弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

資料編1(古代・中世編)

新編弘前市史 資料編1(古代・中世編)

第1章 蝦夷・津軽関係編年史料

嘉元二年(一三〇四)五月二十四日、曾我泰光、地頭代職等を子光頼に譲る。
嘉元三年(一三〇五)正月三十日、尼たうしやう(片穂惟秀夫人)、平賀郡なかのまちい郷沼楯村地頭代職を子ありわう御前に譲る。同年八月二日・延慶二年(一三〇九)九月二十七日重ねての譲状。
嘉元四年(一三〇六)八月十五日、長勝寺梵鐘に津軽武士。
延慶四年(一三一一)十月十六日、尼めうい、みつき郷を子に譲る。
正和元年(一三一二)十一月十一日、藤原頼道等の所領中に姻戚として安藤氏の名あり。
正和二年(一三一三)九月十一日、尼たうしやう、平賀郡沼楯村を、重ねてありわうに譲る。
正和五年(一三一六)三月、関東御免津軽船、難破について訴訟。
文保元年(一三一七)十二月、平賀郡平賀郷年貢結解を注進。
文保二年(一三一八)五月二十一日、北条高時、蝦夷静謐の祈禱の効を喜ぶ。
元応元年(一三一九)十二月二十八日、尼たうしやう、平賀郡沼楯村を孫資光に譲る。
元応二年(一三二〇)、出羽蝦夷蜂起、元亨二年まで続き、安藤の乱と関わる。
元亨元年(一三二一)十月十三日、平賀郡岩楯・大平賀両郷の年貢。
元亨二年(一三二二)五月十五日、曾我資光、平賀郡沼楯村を父頼光に譲る。
このころ、沙汰未練書成り、東夷成敗権を規定。
元亨二年(一三二二)、安藤氏の乱(津軽大乱)勃発。正中元年(一三二四)五月、翌年正月、鶴岡八幡宮にて、蝦夷調伏の祈禱。正中二年(一三二五)安藤季久(宗季)勝利。
正中二年(一三二五)九月十一日、安藤宗季、鼻和郡内諸職・蝦夷の沙汰・糠部郡内諸職を子に譲る。
正中三年(一三二六)三月、安藤季長、捕らえられる。
正中三年(一三二六)五月二十七日、曾我光称、西浜合戦に先立って、津軽沼楯村を子息に譲る。
嘉暦二年(一三二七)六月十四日、小田氏、安藤の乱での軍忠を認められる。また宇都宮高貞ら津軽に下向する。翌年和談。
嘉暦二年(一三二七)九月三日、曾我光頼、平賀郡大平賀郷等を曾我光高に譲る。
元徳二年(一三三〇)六月十四日、安藤宗季、津軽西浜を子高季に譲る。
元弘三年(一三三三北正慶二)九月二十四日、津軽四郡田数等を注進。
元弘四年(一三三四)正月十日、曾我光高代道為、去る元弘三~四年の大光寺合戦での軍忠を注進する。
元弘四年(一三三四)二月、曾我光高、平賀郡内諸郷の安堵を申請。
建武元年(一三三四)三月十二日、安藤高季を平賀郡上柏木郷に補任。
建武元年(一三三四)三月、曾我光高、平賀郡大平賀郷の保全を申請。
建武元年(一三三四)四月十三日、多田貞綱、津軽下向を命じられる。下向に際し、多田院に免田を寄進する。
正慶三年(一三三四南建武元)五月十五日、曾我光頼、平賀郡大平賀・岩楯郷等を子光高に譲る。
建武元年(一三三四)五月、曾我光高、石川城で合戦。
建武元年(一三三四)六月、曾我光高、平賀郡沼楯村の安堵を申請。
建武元年(一三三四)?六月十二日、北畠顕家、津軽・安藤氏らの動向について指示。持寄城の動向や外浜をめぐる安藤氏の去就等を懸念する。
建武元年(一三三四)八月、北畠顕家、津軽に向かう。
このころ、安藤祐季、津軽静謐を述べる。
建武元年(一三三四)八月十三日、曾我光高、平賀郡岩楯・大平賀両郷の知行分を注進する。
建武元年(一三三四)八月二十一日、工藤貞行、山辺郡二想志郷・田舎郡上冬居郷の内を加伊寿御前に譲る。
建武元年(一三三四)八月、中尊寺衆徒、津軽合戦祈禱の忠勤を言上する。
建武元年(一三三四)九月二日、大河戸三郎左衛門に津軽凶徒の討伐を命じる。
建武元年(一三三四)九月二十七日、津軽下向で引き渡しの遅れた岩手郡二王郷の地を後藤基泰に安堵する。
建武元年(一三三四)十一月、名越時如・安達高景等降伏。津軽ほぼ収まる。
建武元年(一三三四)十二月十四日、鎌倉方につき降伏した武将の交名。
建武元年(一三三四)十二月、伊賀光俊、持寄城での軍忠を報告。
このころ、足利尊氏、闕所地(旧惣地頭北条泰家)の奥州外浜を所領とする。
このころ、結城宗広、津軽田舎郡内河辺桜葉郷(旧得宗領)を知行。
建武二年(一三三五)正月二十六日、工藤貞行に鼻和郡目谷郷・外浜野尻郷を安堵。
このころ、曾我光高、平賀郡内の田・在家・牧士田などについて言上する。
建武二年(一三三五)正月二十七日、曾我光貞(高光改め)、平賀郡岩楯郷熊野堂の安堵を申請。
建武二年(一三三五)二月十二日、権大僧都頼基、平賀郡乳井郷福王寺別当職。
建武二年(一三三五)三月一日、伊賀盛光、津軽の戦功により篝役を免除され、ついで陸奥国岩城郡矢河村の地を受ける。
建武二年(一三三五)三月十日、南部師行等に外浜内摩部郷内を安堵。
建武二年(一三三五)三月二十三日、北畠顕家、南部師行に津軽を巡検させる。
建武二年(一三三五)三月二十五日、平賀郡法師脇郷内を曾我貞光に安堵。
建武二年(一三三五)三月、曾我貞光、平賀郡大平賀本郷への検非違所入部停止を申請。
建武二年(一三三五)五月九日、曾我貞光軍忠を認められる。
建武二年(一三三五)六月、大河戸隆行、津軽での戦闘の功として標葉孫九郎跡半分を賜る。
建武二年(一三三五)八月七日、曾我貞光、平賀郡岩楯村知行分の神社仏寺を注進する。
建武二年(一三三五)九月一日、南部政長、山辺合戦における軍忠を認められる。
建武二年(一三三五)閏十月二十九日、安藤高季に、鼻和郡・糠部郡・西浜等の所領を安堵。
建武二年(一三三五)?十二月二十五日、小林時重、曾我氏等の手負を合戦奉行安藤高季に注進する。
延元元年(一三三六南建武三)正月、曾我氏等と南部氏の戦闘。
延元元年(一三三六南建武三)四月二日、結城宗広、津軽田舎郡内河辺桜葉郷他の所領を孫顕朝に譲る。
建武四年(一三三七南延元二)七月、曾我貞光、昨年来の軍忠を注進する。また八月、重ねて注進する。
建武五年(一三三八南延元三)五月十一日、合戦奉行浅利清連、曾我貞光の軍忠を注進する。
暦応二年(一三三九南延元四)五月二十日、曾我貞光、大光寺合戦での軍忠を注進し、七月、それを認められる。
暦応二年(一三三九南延元四)十一月一日、曾我貞光、尻引楯・尾崎合戦での軍忠を注進する。
暦応三年(一三四〇南延元五)正月十一日、曾我貞光、右衛門尉。
興国元年(一三四〇北暦応三)十二月二十日、北畠顕信、安藤一族の与力を喜ぶ。
暦応四年(一三四一南興国二)七月七日、曾我貞光、平賀郡加土計郷を預る。
康永元年(一三四二南興国三)八月、安藤四郎、山辺郡亀山郷に乱入する。
興国四年(一三四三北康永二)六月二十日、尼しれん、田舎郡黒石郷内の所領を、子加伊寿御前に譲る。
興国五年(一三四四北康永三)二月十三日、尼しれん、田舎郡黒石郷内所領を、孫南部信光に譲る。
康永三年(一三四四南興国五)六月、藤原氏家、西浜追良瀬見入山観音堂を建立する。
康永四年(一三四五南興国六)三月十日、曾我貞光、平賀郡法師脇郷を犬太郎に譲る。
興国六年(一三四五北康永四)三月二十七日、平賀景貞に鼻和郡内摩禰牛郷を、工藤四郎五郎に同郡大浦郷内を、海老名小太郎に田舎郡安庶子郷を安堵。
康永四年(一三四五南興国六)六月二十二日、曾我貞光、置文を記し、嫡子を定める。
康永四年(一三四五南興国六)七月、波多野義資、重ねて安藤四郎の山辺郡亀山郷への乱入を訴える。
康永四年(一三四五南興国六)九月、僧季源、田在家を平賀郡乳井郷福王寺に寄進する。
康永四年(一三四五南興国六)十月十一日、曾我貞光、下向。
興国六年(一三四五北康永四)十二月、安藤一族、国府方へつくという。
貞和三年(一三四七南正平二)五月、曾我貞光、建武三年以来の軍忠を示し、恩賞を請う。
貞和三年(一三四七南正平二)十月二十二日、平賀郡内大平賀郷・柏木郷等の曾我貞光知行分の年貢を納める。
貞和五年(一三四九南正平四)十二月二十九日、安藤氏、熊野先達の檀那であることを伝える。
観応元年(一三五〇・南正平五)五月、奥州管領府、糠部・滴石(雫石)の南軍に対する攻撃を企て、軍勢を集める。
観応元年(一三五〇・南正平五)十一月、足利直義、大和に走り南朝に帰降。鎮守府将軍に任じられ「日本(ひのもと)将軍」と号したと伝えられる。
観応二年(一三五一・南正平六)正月六日、幕府分裂(観応の擾乱)、南部次郎三郎、尊氏方に参じ感状を受ける。
観応二年(一三五一・南正平六)七月二十二日、曾我貞光、足利尊氏より軍忠を認められる。
正平七年(一三五二・北観応三)三月、北畠顕信・南部信濃守ら、多賀国府を占領するが、足利勢に奪回される。
文和二年(一三五三・南正平八)正月、南部伊予守・浅利尾張守ら、宮城郡山村の戦いに敗れ、足利方に降伏する。
文和四年(一三五五・南正平十)正月十九日、安倍妙阿、津軽鼻和郡はゝきの村の田在家を岩楯殿に譲る。
正平十年(一三五五・北文和四)三月十五日、北畠顕信、南部信光を大炊助に推挙、翌年、薩摩守に推挙する。
延文二年(一三五七・南正平十二)六月八日、幕府、安東太(安藤師季=高季)と曾我周防守を両使に任じ、出羽国小鹿島の所領紛争処理に当たらせる。
延文四年(一三五九・南正平十四)三月十八日、光海、岩楯殿の文書一六通を高道祖殿に預け置く。
延文四年(一三五九・南正平十四)、この年、安藤師季(高季)、猿賀神社を再建すると伝えられる。
正平十五年(一三六〇・北延文五)六月五日、北畠顕信、南部信光に津軽田舎郡黒石郷と鼻和郡目谷郷を、南部雅楽助に田舎郡冬井・日野間郷と外浜野尻郷を安堵。
正平十六年(一三六一・北延文六)正月十八日、北畠顕信、北党の曾我周防次郎の帰降を誘う。
康安元年(一三六一・南正平十六)九月、奥州管領府、糠部の南部氏攻撃の軍を起こし、岩城の岡本氏も高清水の陣に馳せ参ずる。
正平十六年(一三六一・北康安元)十一月九日、後村上天皇、南部信光らの軍忠を賞する。
正平十七年(一三六二・北貞治元)正月十八日、北畠顕信、京都の情勢を南部信光に伝える。
貞治三年(一三六四・北正平十九)八月二日、鎌倉公方足利基氏、世良田義政・梶原景安誅伐による動揺に対処するため、南部右馬助らの軍勢を召集する。
貞治年中(一三六二~一三六七)、藤崎安藤氏の一族阿部(安倍)吉季、岩木山神社祠官に任ぜられるという。
応安二年(一三六九・南正平二十四)六月十九日、結城顕朝、津軽田舎郡内河辺桜葉郷他の所領を、子満朝に譲る。
文中三年(一三七四・北応安七)、このころ、浪岡御所北畠氏(顕家子孫という)、稗貫・閉伊船越を経て津軽に来るという。元中三年説もあり。
応安七年(一三七四・明洪武七)、明洪武帝の使者趙秩、日本が蝦夷を支配する「海外の大国」との認識を示す。
天授二年(一三七六・北永和二)正月八日、南朝、北畠守親(顕信子)の子陸奥守親能を参議に任ずる。親能は波岡北畠氏系という。
弘和二年(一三八二・北永徳二)二月二十一日、そへ、黒石郷新里の年貢一〇貫文を死後「唐糸前の御寺」(藤崎護国寺)に寄進すべきことを定める。
元中三年(一三八六・北至徳三)十一月、北畠顕信の子親統、波岡に入り奥州新国司と称すという。波岡御所北畠氏については、顕家子孫、文中三年入部説もあり。
嘉慶二年(一三八八南元中五)九月九日、三枝盛綱、津軽中鼻白山宝殿に鰐口を寄進する。
明徳三年(一三九二)正月、奥羽両国が鎌倉府の管轄とされ、奥羽の諸氏に鎌倉奉公が命ぜられる。
南北朝末期ころ、『庭訓往来』に奥州金・奥漆・宇賀昆布・夷鮭など奥州・夷島の産物の名が見える。
室町時代中期ころ、廻船式目に三津七湊の一つとして津軽十三湊の名が見える。
応永元年(一三九四)ころ、関東諸国・北海夷狄動乱。安藤康季・鹿季功あって、康季は日下(日本(ひのもと))将軍の号を賜わり、ともに「夷狄征伐の事」を司るという。
応永元年(一三九四)、安藤庶季(鹿季の誤りか)、将軍義満の命を受けて秋田城介顕任を滅ぼし、これに替わるという。
応永四年(一三九七)十月二十一日、結城満朝、津軽田舎郡内河辺桜葉郷他の所領を、子氏朝に譲る。
応永七年(一四〇〇)、幕府、斯波(大崎)満持を奥州探題に補任する。