弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

通史編5(近・現代2)

新編弘前市史 通史編5(近・現代2)

第七章 都市計画と市民生活基盤の整備

第五節 災害との闘い

一 岩木川の氾濫と大水害

昭和三十三年の惨害が残る二年後に、弘前市を再び大水害が襲った。昭和三十五(一九六〇)年八月二日から三日未明にかけて、岩木川上流の県境付近に集中豪雨があり、岩木川下流の弘前市や大鰐町、碇ヶ関村に大水害をもたらしたのである。三日午前四時五分、青森地方気象台は「大雨洪水警報」を出した。だがすでに岩木川平川大和沢川が氾濫し、各地で水害が生じていた。午前四時、市当局は市役所内に水害対策本部を設置して応急救助など諸対策に当たった。午前七時三〇分、対策本部は災害救助法を適用し、懸命の救済活動を行った。だが無惨にも各河川は氾濫し続け、弘前市だけでも総額約三億八〇〇〇万円の被害を出してしまったのである。
 このときの水害は市立石川病院、市立和徳し尿処理場をも浸水させ、衛生面でも甚大な被害をもたらした。市当局は災害救助法に引き続き、伝染病予防法を適用した。弘前保健所の指導のもとに弘前医師会の協力も得て、被災地に消毒薬剤を撒布し、予防接種を実施して悪疫防止の対策に当たった。すでに市当局だけでなく、市民の間でも衛生設備や上下水道の施設を要望する声が高まっていた。度重なる大水害が、市民に衛生思想の必要性を再認識させたのである。
 このときの水害をもたらした集中豪雨は、各地で悲惨な事故を引き起こした。碇ヶ関駅付近で退避していた上り列車が崖崩れに巻き込まれ、列車二両が転覆、二人の死者と重軽傷者五三人を出した。弘前電鉄や国鉄の鉄橋や線路が流出して交通が途絶した。そのため自衛隊第九混成団八戸駐屯部隊のヘリコプターが被災者の救助に当たり、通信部隊が駐屯して支援している。昭和三十三年の大水害に引き続き、自衛隊が罹災地の救助に従事することになったのである。このことは自衛隊の誘致をめぐって紛糾していた弘前市民に大きな影響を与えた。少なくとも自衛隊誘致に賛同する人々が増えたのである。自衛隊誘致が決定するまでの過程は、国の意向だけでなく、地元の政財界の思惑など、政治的な動きによるものが大きい。しかしこの災害自衛隊誘致問題に与えた影響力は無視できない。一般庶民にとって自衛隊は、災害救助活動に多大な功績をもたらしたとの印象を与えたのである。
 岩木川はこれ以後も氾濫を続けた。昭和五十年(一九七五)八月二十日、台風五号が襲来し、浅瀬石川土淵川を含む岩木川周辺の河川が氾濫している。この氾濫で、全壊家屋五五軒、床上浸水三八二四軒などの甚大な被害が生じた。このときはとくに土淵川が大氾濫し、桔梗野、寒沢町、吉野町、林町、南北川端町など、沿岸一帯が水浸しになっている。この水害により土淵川の氾濫対策として、 放水路を建設することになった。
放水路は昭和五十七年(一九八二)七月二十九日に完成し除幕式が行われた。放水路は四年の歳月をかけ、総工費一〇三億円あまりを投じた大事業となった。総延長約三五六〇メートルで、東北でも有数の放水路と称された。放水路は人家の密集する弘前市街の「都市水害」を避ける上で大きな役割を果たすことになる。

図15 土淵川放水路経路図・断面図

 二年後の昭和五十二年八月にも岩木川は氾濫し、付近の町村に水害をもたらした。このときは市街地を流れる寺沢川が氾濫し、沿岸の人家などに多大な被害を及ぼし、一一人の犠牲者を出す大惨事となった。市民にとって、岩木川の氾濫による水害はもっとも恐ろしい災害であった。岩木川と周辺河川の改修は、歴史的に見ても避けられない重要課題である。岩木川の改修は大正期以降、弘前市や岩木川沿岸の町村にとっての悲願でもあった。