、重臣永山助左衛門等三名、青森町年寄佐藤・村井両名へ書状を下し、同町地子徴収の指令を伝える。
慶安四年(一六五一)八月七日、重臣傍島九郎左衛門等、国元へ書状を下し、由井正雪の謀反と鎮圧の経過、ならびに南部家加担の風聞を伝達する。
慶安四年(一六五一)八月十五日、津軽信義、江戸より国元へ帰国する。
慶安四年(一六五一)九月九日、遊行上人、領内鰺ヶ沢へ至り、弘前・青森を経由して南部領へ赴く。
慶安四年(一六五一)十月十日、外浜へ新たに知行を拝領した家臣の書上げを命じ、在々御侍衆改帳を作成する。
慶安四年(一六五一)、この年、広須古川袋の大川掘替工事あり、鶴田村開村する。
承応元年(一六五二)二月五日、津軽信義、弘前八幡宮神主へ知行目録を下し、三十石を充行う。同日、家臣外崎弥五右衛門へ二十石を加増する。
承応元年(一六五二)三月六日、津軽信義、参勤のため江戸へ出発する。
承応元年(一六五二)四月十七日、盛岡藩、津軽領目内沢より六戸への欠落者へ扶持米を給付する。
承応元年(一六五二)五月十一日、盛岡藩、津軽領より八戸町への欠落者へ扶持米を給付する。
承応元年(一六五二)五月十五日、盛岡藩、津軽領大坂より五戸への欠落者十人へ扶持米を給付する。
承応元年(一六五二)七月七日、盛岡藩、藩境の二本股銀山のいずれの藩領なるかを、検分させる。
承応元年(一六五二)、この年、弘前城下に本寺町の屋敷割を行う。
承応二年(一六五三)三月二十一日、津軽信義の証人交代あり。
承応二年(一六五三)四月二十八日、盛岡藩、南部領宮古へ入津した津軽への渡海船四艘の船中改を行う。
承応二年(一六五三)五月十日、これより先、津軽信義帰国の暇を賜り、六月十五日、国元へ帰国する。
承応二年(一六五三)十一月十六日、津軽領道程帳、加賀国の写本を基に作成され、この日、完成する。
承応二年(一六五三)十二月十八日、津軽領内大地震。
承応二年(一六五三)、この年、弘前城下洪水にて土手町の大橋落ち、また千立〔達〕が渕に架橋する。
承応三年(一六五四)三月十日、津軽信義、参勤のため江戸へ出発し、高倉五兵衛等も登る。四月四日、江戸城へ登城し、参勤御礼を行う。
承応三年(一六五四)三月二十四日、津軽信義の証人交代あり。
承応三年(一六五四)五月、この月、江戸浜手屋敷抱地五百八十一坪を得る。
承応三年(一六五四)六月、津軽信義、幕府使番石川貴成との紛議にて逼塞する。
明暦元年(一六五五)正月二日、津軽信義、幕府へ目見を願う。ついで、三月十二日、嫡子平蔵、江戸へ登り、証人の交代あり。
明暦元年(一六五五)五月十二日、碇ヶ関出入物についての定書を下付する。
明暦元年(一六五五)九月七日、新里村喜左衛門等、鮭穿判紙の下付を願う。
明暦元年(一六五五)十一月二十五日、津軽信義、江戸で死去する。山本安次等四名、殉死する。
明暦二年(一六五六)二月二日、幕府、津軽信義嫡子平蔵へ、老中酒井忠清宅にて跡目相続を許し、書院番津軽信英へ五千石を給し、平蔵後見を命じる。