弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

通史編4(近・現代1)

新編弘前市史 通史編4(近・現代1)

第2章 明治後期の弘前

第一節 弘前市の誕生

五 弘前政党人の活躍

明治二十二年(一八八九)四月一日、県令第一五号によって中津軽郡弘前町市制施行となった。明治十七年十一月一日から実施された戸長役場時代において、弘前は中津軽郡内二〇の戸長役場のうち、第一から第五までの戸長役場内八九町がそれぞれの町名にかぶせる地名だったが、明治二十二年二月二十日の町村分合改称のときに、五つの役場地域は合併して中津軽郡弘前町となり、それまでの八九町は大字となった。このときに、紙漉町は学区の関係上弘前から割いて中津軽郡清水村に編入し、また、中津軽郡和徳村飛地字野田及び山王、同郡堅田村飛地字宮川を弘前町の地籍に編入した。市会議員の選挙及び共有財産処分協議会並びに市会開設までの諸準備は、中津軽郡大道寺繁禎においてこれを処理した。
 市長の就任したのが同年五月二十七日、市役所の開庁は同月十八日である。市役所は東長町外廿二ヶ町戸長役場をもってし、吏員は弘前の五戸長役場から数人ずつ選出し、市長、助役のもと三一人だった。初代市長菊池九郎、同助役は長尾義連が就任した。大道寺郡長は五月一日から四日にわたり、それぞれ三級一〇人、二級一〇人、一級一〇人の市会議員選挙を行った。
 弘前市においては、大同派と反対派の二派に分かれて激しく争ったが、大同派の全勝に帰した。
第三級第二当選者(大同派)
五四二票 宮川富三郎     四六七票 蒲田廣
四五〇票 本多謙一      四二七票 花田直太郎
四二四票 葛西末吉
次点(反対派)
二八四票 菊池楯衛      二七三票 大高歳行
二六一票 齋藤榮       二五六票 佐藤忠正
 七〇票 山田迪
第三級第一当選者(大同派)
七二三票 芹川得一      七一四票 佐田正之丞
七一三票 桜庭又蔵      七一二票 奈良誠之助
七〇一票 石郷岡文吉
次点(反対派)
 九八票 佐藤英司       八九票 笹森要蔵
 七五票 外崎覚蔵       六五票 神源司
 四一票 一戸豊蔵
第二級当選者(大同派)
三五八票 武田荘七     三五七票 中田多七
三四五票 山内金三郎    三三九票 菊池定次郎
三三〇票 小山友三郎    二八〇票 宮本甚兵衛
二七九票 海老名東太郎   二七一票 宮川久一郎
二六七票 今泉文蔵     二六二票 片山忠兵衛
第一級当選者(大同派)
 四一票 榊喜洋芽      三九票 長谷川如泡
 三九票 古田栄次郎     三八票 奈良平雄
 三七票 田中耕一      三七票 鳴海正彦
 三七票 村林嘉左衛門    三七票 関静逸
 三六票 小野常三郎     三五票 鈴木久造
次点(反対派)
 二四票 大高歳行      二四票 笹森要蔵
 二四票 一戸豊蔵      二四票 菊池楯衛
 二四票 寺井純司      二二票 佐藤英司
 二二票 野崎九兵衛
弘前市の戸数と人口の移り変わり
明治二十二年 戸数六二四〇戸  人口三万一六一五人
同 三十二年 同 六七〇三戸  同 三万三一一八人
同 四十二年 同 六二四〇戸  同 三万五三一〇人

なお、市庁舎は、明治二十三年五月十八日元寺町(現市民中央広場)の元中津軽郡役所に移転、二十五年六月二十日類焼したが直ちに新築、十一月十一日落成、その後昭和三十四年上白銀町一番地に前川國男設計の現庁舎が建てられるまで弘前市民の生活の拠り所として活動した。
 明治、大正市長は十二代を数える。
初代菊池九郎 二代長尾義連 三代赤石行三 四代長尾義連 五代長尾義連 六代小山内鉄弥 七代菊池九郎 八代伊東重 九代長尾義連 十代石郷岡文吉 十一代石郷岡文吉 十二代松下賢之進


写真69 第2・4・5・9代弘前市長 長尾義連


写真70 第3代弘前市長
赤石行三


写真71 第6代弘前市長
小山内鉄弥


写真72 第10・11・15代
弘前市長 石郷岡文吉

 また、財政規模は、明治二十二年度が経常部臨時部合計一万五一一円五九銭三厘から、三十二年度三万一一七六円五八銭八厘、四十二年度一一万六〇六二円六七銭七厘、大正八年度二〇万六一一八円四七銭、昭和四年度五九万四〇二五円と拡大している。
 明治の憲法発布は、『ベルツ日記』で憲法の内容も分からないのにと書かれたり、「絹布」と誤解したと笑い話が生まれたりしたが、国民から奉祝されたのに対し、急いで強引に進めた市町村制度は祝賀ムードもなく、冷たく迎えられたと言われる。弘前の場合も、十年代後半の深刻な不況や伝染病などによる生活破壊の影響が残っていた。明治二十三年五月の市会は市税徴収についての案件だったが、二十二年度市民税未納者一〇〇〇人への督促が大きな問題だった。この中で奈良誠之助は言う。
弘前市ニ最モ多キ貧乏ナルモノハ即チ一種ノ疾病ナリ 此ノ厭忌(えんき)スヘキ疾病ヲ基源トシ事ヲ決定スルハ当ヲ得タルモノナラス 本員ハ此ノ貧乏ノ為メ本案ヲ批准スル意ナシ 只目下ノ形勢ヲ考フルアラハ必ス本案ノ不可ナルヲ知ラルルナラン 昨年自治制ヲ発布セラレ本年又国会開設セントス 然レハ七月ノ選挙会旁(かたがた)実ニ国歩多端ノ時季ノミ 然レトモ我市民ノ情況ヲ観察スルニ恬(てん)トシテ其知ラサルモノノ如ク 国家ノ経営一家ノ生計凡テ之ヲ他人ニ放任セント欲スルモノ多シ 此ノ無心無情ナル人民ニ向ヒ他ノ進化セルモノニ比シ新政ヲ執行シテ外部ヲ飾ラントスルモ其為シ得サルヤ必セリ 否却テ人民ヲ酷待スト云フヘキノミ 故ニ本員ノ如キハ如此モノヲ以テ之ヲ責促センヨリ寧ロ其心神ニ向ヒ市制ノ成功如此自治ノ精神茲ニ在リ抔充分発達セシメント欲スルナリト述フ

 これに対し、同じ東洋回天社仲間で、ともに弘城政社の活動家の石郷岡文吉は次のように見解を述べている。
 「如何ニモ十四番(奈良誠之助)ノ説ノ如ク一国一県一市ト云ヒテ差ヲ付スアラハ軽重アルヘキモ維持上ノ点ニ至ラハ差違アルヘキナシ 夫レ然リ 而シテ年度後 遷延今日ニ至ルモ尚ホ且ツ如此滞納者アルハ遺忘モアルヘキモ怠慢ヨリ起ルモノナキニアラサルヘシ」と滞納者に対して督促手数料を取る市の原案に賛成した。
 このころの弘前市勢をどのように見るかについては、二十四年一月十三日の市会で腕用消防ポンプ操作講習生をめぐる討論が興を引く。
 本多謙一 本市モ追々開ゲ(ママ)テ来ルカラ此レ等ノ者モ必要ニシテ「ポンプ」モ買フ見込ナレバ原按ニ賛成ス

 花田直太郎 弐番(本多謙一)ノ説ニ本市ハ段々開ゲテ来ルト云フガ本員ノ考ニテハ反ツテ退歩スルコド(ママ)ト思フ人口ハ日ニ月ニ減少シ滞納者ハ彌々(ますます)多ク見渡セハ林檎畑ヤ五升芋畑許リニテ火災アルモ近隣ニ移ラヌ有様ニ至ランカ 「ポンプ」ノ使用ハ鍛冶町土手町ハ土淵川ヤ富田泉、弁天様、下町ニハ岩木川ヤ堀ナドアリテ間ニ合フベキモ不便ナルトコロモ沢山アルアリ 併シ土淵川トテ夏中ハ水ナク只塵屑ノミ 人夫ヲ雇フテナゲタル程ナリ亦泉ヤ井トテ掘抜デモナシ 斯ク不便ナル「ポンプ」ヲ使用スルトハ如何ナル理ゾ 番外等ニ於テ本市ガ日ヲ追フテ衰頽(たい)シ貧民ノ益々多キニ至リシ事情ヲ知ラザルニ出ヅルト思フ

 ちなみに、当時の弘前市消防組の常備する器械は、纏(まとい)、高張提灯、旗、消防頭腰差提灯、手提灯、階子、龍土水・水桶、鳶口、刺又、斧、鶴嘴(つるはし)、鉄挺、轆轤(ろくろ)万力、木槌、鋸、玄能、大綱、麻縄、消口札で、破壊消防法だった。腕用ポンプは一〇〇〇円ぐらいという。