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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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資料編1(古代・中世編)
新編弘前市史 資料編1(古代・中世編)
第1章 蝦夷・津軽関係編年史料
278 ~ 359 / 681ページ
[十六世紀]
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文亀二年(一五〇二)、この年、南部氏、藤崎・大光寺城を攻め安東教季没落するという。天文二年説もあり。
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文亀二年(一五〇二)、南部光信、大浦城を築いて嫡男盛信をおくという。
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文亀三年(一五〇三)十月二十四日、熊野御師重豊、津軽一円・夷島一円の旦那を実報院に売却する。
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永正二年(一五〇五)十二月十七日、葛西頼清、深浦円覚寺本堂を建立する。
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永正三年(一五〇六)四月十七日、葛西頼清、深浦円覚寺薬師堂(か)を建立す。
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明応六年(一四九七)~永正九年(一五一二)の間、古河公方足利政氏、久慈右京亮(南部光信か)に御内書を遣わす。
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永正九年(一五一二)四月、宇須岸(函館)・志濃里・与倉前の館、蝦夷の攻撃により陥落。領主ら自殺するという。
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永正十年(一五一三)六月、松前大館、蝦夷の攻撃により陥落し、松前守護相原季胤自害するという。
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永正十一年(一五一四)三月、蠣崎光広父子、上ノ国より松前大館に移り、のち檜山屋形下国安東尋季より狄島守護に任ぜられるという。
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永正十一年(一五一四)四月、若狭国羽賀寺、後柏原天皇綸旨と青蓮院門跡尊猷法親王勧進状により本堂修復。その中に「奥州十三湊日之本将軍」による再建の事蹟が記される。
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永正十四年(一五一七)八月一日、三上盛介、岩木山御宝殿に釣燈籠を寄進する。
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永正十五年(一五一八)九月十一日、深浦円覚寺の堂宇建立、供養行われる。
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永正十六年(一五一九)四月七日、本満寺僧某、蝦夷島へ渡り、土産として昆布・夷筵を前関白近衛尚通に進上する。
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大永二年(一五二二)五月三日、波岡御所北畠顕具、死去するという。
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大永三年(一五二三)五月、南部(大浦)光信、種里八幡宮を建立するという。
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大永四年(一五二四)ころ? 細川高国、秋田湊安東左衛門佐入道(宣季)の鷹進上を謝する。
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大永四年(一五二四)ころ? 檜山下国安東尋季、幕府三職家の斯波政綿に書を通ずる。政綿、馬・鷹の献上を要請する。
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大永六年(一五二六)十月、南部(大浦)光信、死去すると伝える。
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天文二年(一五三三)、この年、南部安信、藤崎城主安東教季・大光寺城主葛西頼清を討ち、弟高信を石川城に置くという。文亀二年説もあり。
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天文二年(一五三三)、この年、京都本国寺僧日尋、鼻和郡賀田村(現岩木町賀田)に法華宗寺院法立寺を開山するという。
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天文二年(一五三三)七月、幕府政所伊勢氏の一族伊勢貞満、細川晴元の要請により書札礼を著し、その中で、南部家、秋田湊安東家を「謹上書衆」と記す。
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天文五年(一五三六)六月、蠣崎良広、西蝦夷の首長タリコナを謀殺。以後、蝦夷の蜂起鎮まるという。
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天文八年(一五三九)閏六月~七月、南部彦三郎(晴政)上洛し、将軍義晴より偏諱(晴の一字)を受ける。
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天文十年(一五四一)五月九日、南部(大浦)政信、死去すると伝える。
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天文十三年(一五四四)、弘前親方町竹内氏、この年より先祖嘉右衛門が十三湊にて大浦氏の
廻船
御用を務めると伝う。
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天文十五年(一五四六)七月二十三日、秋田の湊安東堯季、石山本願寺末寺「夷嶋浄願寺」からの錦(蝦夷錦か)を、本願寺へ届ける。
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天文十五年(一五四六)、深浦森山館主飛驒守季定、下国安東尋季・舜季父子に滅ぼされるという。このとき蠣崎季広出兵するという。
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天文十五年(一五四六)、浪岡御所北畠氏、「津軽郡中名字」を編纂するという。
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天文十六年(一五四七)十二月九日、石山本願寺証如上人の斎相伴衆に「ツカル真教寺」の名が見える。
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天文十七年(一五四八)、イエズス会宣教師ランチロット、ゴアで日本人ヤジローより蝦夷についての情報を聞く。
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天文十七年(一五四八)、この年、蠣崎季広、若狭武田氏と音信を通ずるという。
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天文十九年(一五五〇)六月、檜山屋形下国安東舜季、蝦夷島を巡見するという(東公之嶋渡)。また蠣崎季広、湊家をはじめ津軽・秋田の諸氏と姻戚を結ぶという。
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天文十九年(一五五〇)八月、若狭守護武田信豊、関戸豊前守(下国安東舜季家臣か)に「奥州戸館馬」贈与の礼として、祈禱所小浜本鏡寺の寺役を免除する。
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天文二十年(一五五一)、蠣崎季広、蝦夷と講和し、夷狄商舶往還の法度を定めるという。
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天文二十一年(一五五二)二月二十七日、波岡御所北畠具永、山科言継の口入により、四位に任官、孫具運も叙爵される。
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天文五~二十一年(一五三六~五二)、「歴名土代」に波岡御所北畠具永・具統・具運の叙爵任官の記事あり。伊勢国司北畠具教一族も、同じ時期同様の叙爵任官にあずかる。
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天文二十一年(一五五二)十月三日、波岡御所北畠具統、死去するという。
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天文二十三年(一五五四)七月二十日、波岡御所北畠具永、山科言継に叙爵任官の礼物を贈る。
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弘治元年(一五五五)五月二十四日、波岡御所北畠具永、死去するという。
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永禄元年(一五五八)、北夷地(樺太)産の上質の鷲羽、松前にもたらされ、蠣崎季広、これを熊野大社に奉納するという。
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永禄元年(一五五八)十二月、「南部桜庭之合戦」落着するという。
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永禄二年(一五五九)二月二十三日、山科言継、波岡御所北畠具運への書状をしたたむ(任官関係か)。
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永禄二年(一五五九)、この年、津軽天候不順で、飢饉になるという。
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永禄二年(一五五九)八月、波岡御所北畠具永、油川熊野十二所権現宮を再興するという(京徳寺過去帳によれば具永の死は弘治元年、具運の代か)。
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永禄三年(一五六〇)九月二十五日、岩木山神社御宝殿造営、棟札に大旦那南部信濃守為則、祢宜阿部与四郎仲信の名がある。
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永禄三年(一五六〇)、蠣崎慶広、波岡御所北畠顕慶(具運)に仕え、船着き場として潮潟野田玉川村を与えられるという。
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永禄四年(一五六一)七月、外浜今別城主平杢之介室、今別八幡宮を再建するという。永禄三年波岡御所北畠具運室再建の所伝もある。
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永禄五年(一五六二)四月、川原御所北畠具信、波岡御所具運を殺害するという(川原御所の乱)。
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永禄五年(一五六二)八月、檜山の下国安東愛季、浅利則祐を比内扇田長岡城に攻め自害させるという。
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永禄五年(一五六二)十一月、越後上杉氏、檜山屋形下国安東愛季の好誼を謝するとともに、再び鷹を所望する。
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永禄五~十二年(一五六二~六九)の間、越後上杉氏、秋田方面へ船を派遣し、秋田沿海の通過と諸浦出入の保証を下国安東愛季に求める。
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永禄七年(一五六四)ころ? 在京中の南部信長、「南部七戸殿」の鷲尾進上と子女扶養を謝し、来年の下国予定を書き送る。
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永禄八年(一五六五)、イエズス会宣教師ルイス・フロイス、蝦夷についての情報を報告する。
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永禄八年(一五六五)、この年冷害により津軽大凶作。翌年にかけ餓死者続出すると伝えられる。
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明・嘉靖四十五年(一五六五 永禄八)、明で『日本一鑑』を作成。所載の「日本行基図」に、秋田城・津軽・竹浜(外浜か)・守曽利(宇曽利か)・夷地などの地名が記される。
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永禄十年(一五六七)二月、南部氏、藤崎城を修築するという。
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永禄十年(一五六七)ころ? 檜山屋形下国安東愛季、庄内の砂越也足軒宗順(愛季舅)の仲介で越前朝倉家と通交、朝倉家、脇指・鉄砲・装束等を贈る。
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永禄十年(一五六七)、この年、大浦為則、女婿為信に家督を譲り、まもなく死去するという(為則の死は、永禄四年とも、十一年、十二年ともいう)。為信は弟武田守信の子とも、南部久慈治義の子ともいう。
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永禄十年(一五六七)、大浦為信、「庄内」最上義光と好誼を結ぶという(庄内大宝寺氏との通交を誤り伝えるものか)。
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永禄十二年(一五六九)三月十五日、「津軽之南部弥左衛門」(波岡御所使節、下国安東愛季郎従南部季賢か)、上洛して山科言継を訪問する。
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永禄九~十二年(一五六六~六九)ころ? 信家、波岡御所(北畠顕村)の助勢による戦勝を謝し、あわせて保呂綿(閉伊郡)・鹿角の状況を伝える。
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永禄十三年(一五七〇)四月、源経家、種里八幡宮堂宇を建立するという。
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永禄年間末ごろ、このころ、瀧本播磨守重行、大光寺城城代となるという。
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元亀二年(一五七一)、イエズス会宣教師ガスパル・ビレラ、蝦夷についての情報を報告する。
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元亀年間(一五七〇~七二)ころ、南部氏、晴政・信直の継嗣問題をめぐって内訌。晴政、信直派の浅水城主南慶儀、見吉(剣吉)城主北信愛を攻め、八戸政栄にも出馬を求む。
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元亀二年(一五七一)五月、大浦為信、石川城に南部高信を攻め、これを滅ぼすという。南部勢、津軽に出陣するも退くという。(南部氏側にこの記録なし。また「津軽一統志」は南部勢の出陣を翌元亀三年とする)。
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元亀三年?(一五七二)三月二十四日、浅水城主南慶儀、大浦為信の叛旗とその後の津軽情勢を八戸政栄に告げ、対応を策す。
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元亀末~天正初年ころ、名久井城主東政勝、南部晴政・信直和議の件について八戸氏に返書を送り、あわせて八戸勢の藤嶋(十和田市)警固を謝する。
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元亀三年(一五七二)、南部側史料、この年、南部高信が津軽三郡を平定すると伝う(天文二年の事件を誤り伝えるものか)。
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天正二年(一五七四)三月、大光寺城代瀧本重行、乳井福王寺玄蕃を謀殺するという。
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天正二年(一五七四)三月、津軽斎藤氏、系譜を作成する。
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天正三年(一五七五)二月二十日、織田信長、下国安東愛季郎従南部宮内少輔季賢(波岡御所北畠顕村の使節か)の帰国に際して、書を愛季へ送り、鷹の所望と鷹師下向を伝える。
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天正三年(一五七五)八月、大浦為信、大光寺城を攻めるという。
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天正三年(一五七五)十一月、織田信長、嫡子信忠を秋田城介に任官させ、さらに家督を譲る。
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天正四年(一五七六)正月、大浦為信、大光寺城を攻略し、城代瀧本重行は南部へ退去するという。
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天正四年(一五七六)ころ? 庄内の大宝寺義氏、大浦為信の浅瀬石ほか十余ヶ城攻略と大光寺城攻めを賀し、その後の情勢を尋ねる。
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天正四年(一五七六)ころ? 下国安東愛季側近奥村惣右衛門あて湊安東茂季(湊家当主・愛季弟)書状。大浦為信と愛季・茂季の通交が記される。
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天正五年(一五七七)六月一日、織田信長、下国安東愛季の鷹進上を謝し、使者と太刀を送る。
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天正五年(一五七七)七月二十二日、下国安東愛季、従五位下に叙爵さる。
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天正五年(一五七七)七月二十二日、三条西実枝、織田信長に書状を送り、下国安東愛季叙爵の事情を述べる。
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天正五年(一五七七)閏七月二十日、下国安東愛季、織田信長からの書と祝儀を謝し、あわせて浪虎(ラッコ)皮十枚を進上する。
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天正六年(一五七八)七月、大浦為信、波岡城を攻略し、波岡御所北畠顕村(具愛)を自害させるという。
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北畠弾正・右近慶好父子、浪岡落城後、檜山の下国安東愛季のもとに来りて茶臼館に住す。のち右近は岩倉右近季慶と改名、さらに「秋田」賜姓を許されるという。
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天正六年(一五七八)八月、「奥州津軽之南部宮内少輔」(安東愛季郎従南部季賢)、安土へ上り、織田信長に鷹を進上する。蠣崎季広の四男正広もこれに同道して上洛、信長に謁する。
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天正六年(一五七八)十月四日、松前の蠣崎季広、下国安東愛季の側近にあてて書状を送り、檜山勢の津軽出陣を賀するとともに、四男正広の上洛について弁明する。
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天正七年(一五七九)正月十七日、蠣崎季広、「波岡御弓矢」(波岡御所滅亡による檜山・大浦合戦)のため、津軽波岡口に出陣することを檜山に言上する。
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天正七年(一五七九)正月十七日、蠣崎慶広、主君下国安東愛季に昆布・玉鯨を献上するとともに、父季広の波岡口出陣を告げる。
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天正七年(一五七九)七月、檜山勢(下国安東愛季勢。大光寺勢とするのは誤り)、津軽に侵攻し、乳井・六羽川にて大浦為信勢と戦うという。
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天正七年(一五七九)七月、奥羽の諸大名、織田信長に鷹・駿馬を進上。信長これを饗応し安土城天主を見せる。安土滞在中の「津軽の南部宮内少輔」(南部季賢)もこの接待にあずかる。
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天正八年(一五八〇)八月十日、柴田勝家、鷹入手のための使者を津軽・糠部に派遣し、路次の保証を下国安東愛季に求める。
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天正八年(一五八〇)八月十三日、下国安東愛季、従五位上侍従に叙爵任官する。
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天正九年(一五八一)二月二十八日、織田信長、京都に御馬揃を行い、「奥州津軽日本」までの天下の名馬を集めたと称する。
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天正九年(一五八一)七月二十一日、下国安東愛季、黄鷹・白鳥を織田信長に進上する。
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天正九年(一五八一)、下国安東愛季、鹿角において南部勢と合戦。蠣崎季広九男中広、従軍して戦死するという。
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天正四~十年(一五七六~八二)の間? 下国安東愛季、「深浦口逆意之方」を成敗したことを仙北六郷氏に告げる。
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天正十年(一五八二)四月三日、由利侵攻中の大宝寺義氏、大曲城主前田薩摩守に、津軽勢八森進出のうわさの確認を要請する。
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天正十年(一五八二)六月二十九日、蠣崎季広、下国安東愛季よりの軍役令に応じ、子息慶広を庄内大宝寺勢との合戦に参上させる。
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天正十年(一五八二)七月五日、大宝寺義氏、由利郡の領主戸蒔中務少輔にあてて、津軽勢(大浦為信)と呼応して、秋田領(安東愛季領)に進攻すべきことを書き送る。
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天正十年(一五八二)、三戸城主南部信直、弟政信を波岡城に入部させ、津軽郡代にするという。大光寺城もこのころまでに南部氏側に奪回された模様。
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天正十一年(一五八三)四月十二日、羽柴秀吉、賤ヶ岳合戦の勝利を小早川隆景に告げるとともに、「津軽合浦外浜」まで敵なし豪語する。
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天正十一年(一五八三)五月十九日、下国安東愛季、蠣崎慶広の功(比内扇田城主浅利勝頼〔義正〕謀殺)を賞し、「馬繋所」一所を与える。
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天正十~十二年(一五八二~八四)ころ? 浅水城主南慶儀、八戸政栄と書を交し、津軽の大浦為信対策と南部家中統一の手だてについて策す。
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天正十~十二年(一五八二~八四)ころ? 南部信直、櫛引八幡宮に参詣。その際、信直・八戸政栄・東政勝・南慶儀の四者会談が行われ、それぞれ信直への奉公を誓う。
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天正十二~十五年(一五八四~八七)、浅利頼平、大浦為信の援助を受け、しばしば比内に侵攻するも成功せずという。
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天正十三年(一五八五)三月、大浦為信、外が浜油川城を攻略し、外が浜一帯の領有化に着手するという。
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天正十三年(一五八五)四月、南部信直の将名久井日向守(名久井城主東政勝)、八甲田口より浅瀬石を攻めるも敗北するという。
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天正十三年(一五八五)四月二十五日、下国安東愛季、鹿角大湯氏あての返書で南部信直との和議交渉と、津軽出兵への援助を知らせる。
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天正十三年(一五八五)五月、大浦為信、田舎館城を攻略するという。
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天正十三年(一五八五)六月、藤崎において、大浦為則の実子、五郎君・六郎君不慮の死をとげるという。
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天正十四年(一五八六)正月、大浦為信、猿賀神宮寺を祈願所となすという。
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天正十四年(一五八六)十月三日、小野寺輝道、南部信直の滴石(雫石)攻略を賀する。
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天正十四年(一五八六)十二月、関白豊臣秀吉、「関東・奥両国惣無事之儀」を命じ、違反者は成敗すべきことを令する。
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天正十五年(一五八七)正月、大浦為信、堀越城を修築するという。
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天正十五年(一五八七)六月二十九日、前田利家、血判誓紙をしたため、南部信直を関白秀吉に取成すことを約束する。
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天正十五年(一五八七)八月二十二日、前田利家、関白秀吉への取成しに成功し、南部氏が豊臣大名として認定されたことを信直に告げる。
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天正十五年(一五八八)、この年、大浦為信、猿賀神宮寺十二坊を改易し、天台宗より真言宗に改めるという。
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天正十六年(一五八八)三月、波岡城主南部政信死去するという。南部氏側では大浦為信の謀略による毒殺と伝える。
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天正十六~十八年(一五八八~九〇)ころ? 南部信直、津軽より南部領への引揚げ者に対する対策を指示する。
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天正十六年(一五八八)八月五日、南部信直、斯波御所を高水寺城に攻めて滅ぼし、葛西晴信、これを賀する。
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天正十六年(一五八八)八月五日、仙北の本堂道親、南部信直の斯波御所攻略を賀するとともに、最上義光の仙北介入に対し、信直の援助を求める。
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天正十七年(一五八九)二月、秋田豊島城主湊通季(湊安東茂季の子)、湊城主安東実季を急襲、北奥羽をまきこむ動乱に発展する(湊合戦)。
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天正十七年(一五八九)四月、南部勢、湊合戦に乗じて比内を占領、阿仁米内沢に進出するが、米内沢の合戦に敗北する。
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天正十七年(一五八九)八月二日、豊臣秀吉、南部信直に上洛の路次安全をはかることを告げる。
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天正十七年(一五八九)八月二十日、前田利家、南部信直に書を送り、今秋か来春、秀吉が「出羽・奥州両国之御仕置」のため出馬すること、秋田を直轄領として没収し津軽も討伐することを告げる。
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天正十七年(一五八九)九月三日、蠣崎慶広、南部信直に鷹を贈り好みを通ずる。
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天正十七年(一五八九)、大浦為信、秋田の安東実季と和睦、秋田勢の比内出兵に援軍を送るという(ただし、秋田勢の比内攻撃は天正十八年、相手は浅利氏でなく南部氏で、従来誤り伝えられていたもの)
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大浦為信、浅利頼平を十数年庇護せしこと、天正十八年、秋田家の比内回復後、比内の故地に復帰させしこと、秋田実季の申状に見える。
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天正十七年(一五八九)十二月二十四日、豊臣秀吉、大浦為信の鷹献上を賞する。
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天正十八年(一五九〇)正月十六日、豊臣秀吉、大浦為信の鷹献上を賞するとともにその領土支配を承認する。
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天正十八年(一五九〇)正月二十八日、織田信雄、大浦為信の鷹献上を賞し、あわせて、派遣する鷹取りの世話を依頼する。
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天正十八年(一五九〇)正月、大浦為信、家中および町・在ともに系図改めの触れを出すという。またこの年、碇ヶ関道(矢立峠道)の整備を行うという。
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天正十八年(一五九〇)三月、大浦為信、秋田の湊安東実季と同盟の上、波岡城を占領、津軽一円を領有するという。
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天正十八年(一五九〇)四月十一日、豊臣秀次、大浦為信の鷹献上を賞する。
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天正十八年(一五九〇)五月一日、小田原在陣中の豊臣秀吉、大政所に手紙を送り、関東奥羽仕置のことを述べる。
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