弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

通史編4(近・現代1)

新編弘前市史 通史編4(近・現代1)

第1章 明治前期の弘前

第四節 文明開化と東奥義塾

一 明治天皇の巡幸

天皇の巡幸の際には、文章をもって仕える係官が随行し、巡幸が終わってまもなく巡幸日誌というべきものをまとめた。それが二つないし三つ残っており、そのなかに当時の弘前の事情を伝えているものがある。
 いま一つは、供奉の参議大隈重信が、十三湖とそれに注ぐ岩木川の逆流による災害常習地帯の現場を視察した際の記録である。大隈はこのために函館において一行と分かれて先行し、青森から五所川原を経て十三湖の湖口まで実地検分した後、木造から三和村を経由して弘前に向かい、一行に合流した。この大隈に私的に随行した峰源次郎が、天皇関係の文章係りとは別に巡幸日誌を残した。
 これらの巡幸日誌とは、宮内省文学御用掛児玉源之丞による『扈蹕日乗(こひつにちじょう)』、内閣文書記官一等編修官川田剛による『随鑾紀程(ずいらんきてい)』及び、大隈参議に私的に随行した峰源次郎による『東北従遊私録』である。これら三つの著作のうち、『扈蹕日乗』は片仮名交じりの文章であるが、他の二つはともにいかめしい漢文体である。次にこれらの著作から、弘前関係の記述の一部分を抜き出してみよう。まずは『扈蹕日乗』から。
九日晴……四時弘前町ニ抵(イタ)ル。武田清七ガ家ヲ行在トス。層楼ヲ新築シ、四望濶遠、岩木山駅西三里ヲ隔テ、絶頂碧霄ヲ摩シ、根脚八村ニ跨ル。津軽冨士ノ称アリ。岩手山ト伯仲スベシ。土人或ハ誇テ海内無比トス、蛙見笑ウベシ。……夜ニ至リ街上喧雑、楼窓ヲ掲ゲテコレヲ瞰(ミ)ル。木骨紙皮楼閣ノ形ヲ成シ、方一丈余、高コレニ倍シ、物象ヲ画キ、五彩ヲ施シ、燭火其中ヲ照シ、数十人コレヲカツギ、市街ヲ行(ヤ)ル。コレヲネプタ祭ト称ス。古来ヨリ行フトコロ、何ノ由ヲ知ラズ。或ハ言フ田村将軍征夷ノ時ニ始ルト。
十日、此日當(マサ)ニ蔵舘ニ宿スベシ。行程僅ニ三里余、早発ヲ須(モチ)イズ。車駕裁判所ニ臨幸シ、左府宮代リテ諸校ヲ巡視ス……。弘前駅東西一里十町、南北二十三町、戸七千、口三万二千、冨戸亦多シ。行クコト半里余、始メテ街ヲ離ル……(行文を省略した部分多く、また、読みやすいように振り仮名を付した)。

 次に、内閣文書記官一等編修官川田剛は、後に明治時代を代表する漢学者となり、宮中顧問官にまでなった人物であるが、この巡幸日誌を克明に漢文で記し、『随鑾紀程』という書名の著書を残した。これは、天皇の御召車に随行した旅行といった意味である。川田は、沿道各地の地方の歴史や沿革に特別な関心を示し、青森から弘前に至る間についてみると、浪岡のところでは、北畠氏の歴史を回顧し、黒石については、またそこの往昔に触れ、津軽為信による津軽一帯の統一事業にまで言及するというありさまで、弘前については、およそ次のような調子である。
………岩木山延袤(えんぽう)両郡に跨がる。芙蓉空を挿む。高さ四千余尺。宛然駿の富士峰に肖(に)る。呼んで津軽富士となす。和徳村を過ぐ。弘前に駐蹕す。人烟稠密。百貨輻輳。官署学校神祠仏宇甍を連ね鱗次(りんじ)す。分ちて七十九街とす。中央に一阜(ふ)あり。喬木林を成す。故城有り。津軽信牧築く所。東西五町四十間。南北四十六間の石塁三層。……又五郭八楼十三門あり。西巨川を隔て岩木山と対す。
……城市殷富。東奥推して一都会となす也。此地物産多く、最も漆器に名あり。質堅彩美。号して津軽塗となす。前年市店火を失す。延焼千余戸。今旧観に復す。后を徯(けい)する者(天皇の御出でを待つ者の意)四集歓呼す。夜に及び棚車燈をかかげ、邪許推輓(やこすいばん)(かけ声とともに車を押したり、引いたりの意、ねぷた運行の景をさす)。閙(どう)熱湧くが如し(喧騒をきわめたの意)。
十日朝。車駕裁判所に臨す。所長判事中御門経明賀箋事務一覧表を奏す。……左大臣大木参議と中学、医学、師範学校東奥義塾を巡視す。余城内を游歩、八坂神祠に詣す。祠背招魂場を設け、旧藩士丁丑西征之役に死する者六十七人を祀る。碑有り、三条相公国詩と題す。……末刻、啓蹕して蓬莱橋を渡る。平野曠闊、千代松原という。天和中、藩侯此を過ぎ、沙礫地に満ち樹の倚る可き無きを見、乃ち徒を起し、路を修し、穉(ち)松数万株を移栽す。今緑葉陰を成し、行旅涼を取る。……路右に邱有り、千歳山と称す。小次を設く……(便宜上読み下し文に直した)。


写真35 千歳山より岩木山・千代松原を眺望

 次の峰源次郎『東北従遊私録』は、参議大隈重信に随行した人物による巡幸私記で、これも漢文体である。十三湖口を視察し、弘前に到着、一行に合流するまでの記述は精細をきわめている。しかし、弘前そのものについては、ほとんど記述を省略し、一行が弘前を出発した十日の条(くだり)において次のような岩木山に対する讃辞が見えるのみである。
十日晴。午后一時弘前を辞す。青松白沙なお旧国の如し。岩木山を回顧すれば温藉玉の如し。白雲其の嶺にまつわる。洵に美しき哉。津軽富士の名虚(むな)しからざる也。

 以上の三つの御巡幸日誌はそれぞれ特徴があるが、共通してみられるのは、岩木山に関する記述である。『東北従遊私録』の記述は、松原通りから展望した風景を率直に表現しているが、これと対照的なのは、『扈蹕日乗』にみえる岩木山に関する記述である。筆者の児玉源之丞は、地元民が岩木山をあまりに自慢するのを見て、これをたしなめている。「………岩木山……根脚八村ニ跨ル。津軽富士ノ称アリ。岩手山ト伯仲スベシ。土人(土着の住人の意)或ハ誇テ海内無比トス、蛙見(あけん)笑フベシ」。