弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

通史編4(近・現代1)

新編弘前市史 通史編4(近・現代1)

第2章 明治後期の弘前

第三節 市制施行後の弘前市経済

一 交通の発達と奥羽本線

明治四十年(一九〇七)三月十一日に、青森郵便局と弘前郵便局の間に電話の通話事務取扱が開業した。弘前郵便局の呼出域は、弘前市、中津軽郡駒越村駒越、同郡清水村常盤坂・紙漉町・富田、同郡小沢村大原、同郡堀越村取上、同郡和徳村堅田・高崎・和徳となっている(いずれも現弘前市)。このときの一日の電話取り扱い数は、弘前からの通話件数五件、呼出し請求一件、青森から呼び出しを受けたのは一〇件であった。
 同年には、弘前停車場運送業者が発起人となり、市内への電話架設に関する請願運動が起き、そのかいあって、十二月から市内幹線路における電柱工事が進められた。
 明治四十二年(一九〇九)五月には九人の弘前郵便局交換手第一号が誕生し、さらに同月二十日には郵便局の新庁舎が市内本町五丁目角に落成、六月一日に市内電話が開通した。加入者は二〇九人で、これと同時に弘前停車場では赤茶色の自動電話(公衆電話)が開通した。翌四十三年には市外通話の範囲も広がり、大館(二〇銭)、小坂(二〇銭)、浅虫(二五銭)、久栗坂(二〇銭)、野内、油川等にも通じ、また、市内富田郵便局においても電話通話事務が開始された。その後も電話の普及は進み、明治末には、市内交換機五台、市外交換機二台、加入者も単独加入が三二七件、共同加入が八件の合計三三五件の加入となり、交換手は一九人に増員された(この項は弘前電報電話局『弘前の電信電話 交換開始七十年』に依った)。

写真86 弘前での架線工事