弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

資料編1(考古編)

新編弘前市史 資料編1(考古編)

第2章 旧石器・縄文・弥生

第5節 葬法

1.土壙墓

 昭和49年(1974)夏、八戸市の是川中居遺跡が発掘調査され、8体の人骨が発見された。これらの中で4体は土壙から、3体は集石遺構から、その他1体という状況であった。発見された人骨は姿勢の明らかなものはすべて屈葬であり、発見順に付した番号の4・7・8号が仰臥(ぎょうが)屈葬、5号は不明という状態であった。性別は4・7号が成人男性、8号は成人女性であり、前者には赤色顔料が付着していたという。これらは晩期に属する。そのほかの人骨は、一時期前の後期のもののようである*212
 人骨は、このほか昭和58年(1983)に十和田市滝沢の明戸遺跡で発見され、埋葬姿勢は屈葬を示し、頭部付近に赤色顔料(ベンガラ)が散布されていたという。出土した土器と副葬品から、中期(円筒上層a式土器期)及び晩期(大洞C1式ないしC2式土器期)のものといわれる*213。さらに、土壙からの人骨は、八戸市櫛引の八幡遺跡において、5基の土壙から屈葬の男性2、女性1、性別不明1の計4体が発見され、中でも13号土壙では、頭を西へ向けた仰臥屈葬の成人男女各1体が合葬の状態で出土した。これらは晩期に属する*214。また、平成4年(1992)には、三戸郡三戸町の泉山遺跡から90基に及ぶ土壙が発見され、その中の88基は中期に属し、中には右側臥(そくが)屈葬の人骨も出土している*215
 このように地表を浅く掘って造営された土壙墓と異なり、1.50mないしそれ以上に達するほど深掘りし、しかもその土壙の断面が化学の実験に使うフラスコの形状に類似した遺構がしばしば発見され、中には、当時の食料の一部が検出された例もあるが、墳墓にも使われている場合も多い。他県の例では、昭和48年(1973)8月、秋田県の八郎潟北側に位置する八竜町萱刈沢貝塚で、前期末~中期中葉期のFP8当該土壙内から、成人の女性骨と性別不明の青年期骨が発見され*216、昭和54年(1979)には岩手県二戸市の上里遺跡において、Ⅰ-19住居内の土壙(前期末の円筒下層d1式土器期)から7体の人骨が発見されている。しかもそれらは、頭を壁寄りに、足を中心部に向けたいわば放射状をなす形で埋葬されていた。これらは、8歳から18~19歳くらいの性別不明な小児と青年4人、20~35歳くらいの成年女性2人、25~35歳くらいの青年男性1人であり、死因は不明だが同時埋葬されたのであろう*217
 本県の事例では、昭和57年(1982)の初夏に、上北郡上北町にある古屋敷貝塚の調査で、当該土壙から左側臥の屈葬姿勢をとった20歳未満の女性骨が発見された。その人骨の上には、前期末の円筒下層d式土器が置かれ、その上に獣骨・魚骨・炭化物が層を成して堆積し、さらにその上にはホタテガイが土壙墓に蓋(ふた)をするような状態で見られたという*218。また、平成5年(1993)夏には、岩手県境に接した三戸郡南郷村の畑内遺跡で、このようなフラスコ状ピット内から4体を超える人骨が、前述の上里遺跡と同様に、頭部を壁寄りの形で埋葬された例が発見されている。時期は、同時に出土した土器によると、前期末の円筒下層d1式土器期といわれる。なお、畑内遺跡では、1体の人骨を出土する当該土壙が数例見られる*219