弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

資料編1(古代・中世編)

新編弘前市史 資料編1(古代・中世編)

第4章 弘前地域の金石文

第四節 板碑

六 板碑の調査・研究史

 津軽地方の板碑の調査が始められたのは、江戸時代も中期になってからのことである。十八世紀末から十九世紀初頭にかけて、津軽地方全域を歩いて本草学や民俗学などの調査研究に当たった菅江真澄は、石造遺物にも強い関心を持ち、多くの板碑の存在を確認し記録した。
 真澄が確認した弘前市及びその周辺の古碑を挙げると次のようになる。
岩木町新法師の板碑 「やをら高岡を出でて新法師の村のかた岨に、高館の城のあるじ、なにがしの塚の石ぶみは、かれふの草にふしまろびたり」 (津可呂の奥(つがろのおく))
弘前市薬師堂の板碑 「薬師堂村に、をたきの神籬ある下つかたに、いにし日見しふる碑のあたりは、ふる寺のあとにして、その碑も乳井(ニノ井)大隅守の塚しるしとぞいへる」(栖家能山(すみかのやま))
岩木町如来瀬の板碑 「如来瀬邑に、いとふるきいしぶみのあるよし聞て、川わたりてその村になしりかば、みちばたに立るをさぐりみれど」 (都介路迺遠地(つがろのおち))
弘前市城東・外崎の板碑 「寺内チといふ村のほとりに、としふるいしぶみのありけると聞て、(中略)福村のこなた福田といふ村の田の岸に、(中略)正安二年、三年の石そとばのふたつまでありける也けり、いかなる人のしるしにてや。かくて外崎(トノサキ)村の池のほとりを過るに、建武のとしなるいしぶみたてり」 (都介路迺遠地)
弘前市中別所の板碑 「この中別所と宮館といふやかたありけるあはひに、(中略)石仏ヶといふ田のあぜ、畑中、木の下、草の中などに、石塔婆のこゝらたち、あるは、ふしまろび莓(苔)に埋れ、すれやれて、文字のすがたもやゝ見やらるゝは、(中略)しらぬ弘安、正和、延慶、永仁、元応は、よみもときたり」 (都介路迺遠地)
藤崎町唐糸の板碑 「から糸のもゝとせをやとぶらひけん、延文四とせの石のそとば、畠中に立たり」 (都介路迺遠地)
以上、真澄が見た弘前及びその周辺の板碑記述を列挙した。内容的には、直ちに信じがたい部分もあるが、一八〇〇年ころの板碑の状況を知ることができておもしろい。
 菅江真澄が津軽地方の板碑に関心を持ち始めたのは、寛政八年(一七九六)ころからであり、五年後の享和元年(一八〇一)には津軽を去っている。真澄の調査は弘前藩に影響を与え、享和二年(一八〇二)六月四日、藩は、
一 御国元而年数四百年より以上之撞鐘并石碑、土器之銘有之候ハバ、年号并在所を書付可被申出候様(以下略)〈弘前藩庁日記・弘前市立図書館蔵〉

という触を出し、銘のある金石造遺物を届け出るよう、また年代・所在地を確認するように命じている。菅江真澄が津軽を去った翌年のことであり、調査関係者は真澄と深い交わりのあった人々である。この時の成果は『古碑考』『津軽郡古碑名申出図書写』『撞鐘古碑石調之覚』『古石碑之銘』(以上弘前市立図書館蔵)、『津軽郡中古碑図考』(成田祐之氏蔵)などの記録となって現存する。なお、『撞鐘古碑石調之覚』は、宮舘〈中別所〉・三世寺・外崎(以上弘前市)、藤崎(藤崎町)、関・金井ヶ沢(以上深浦町)などの板碑を記録しているほか、富田村桔梗長根(弘前市清富町付近か)にあった「応長元年(一三一一)九月廿日」の板碑も図示しており、貴重な存在といえる。
 幕末期になると画人であり、国学者でもあった平尾魯仙が板碑に関心を寄せ、『宏齋抄志』に板碑の記事を載せたほか、『合浦山水観』の中に「湯之嶋并古碑紀行」を残している。魯仙は、この紀行で中別所の公卿塚の板碑を写生している。「従独狐邑山中眺岩木山」「宮舘邑古碑之図」がそれである。菅江真澄も中別所の石仏の板碑を描いており、江戸時代の中別所の板碑を知る手がかりとして貴重なものである。

「宮舘邑古碑之図」(平尾魯仙『合浦山水観』〈弘前市立図書館蔵〉所載)中別所の公卿塚の板碑を写生

 明治維新後、青森県は『新撰陸奥国誌』編纂に着手し明治九年(一八七六)岸俊武の手により完成した。この中にも板碑に関する記述がある。
 明治から大正にかけての板碑の研究者として、下沢保躬・下沢陳平・佐藤蔀らを挙げることができるが、特に、中村良之進の業績を忘れることはできない。彼の板碑調査の成果は、昭和二年(一九二七)に『陸奥古碑集』となって出版された。調査の手法は、享和二年の板碑調査の延長上のものである。板碑のほか五輪塔・宝篋印塔を含めおよそ三〇〇基の石造遺物を取り上げ、一〇分の一の大きさで描いた本書は、学会で高く評価され板碑研究に役立っている。
 昭和十年代に入ると、成田末五郎が中別所の板碑群を史跡にするため尽力したほか、各地で板碑の調査を進めた。なお、中別所の源光氏の碑は昭和十七年(一九四二)、国の重要美術品に指定された。
 太平洋戦争後、成田彦栄は『青森県西海岸の板碑文化』を発表した。この研究は、今までの板碑所在地の調査から一歩進んで板碑の信仰内容・様式・造立者などを、これまでと違った角度から考察し、研究を前進させた。
 昭和五十年代に入ると青森県立郷土館が板碑の調査を行い、『青森県の板碑』が刊行された。これとほぼ同時期に、弘前市教育委員会は『弘前の文化財-板石塔婆(板碑)』を出版した。両書の刊行とともに、戸沢武・小舘衷三・福井敏隆が県内の板碑を分析し、論文を発表している。
 隣接する秋田・岩手両県でも板碑の研究は進んだ。特に、磯村朝次郎が秋田県鹿角地方の板碑を発見したことは、津軽地方の板碑を考える上で重要なことだった。岩手県北部から秋田県鹿角地方を通り、津軽平野に入る板碑の流入経路の一つが確認されたわけであり、板碑研究はより広い視野、点から線へと考察が進められるようになった。
 全国的な視野から津軽地方の板碑をとらえる研究には、『板碑の総合研究』(坂詰秀一編)があるが、これとは別に千々和実・千々和到の研究があり、千々和到は『板碑とその時代』で、「青森県の板碑文化は少くとも二波の波によってもたらされた方が納得がいく」と述べ、陸の道と海の道の存在を提示した。陸の道によってもたらされた板碑は、津軽平野内陸部の板碑、それに対して西海岸地方の板碑は日本海の交通路、海の道の影響を受けたものと考察されている。