弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

通史編4(近・現代1)

新編弘前市史 通史編4(近・現代1)

第2章 明治後期の弘前

第六節 弘前公園の開設と市民生活

一 公園の開放

そのころ、天守閣付近の石垣が崩れて、修理のため天守閣を本丸入り口左に移さねばならなかったのを契機として、旧城地の有償払い下げを申請した。このとき弘前市が打ち出した評価価格は次のとおりであった。
天守閣 五〇円  矢倉四棟 一〇〇円  亀甲門 二五円  その他門五棟 一〇〇円  杉大橋 一五円  下乗橋外 一一五円  石垣一間当り 七〇銭  立木一本 九銭五厘  土地坪当り 七銭  道路・堀(内外)坪当り 一銭五厘 総計七八二七円九四銭

 これは、第八師団を弘前市に設置するに当たって、その軍用地の一部を市が提供する見返りの代償として算定されたものであったため、驚くべき安価であったが、政府は旧城地の一部を軍用地として使用する方針をとっていたこともあり、天守閣についての払い下げはあったものの、弘前市が希望したような用地交換の形での払い下げは実現せず、借用関係は続くことになった。
 三十一年七月に、三の丸の五万一〇一八坪が陸軍兵器支廠用地として陸軍省に引き渡された。三十五年五月、公園の管理を津軽家から市に移すことになった。これは、地上物件について陸軍省の干渉が多く、そのため維持費が増えたばかりでなく、最初に希望した将来の払い下げも難しくなったので、津軽家では管理を辞退することになったためである。市ではこれを引き受けるとともに、開設当時、公園本丸に一時的な露店のつもりで許可したものが永住的な料理店に出来上がったりして、二、三年前から撤去の声が高くなっていたので、市の直接管理になったのを機会にこれらを二の丸に移すことにした。また、数百円を支出して園内の荊棘を切り払い、雑木雑草を刈り取るなど整理と美化にも努めることとした。同年七月には裁判所向かいの外堀を埋め立て、土塁を切り開いて兵器支廠への道路を設け、兵器運搬の便利に充てた。
 三十六年四月、これまでも小規模な陳列を試みたが、天守閣を活用して古物館にし、三層全部に旧藩主や家臣の遺品・遺物を出陳して一般の観覧に供することになった。同月、内山覚弥の尽力によって実現したの植栽が本丸・二の丸・西の郭一帯に行われた。総数約一千本という。その当座は頻々と盗みとられ、月末までに十数本も失われた。そのほか、城内には昔藩公がわざわざ遠方から移植したツタがあったが、たまたまツタの栽培が流行して、これもしきりに盗難に遭うことがあった。また、私立弘前体育会では、園内に公衆一般の遊戯器械を設備することになり、二の丸の堀端広場に鉄棒を設けた。やがてはブランコも据えつけようということになった。
 借用期限が切れる明治四十二年を前にして、払い下げの実現に努力をしてきた市当局は、三十九年十一月、諸準備を整えて再び公園の払い下げを申請した。この際の払い下げ金額は二万一七一四円であったが、その間、四十一年に二の丸一帯に新たに軍用地一万四千坪余の提供を求められたため、四十二年に最終的にまとまった払い下げ決定額は二万一三五〇円三一銭六厘となった。これは、当時の弘前市の予算規模から見てかなり過重な額であったが、市としてはのまざるを得なかった。この支払いによって、しかし、当初の借用の約定にあった四十二年八月の期限切れとともに、自動的に旧城地は弘前市のものとなったのである。買収に要した費用は借入金をもって充て、四十二年度から五ヵ年で償還した。