弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

通史編5(近・現代2)

新編弘前市史 通史編5(近・現代2)

第四章 戦前・戦中の弘前

第六節 恐慌・戦時下の社会運動と世相

一 津軽のナショナリズム

幼少の陸羯南、伊東重を感化した人物に、伊東重の隣家に住む伊東広之進(梅軒(ばいけん)文化一二-明治一〇 一八一五-一八七七)がいる。彼は天保十四年(一八四三)江戸に遊学、佐藤一斎に師事、弘化元年(一八四四)大坂に行き、篠崎小竹の門に入って僧月性(げっしょう)らの志士と交遊し、安藤太郎らと海防を論じ、のち禁書『海防臆測』(古賀侗庵著)を安藤から入手、安藤の言によれば胡羯を呑むの慷慨の気を燃やした。梅軒は、師の小竹や安藤に勧められ、四国、九州を遊歴、日田の広瀬淡窓、佐賀の草場佩川(はいせん)に会い、さらに長崎、熊本へと足を運んで各地の人物と交遊し、中国路を経て大坂に帰った。海防僧月性との交遊が弘前藩の海防家伊東梅軒の名を志士の間に広めるゆえんとなり、頼三樹三郎(らいみきさぶろう)、堀織部正(おりべのしょう)、そして吉田松陰宮部鼎蔵(ていぞう)らの梅軒訪問となった。
 伊東梅軒は、四年の遊歴生活を終えて憂国の士となった。しかし、大言壮語、悲憤慷慨して幕政、藩政を論ずる志士のタイプにはならなかった。自分の身分に応じて藩の仕事に励み、国事に深い関心を寄せている地味で有能な藩士となった。そして自分の果たせぬ夢を陸羯南・伊東重ら次の世代に託し、見事に達成した。
 彼は、帰国した翌々月の嘉永元年(一八四八)二月一日、藩主に御目見(おめみえ)し、九月結婚、翌二年十月希望して御馬廻七番組となり、海岸并松前非常兵士本手となった。このころから弘前藩の軍制・装備・武技に洋式が採用された。嘉永四年四月、組頭に宇和野練兵場における陣立(じんだて)の案を出し認められた。嘉永五年三月、東北歴遊の吉田松陰宮部鼎蔵と一夜国事を談ずることとなる。しかし、梅軒は日記に一語も書いていない。危険への対策であろう。嘉永七年五月海岸并松前非常の節役長柄奉行となる。異国船がたびたび沿岸に現れ、上陸などするため、伊東は眼疾にかかわらず重用され、休養がならなかった。安政三年(一八五六)から五年まで三厩台場の建設にかかわった。文久二年(一八六二)三月から松前スッツの旗奉行として翌三年六月まで勤務、元治元年(一八六四)からは忰廉三郎が京都の近衛家警護のため上京、一年交代だった。慶応三年は親子で領内の御検見役を勤める。
 そして、明治元年(一八六八)の戊辰の役では、梅軒は五十三歳の老齢ながら東奔西走、米沢藩秋田藩への外交交渉に当たり、さらに藩内では軍政調方副役として活躍、八月十二日に今別町奉行に任命されながら、翌日は秋田藩盛岡藩の戦端が開かれたので藩境碇ヶ関町奉行助(すけ)として赴任、盛岡藩降伏後、十月十一日改めて箱館戦争の前線基地今別に着任、明治二年の箱館戦争に対拠した。明治三年二月梅軒は藩校の学校監察となり、八〇俵高となった。忰廉三郎は三等銃隊半隊士令士となる。閏十月には学校教授、十一月に学校御用懸を兼ねた。しかし、明治四年八月、廃藩置県によって学校教授を免ぜられ、九月社寺係となり、十月に学校から二等教授を仰せつけられたが眼病にて断り、十一月に許可になった。明治七年九月二十七日隠居し、明治十年(一八七七)六十三歳で生涯を終えた。
 現在、伊東梅軒が吉田松陰宮部鼎蔵と会見した部屋は養生幼稚園松陰室として保存されているが、この部屋に陸羯南筆の「深蔵如虚」の扁額がかかっている。そして、この四文字こそ、梅軒が弘化四年夏四月、四年の遊学を終え、憂国の海防家となって津軽へ帰るときに師の篠崎小竹が餞別として与えた訓戒の核心である。餞別の全体は二二三字の長文である。その大意は、近頃一轂(こく)という号を名乗っているそうだが、車輪の輻(や)は轂(こしき)に集まる。それは轂の穴が無だからできる。轂は外側に輻を受け、内側に車軸が貫き、それで車輪が回る。小竹は梅軒を寡黙にして知見をひけらかさないところは、車の轂の用を説いた老子そっくりであるとし、君が一轂を号とするのは、そこに理由があるはずだ。これこそ「深ク蔵シテ虚ナルガ如シ」という言葉で孔子が褒めたたえられる所以である。君が故郷弘前に帰るに当たって「車ニ輗軏(げいけつ)ナケレバ徂(ゆ)クベカラズ」という孔子の言葉をはなむけとして贈る。輗軏はをつなぐくさびで、これがなければ車は進まない。小竹は梅軒に津軽の輗軏たれと言ったのである。

写真79 養生幼稚園松陰室

 伊東梅軒家は明治二十一年祐宗の死後隣家の伊東重(しげる)に売却され、同家は弘前を去った。餞別の書は現在、曾孫で東京に住む大沼ハツ家に保存されている。小竹の文を羯南が知り得たのは、梅軒が藩校にかかわった明治三、四年のころ、羯南・重が十四、五歳、場所は藩校か他山塾であると思われ、他山と梅軒の間では往時の懐旧談に花が咲き、新時代に意気軒昂たる少年たちに深い感銘を与えた。請うて少年たちは、その文を書写し、好んで読み合った。このときの熱い思い出が、後年羯南をして松陰室の扁額の筆を執らしめたと思う。なお、伊東梅軒が羯南の竹馬の友伊東重の素読を垣根越しに指導した話も伝わる。羯南の本名は實(みのる)、そのとき、もし實と重が机に向かっているという情景を画(えが)くとますます梅軒との接触が感ぜられる。