弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

通史編5(近・現代2)

新編弘前市史 通史編5(近・現代2)

第八章 近現代弘前市の文化活動

第二節 美術界の様相

二 大正期の美術

大正期は、青森県出身、関係者の芸術家たちによる独自の美術団体が発足し、活発な展開をする時期であり、その動きは東京に在住していた芸術家たちの活動と県内にいる芸術家達の活動の二つに大別できる。
 東京の美術活動の中心にいたのが前田照雲である。照雲は明治二十年代に上京し、高村光雲(たかむらこううん)(嘉永五-昭和九 一八五二-一九三四 東京都)に師事した後、馬の彫刻で認められるようになる。青森県の美術界の活性化及び後進の育成を強く望んでいた照雲は、大正五年(一九一六)には在京していた若手彫刻家の三国慶一(みくにけいいち)、鹿内芳洲(しかないほうしゅう)(清美)(明治三一-昭和二五 一八九八-一九五〇)、石戸谷津南(弘前市、生没年不明)、宮野花香(不明)の計五人で「五星会」を設立、大正六年(一九三一)一月二十日から二十七日まで、三越新館で展覧会を開催した。この展覧会は東京における県人による初めての展覧会であった。
 引き続き、照雲は同年三月、在京の美術家たちの美術団体による「六花会」を立ち上げた。六花会は、今純三(こんじゅんぞう)、秋田雨雀(あきたうじゃく)(文学者)、前田照雲工藤翠雲中野洋雲江部鴨村文学者)、木谷末太郎小林喜代吉西館栄子石戸谷津南、鹿内芳洲、三国花影らを中心に、美術文学音楽演劇の各分野にわたる青森県出身・関係者で構成され、会員の親睦と芸術の向上発展、諸種の援助を図ることを目的としたものであった。六花会は原則として月一回の集まり(例会)を第二日曜日に行い、研究や講演会を行うなど活発な活動を続けた。また、大正六年七月八日に上野の精養軒で第一回作品展覧会を、翌年の大正七年四月二十一日に、旧藩主家の津軽英麿(つがるふさまろ)伯爵の邸宅で第二回の作品展覧会を開催した。

写真271 竹森節堂『夢幻』


写真272 前田照雲『春の野』

 しかし、六花会の顧問格の英磨が死去し、照雲が芸術活動から退いたことにより六花会の活動は低迷し、大正九年(一九二〇)一月十一日の例会で解散、新たに旧六花会会員で「北溟会」を組織することになった。しかし、北溟会は懇親会的な集まりにとどまり、大正十一年にその活動を終える。この北溟会の動きと前後するように、六花会の会員の中で若手の作家であった純三、慶一、石戸谷(浜名)剛早坂三吉郎(五朔)(明治二九-昭和二三 一八九六-一九四八)、竹森節堂中野桂樹(なかのけいじゅ)(健作)(明治二六-昭和四〇 一八九三-一九六五 つがる市)、工藤翠浦が同人となり、大正十年に中央の進んだ芸術を郷土に示す目的で「白曜会」を設立する。
 白曜会は、大正十年一月、弘前市長安倶楽部で第一回展覧会を開催した後、翌年の大正十一年からは弘前と青森の二市で毎年展覧会の開催を継続し、大正十三年までに計四回の展覧会を開催した。
 一方、県内の動きをみると、大正二年に東京美術学校を卒業した羽場金司は、藤島武二(ふじしまたけじ)(慶応三-昭和一八 一八六七-一九四三 鹿児島)教室で学んだ本格的な洋画を弘前市に持ち帰った。羽場はその後三年で短い生涯を終えるが、彼の絵画への情熱は羽場と交流のあった関彦四郎らへと受け継がれていく。彦四郎もまた金司と同様、東京美術学校の藤島武二教室で学んでいる。彦四郎は、多田源蔵中村一郎長尾源太郎(明治三五-昭和九 一九〇二-一九三四)、斉藤順威(明治三〇-昭和四一 一八九七-一九六六)、笹森清一郎松井瀞の七人で「弘前洋画同好会」を結成し、大正八年に第一回の展覧会を開催、翌年の大正九年に「七星社」と名前を変え、第二回の展覧会を開催、大正十年にはさらに名前を「北斗社」と変更し、第三回展覧会を開催、以後昭和十年ごろまで毎年一回の展覧会を開催し続けた。

写真273 須藤尚義『鶴と牡丹』

 北斗社の結成に続いて、大正十二年に山鹿十郎(のち古田へ改姓 明治三六-平成六 一九〇三-一九九四)を中心に、永井邦彦山鹿守一棟方辰雄らで「西班牙社」を結成する。十郎は白樺派の運動に共鳴したことから、岸田劉生(きしだりゅうせい)(明治二四-昭和四 一八九一-一九二九 東京都)が中央で立ち上げた草土社の影響を受けており、同人の個性的な作風は県内でも高く評価された。