弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

資料編1(古代・中世編)

新編弘前市史 資料編1(古代・中世編)

第1章 蝦夷・津軽関係編年史料

文亀二年(一五〇二)、この年、南部氏、藤崎・大光寺城を攻め安東教季没落するという。天文二年説もあり。
文亀二年(一五〇二)、南部光信、大浦城を築いて嫡男盛信をおくという。
文亀三年(一五〇三)十月二十四日、熊野御師重豊、津軽一円・夷島一円の旦那を実報院に売却する。
永正二年(一五〇五)十二月十七日、葛西頼清、深浦円覚寺本堂を建立する。
永正三年(一五〇六)四月十七日、葛西頼清、深浦円覚寺薬師堂(か)を建立す。
明応六年(一四九七)~永正九年(一五一二)の間、古河公方足利政氏、久慈右京亮(南部光信か)に御内書を遣わす。
永正九年(一五一二)四月、宇須岸(函館)・志濃里・与倉前の館、蝦夷の攻撃により陥落。領主ら自殺するという。
永正十年(一五一三)六月、松前大館、蝦夷の攻撃により陥落し、松前守護相原季胤自害するという。
永正十一年(一五一四)三月、蠣崎光広父子、上ノ国より松前大館に移り、のち檜山屋形下国安東尋季より狄島守護に任ぜられるという。
永正十一年(一五一四)四月、若狭国羽賀寺、後柏原天皇綸旨と青蓮院門跡尊猷法親王勧進状により本堂修復。その中に「奥州十三湊日之本将軍」による再建の事蹟が記される。
永正十四年(一五一七)八月一日、三上盛介、岩木山御宝殿に釣燈籠を寄進する。
永正十五年(一五一八)九月十一日、深浦円覚寺の堂宇建立、供養行われる。
永正十六年(一五一九)四月七日、本満寺僧某、蝦夷島へ渡り、土産として昆布・夷筵を前関白近衛尚通に進上する。
大永二年(一五二二)五月三日、波岡御所北畠顕具、死去するという。
大永三年(一五二三)五月、南部(大浦)光信、種里八幡宮を建立するという。
大永四年(一五二四)ころ? 細川高国、秋田湊安東左衛門佐入道(宣季)の鷹進上を謝する。
大永四年(一五二四)ころ? 檜山下国安東尋季、幕府三職家の斯波政綿に書を通ずる。政綿、馬・鷹の献上を要請する。
大永六年(一五二六)十月、南部(大浦)光信、死去すると伝える。
天文二年(一五三三)、この年、南部安信、藤崎城主安東教季・大光寺城主葛西頼清を討ち、弟高信を石川城に置くという。文亀二年説もあり。
天文二年(一五三三)、この年、京都本国寺僧日尋、鼻和郡賀田村(現岩木町賀田)に法華宗寺院法立寺を開山するという。
天文二年(一五三三)七月、幕府政所伊勢氏の一族伊勢貞満、細川晴元の要請により書札礼を著し、その中で、南部家、秋田湊安東家を「謹上書衆」と記す。
天文五年(一五三六)六月、蠣崎良広、西蝦夷の首長タリコナを謀殺。以後、蝦夷の蜂起鎮まるという。
天文八年(一五三九)閏六月~七月、南部彦三郎(晴政)上洛し、将軍義晴より偏諱(晴の一字)を受ける。
天文十年(一五四一)五月九日、南部(大浦)政信、死去すると伝える。
天文十三年(一五四四)、弘前親方町竹内氏、この年より先祖嘉右衛門が十三湊にて大浦氏の廻船御用を務めると伝う。
天文十五年(一五四六)七月二十三日、秋田の湊安東堯季、石山本願寺末寺「夷嶋浄願寺」からの錦(蝦夷錦か)を、本願寺へ届ける。
天文十五年(一五四六)、深浦森山館主飛驒守季定、下国安東尋季・舜季父子に滅ぼされるという。このとき蠣崎季広出兵するという。
天文十五年(一五四六)、浪岡御所北畠氏、「津軽郡中名字」を編纂するという。
天文十六年(一五四七)十二月九日、石山本願寺証如上人の斎相伴衆に「ツカル真教寺」の名が見える。
天文十七年(一五四八)、イエズス会宣教師ランチロット、ゴアで日本人ヤジローより蝦夷についての情報を聞く。
天文十七年(一五四八)、この年、蠣崎季広、若狭武田氏と音信を通ずるという。
天文十九年(一五五〇)六月、檜山屋形下国安東舜季、蝦夷島を巡見するという(東公之嶋渡)。また蠣崎季広、湊家をはじめ津軽・秋田の諸氏と姻戚を結ぶという。
天文十九年(一五五〇)八月、若狭守護武田信豊、関戸豊前守(下国安東舜季家臣か)に「奥州戸館馬」贈与の礼として、祈禱所小浜本鏡寺の寺役を免除する。
天文二十年(一五五一)、蠣崎季広、蝦夷と講和し、夷狄商舶往還の法度を定めるという。
天文二十一年(一五五二)二月二十七日、波岡御所北畠具永、山科言継の口入により、四位に任官、孫具運も叙爵される。
天文五~二十一年(一五三六~五二)、「歴名土代」に波岡御所北畠具永・具統・具運の叙爵任官の記事あり。伊勢国司北畠具教一族も、同じ時期同様の叙爵任官にあずかる。
天文二十一年(一五五二)十月三日、波岡御所北畠具統、死去するという。
天文二十三年(一五五四)七月二十日、波岡御所北畠具永、山科言継に叙爵任官の礼物を贈る。
弘治元年(一五五五)五月二十四日、波岡御所北畠具永、死去するという。
永禄元年(一五五八)、北夷地(樺太)産の上質の鷲羽、松前にもたらされ、蠣崎季広、これを熊野大社に奉納するという。
永禄元年(一五五八)十二月、「南部桜庭之合戦」落着するという。
永禄二年(一五五九)二月二十三日、山科言継、波岡御所北畠具運への書状をしたたむ(任官関係か)。
永禄二年(一五五九)、この年、津軽天候不順で、飢饉になるという。
永禄二年(一五五九)八月、波岡御所北畠具永、油川熊野十二所権現宮を再興するという(京徳寺過去帳によれば具永の死は弘治元年、具運の代か)。
永禄三年(一五六〇)九月二十五日、岩木山神社御宝殿造営、棟札に大旦那南部信濃守為則、祢宜阿部与四郎仲信の名がある。
永禄三年(一五六〇)、蠣崎慶広、波岡御所北畠顕慶(具運)に仕え、船着き場として潮潟野田玉川村を与えられるという。
永禄四年(一五六一)七月、外浜今別城主平杢之介室、今別八幡宮を再建するという。永禄三年波岡御所北畠具運室再建の所伝もある。
永禄五年(一五六二)四月、川原御所北畠具信、波岡御所具運を殺害するという(川原御所の乱)。
永禄五年(一五六二)八月、檜山の下国安東愛季、浅利則祐を比内扇田長岡城に攻め自害させるという。
永禄五年(一五六二)十一月、越後上杉氏、檜山屋形下国安東愛季の好誼を謝するとともに、再び鷹を所望する。
永禄五~十二年(一五六二~六九)の間、越後上杉氏、秋田方面へ船を派遣し、秋田沿海の通過と諸浦出入の保証を下国安東愛季に求める。
永禄七年(一五六四)ころ? 在京中の南部信長、「南部七戸殿」の鷲尾進上と子女扶養を謝し、来年の下国予定を書き送る。
永禄八年(一五六五)、イエズス会宣教師ルイス・フロイス、蝦夷についての情報を報告する。
永禄八年(一五六五)、この年冷害により津軽大凶作。翌年にかけ餓死者続出すると伝えられる。
明・嘉靖四十五年(一五六五 永禄八)、明で『日本一鑑』を作成。所載の「日本行基図」に、秋田城・津軽・竹浜(外浜か)・守曽利(宇曽利か)・夷地などの地名が記される。
永禄十年(一五六七)二月、南部氏、藤崎城を修築するという。
永禄十年(一五六七)ころ? 檜山屋形下国安東愛季、庄内の砂越也足軒宗順(愛季舅)の仲介で越前朝倉家と通交、朝倉家、脇指・鉄砲・装束等を贈る。
永禄十年(一五六七)、この年、大浦為則、女婿為信に家督を譲り、まもなく死去するという(為則の死は、永禄四年とも、十一年、十二年ともいう)。為信は弟武田守信の子とも、南部久慈治義の子ともいう。
永禄十年(一五六七)、大浦為信、「庄内」最上義光と好誼を結ぶという(庄内大宝寺氏との通交を誤り伝えるものか)。
永禄十二年(一五六九)三月十五日、「津軽之南部弥左衛門」(波岡御所使節、下国安東愛季郎従南部季賢か)、上洛して山科言継を訪問する。
永禄九~十二年(一五六六~六九)ころ? 信家、波岡御所(北畠顕村)の助勢による戦勝を謝し、あわせて保呂綿(閉伊郡)・鹿角の状況を伝える。
永禄十三年(一五七〇)四月、源経家、種里八幡宮堂宇を建立するという。
永禄年間末ごろ、このころ、瀧本播磨守重行、大光寺城城代となるという。
元亀二年(一五七一)、イエズス会宣教師ガスパル・ビレラ、蝦夷についての情報を報告する。
元亀年間(一五七〇~七二)ころ、南部氏、晴政・信直の継嗣問題をめぐって内訌。晴政、信直派の浅水城主南慶儀、見吉(剣吉)城主北信愛を攻め、八戸政栄にも出馬を求む。
元亀二年(一五七一)五月、大浦為信、石川城に南部高信を攻め、これを滅ぼすという。南部勢、津軽に出陣するも退くという。(南部氏側にこの記録なし。また「津軽一統志」は南部勢の出陣を翌元亀三年とする)。
元亀三年?(一五七二)三月二十四日、浅水城主南慶儀、大浦為信の叛旗とその後の津軽情勢を八戸政栄に告げ、対応を策す。
元亀末~天正初年ころ、名久井城主東政勝、南部晴政・信直和議の件について八戸氏に返書を送り、あわせて八戸勢の藤嶋(十和田市)警固を謝する。
元亀三年(一五七二)、南部側史料、この年、南部高信が津軽三郡を平定すると伝う(天文二年の事件を誤り伝えるものか)。
天正二年(一五七四)三月、大光寺城代瀧本重行、乳井福王寺玄蕃を謀殺するという。
天正二年(一五七四)三月、津軽斎藤氏、系譜を作成する。
天正三年(一五七五)二月二十日、織田信長、下国安東愛季郎従南部宮内少輔季賢(波岡御所北畠顕村の使節か)の帰国に際して、書を愛季へ送り、鷹の所望と鷹師下向を伝える。
天正三年(一五七五)八月、大浦為信、大光寺城を攻めるという。
天正三年(一五七五)十一月、織田信長、嫡子信忠を秋田城介に任官させ、さらに家督を譲る。
天正四年(一五七六)正月、大浦為信、大光寺城を攻略し、城代瀧本重行は南部へ退去するという。
天正四年(一五七六)ころ? 庄内の大宝寺義氏、大浦為信の浅瀬石ほか十余ヶ城攻略と大光寺城攻めを賀し、その後の情勢を尋ねる。
天正四年(一五七六)ころ? 下国安東愛季側近奥村惣右衛門あて湊安東茂季(湊家当主・愛季弟)書状。大浦為信と愛季・茂季の通交が記される。
天正五年(一五七七)六月一日、織田信長、下国安東愛季の鷹進上を謝し、使者と太刀を送る。
天正五年(一五七七)七月二十二日、下国安東愛季、従五位下に叙爵さる。
天正五年(一五七七)七月二十二日、三条西実枝、織田信長に書状を送り、下国安東愛季叙爵の事情を述べる。
天正五年(一五七七)閏七月二十日、下国安東愛季、織田信長からの書と祝儀を謝し、あわせて浪虎(ラッコ)皮十枚を進上する。
天正六年(一五七八)七月、大浦為信、波岡城を攻略し、波岡御所北畠顕村(具愛)を自害させるという。
北畠弾正・右近慶好父子、浪岡落城後、檜山の下国安東愛季のもとに来りて茶臼館に住す。のち右近は岩倉右近季慶と改名、さらに「秋田」賜姓を許されるという。
天正六年(一五七八)八月、「奥州津軽之南部宮内少輔」(安東愛季郎従南部季賢)、安土へ上り、織田信長に鷹を進上する。蠣崎季広の四男正広もこれに同道して上洛、信長に謁する。
天正六年(一五七八)十月四日、松前の蠣崎季広、下国安東愛季の側近にあてて書状を送り、檜山勢の津軽出陣を賀するとともに、四男正広の上洛について弁明する。
天正七年(一五七九)正月十七日、蠣崎季広、「波岡御弓矢」(波岡御所滅亡による檜山・大浦合戦)のため、津軽波岡口に出陣することを檜山に言上する。
天正七年(一五七九)正月十七日、蠣崎慶広、主君下国安東愛季に昆布・玉鯨を献上するとともに、父季広の波岡口出陣を告げる。
天正七年(一五七九)七月、檜山勢(下国安東愛季勢。大光寺勢とするのは誤り)、津軽に侵攻し、乳井・六羽川にて大浦為信勢と戦うという。
天正七年(一五七九)七月、奥羽の諸大名、織田信長に鷹・駿馬を進上。信長これを饗応し安土城天主を見せる。安土滞在中の「津軽の南部宮内少輔」(南部季賢)もこの接待にあずかる。
天正八年(一五八〇)八月十日、柴田勝家、鷹入手のための使者を津軽・糠部に派遣し、路次の保証を下国安東愛季に求める。
天正八年(一五八〇)八月十三日、下国安東愛季、従五位上侍従に叙爵任官する。
天正九年(一五八一)二月二十八日、織田信長、京都に御馬揃を行い、「奥州津軽日本」までの天下の名馬を集めたと称する。
天正九年(一五八一)七月二十一日、下国安東愛季、黄鷹・白鳥を織田信長に進上する。
天正九年(一五八一)、下国安東愛季、鹿角において南部勢と合戦。蠣崎季広九男中広、従軍して戦死するという。
天正四~十年(一五七六~八二)の間? 下国安東愛季、「深浦口逆意之方」を成敗したことを仙北六郷氏に告げる。
天正十年(一五八二)四月三日、由利侵攻中の大宝寺義氏、大曲城主前田薩摩守に、津軽勢八森進出のうわさの確認を要請する。
天正十年(一五八二)六月二十九日、蠣崎季広、下国安東愛季よりの軍役令に応じ、子息慶広を庄内大宝寺勢との合戦に参上させる。
天正十年(一五八二)七月五日、大宝寺義氏、由利郡の領主戸蒔中務少輔にあてて、津軽勢(大浦為信)と呼応して、秋田領(安東愛季領)に進攻すべきことを書き送る。
天正十年(一五八二)、三戸城主南部信直、弟政信を波岡城に入部させ、津軽郡代にするという。大光寺城もこのころまでに南部氏側に奪回された模様。
天正十一年(一五八三)四月十二日、羽柴秀吉、賤ヶ岳合戦の勝利を小早川隆景に告げるとともに、「津軽合浦外浜」まで敵なし豪語する。
天正十一年(一五八三)五月十九日、下国安東愛季、蠣崎慶広の功(比内扇田城主浅利勝頼〔義正〕謀殺)を賞し、「馬繋所」一所を与える。
天正十~十二年(一五八二~八四)ころ? 浅水城主南慶儀、八戸政栄と書を交し、津軽の大浦為信対策と南部家中統一の手だてについて策す。
天正十~十二年(一五八二~八四)ころ? 南部信直、櫛引八幡宮に参詣。その際、信直・八戸政栄・東政勝・南慶儀の四者会談が行われ、それぞれ信直への奉公を誓う。
天正十二~十五年(一五八四~八七)、浅利頼平、大浦為信の援助を受け、しばしば比内に侵攻するも成功せずという。
天正十三年(一五八五)三月、大浦為信、外が浜油川城を攻略し、外が浜一帯の領有化に着手するという。
天正十三年(一五八五)四月、南部信直の将名久井日向守(名久井城主東政勝)、八甲田口より浅瀬石を攻めるも敗北するという。
天正十三年(一五八五)四月二十五日、下国安東愛季、鹿角大湯氏あての返書で南部信直との和議交渉と、津軽出兵への援助を知らせる。
天正十三年(一五八五)五月、大浦為信、田舎館城を攻略するという。
天正十三年(一五八五)六月、藤崎において、大浦為則の実子、五郎君・六郎君不慮の死をとげるという。
天正十四年(一五八六)正月、大浦為信、猿賀神宮寺を祈願所となすという。
天正十四年(一五八六)十月三日、小野寺輝道、南部信直の滴石(雫石)攻略を賀する。
天正十四年(一五八六)十二月、関白豊臣秀吉、「関東・奥両国惣無事之儀」を命じ、違反者は成敗すべきことを令する。
天正十五年(一五八七)正月、大浦為信、堀越城を修築するという。
天正十五年(一五八七)六月二十九日、前田利家、血判誓紙をしたため、南部信直を関白秀吉に取成すことを約束する。
天正十五年(一五八七)八月二十二日、前田利家、関白秀吉への取成しに成功し、南部氏が豊臣大名として認定されたことを信直に告げる。
天正十五年(一五八八)、この年、大浦為信、猿賀神宮寺十二坊を改易し、天台宗より真言宗に改めるという。
天正十六年(一五八八)三月、波岡城主南部政信死去するという。南部氏側では大浦為信の謀略による毒殺と伝える。
天正十六~十八年(一五八八~九〇)ころ? 南部信直、津軽より南部領への引揚げ者に対する対策を指示する。
天正十六年(一五八八)八月五日、南部信直、斯波御所を高水寺城に攻めて滅ぼし、葛西晴信、これを賀する。
天正十六年(一五八八)八月五日、仙北の本堂道親、南部信直の斯波御所攻略を賀するとともに、最上義光の仙北介入に対し、信直の援助を求める。
天正十七年(一五八九)二月、秋田豊島城主湊通季(湊安東茂季の子)、湊城主安東実季を急襲、北奥羽をまきこむ動乱に発展する(湊合戦)。
天正十七年(一五八九)四月、南部勢、湊合戦に乗じて比内を占領、阿仁米内沢に進出するが、米内沢の合戦に敗北する。
天正十七年(一五八九)八月二日、豊臣秀吉、南部信直に上洛の路次安全をはかることを告げる。
天正十七年(一五八九)八月二十日、前田利家、南部信直に書を送り、今秋か来春、秀吉が「出羽・奥州両国之御仕置」のため出馬すること、秋田を直轄領として没収し津軽も討伐することを告げる。
天正十七年(一五八九)九月三日、蠣崎慶広、南部信直に鷹を贈り好みを通ずる。
天正十七年(一五八九)、大浦為信、秋田の安東実季と和睦、秋田勢の比内出兵に援軍を送るという(ただし、秋田勢の比内攻撃は天正十八年、相手は浅利氏でなく南部氏で、従来誤り伝えられていたもの)
大浦為信、浅利頼平を十数年庇護せしこと、天正十八年、秋田家の比内回復後、比内の故地に復帰させしこと、秋田実季の申状に見える。
天正十七年(一五八九)十二月二十四日、豊臣秀吉、大浦為信の鷹献上を賞する。
天正十八年(一五九〇)正月十六日、豊臣秀吉、大浦為信の鷹献上を賞するとともにその領土支配を承認する。
天正十八年(一五九〇)正月二十八日、織田信雄、大浦為信の鷹献上を賞し、あわせて、派遣する鷹取りの世話を依頼する。
天正十八年(一五九〇)正月、大浦為信、家中および町・在ともに系図改めの触れを出すという。またこの年、碇ヶ関道(矢立峠道)の整備を行うという。
天正十八年(一五九〇)三月、大浦為信、秋田の湊安東実季と同盟の上、波岡城を占領、津軽一円を領有するという。
天正十八年(一五九〇)四月十一日、豊臣秀次、大浦為信の鷹献上を賞する。
天正十八年(一五九〇)五月一日、小田原在陣中の豊臣秀吉、大政所に手紙を送り、関東奥羽仕置のことを述べる。