弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

通史編4(近・現代1)

新編弘前市史 通史編4(近・現代1)

第1章 明治前期の弘前

第三節 弘前地方の経済活動

四 明治維新後の弘前と町の経済状態

後年に至り、維新期を回顧した文章に、明治維新後の弘前、特に弘前城の変化について触れたものがあるので、これにより町の様子を見ておきたい。まず、城地は次のようになっていた。
 弘前市は往日旧藩時代に於ては人口一万であった。廃藩置県となって、弘前県であったときは別に変はりがなかったが、一旦青森県となって県の位置がなくなり、同時に旧藩知事たりし旧藩主が東京に移住となり又各士族は何れも田地を分配せられて津軽郡内に分かれて住むやうになってからは、弘前は空虚となった。其時は明治七年であった。旧城地は全部陸軍省用地となってからは、旧城の御殿を初め各建物や門・塀・柵・橋梁を其朽腐任して仕舞ふた。
 城中には単に名計りの番人が居った。夫れは即ち東洋回天社と唱へて奈良誠之助石岡周右衛門七戸栄五郎小山内鉄弥小山勝次郎猪股幸次郎木村喜代太郎石郷岡文吉小野弥門・小坂某・成田建夫・平田某・鎌田賢之助・煤田至誠坂本千代三郎笹森清造佐藤英司・瀧川・岡兵一菊池三郎小山先生藤田貞元岡重司・小田桐友平・芹川得一対馬健八・笹森兄弟・高杉兄弟・広野太一等の不平党の一団である。之を拝借するために其筋に願出たものは小山内、奈良の両氏であった。まんまと旧城地全部十五万坪に外濠を加へたもの如何なる名義で借かれ(ママ)たかは筆者の知る所でないが、陸軍省からまんまと借れた。今日から想像するときは其裏面には木村繁四郎西館孤清杉山龍江氏の尽力で出来たものであると考へられるが、之が借用人の名義は回天社で当時の主魁者として奈良誠之助氏であった。
 明治八年後は全く主として下町に加へて中町の方面の人々であった。今一人の有名な弘前の人物を残したが夫れは小山内建麿氏の中町方面の人である。拝借後の回天社一派の仕事は何であったか丸で無意義である。
(中略)
 若し城内に入るものを見たときは其商人や又は農夫の草刈や乃至市中の小者の枯損木を伐採又は杉葉や松葉を拾ふ女小供までも之を捕へて或は償ひを取り其取ることの出来ないものは勝手に打撲を加へ甚だしき縛して泣かしたものだ。東奥義塾生なども又城中に潜入して捕へらるゝや夜まで城内三ノ丸残れる一部分の邸内に残して帰らしめず或は灰吹を洗はせられ又は水を汲まされ之を肯んぜさるものは殴打さるゝので回天社の壮士共は勝手に私刑を施したものだ。夫れでも別に警察に訴へて出るものがなかった。
(中略)
 回天社から又借れして居る人は富田村の佐藤真雄氏の弟であった。之は一定の使用料を払って借れて居たので之を取立てゝ居ったのは回天社である。其中弟に鳴戸某で学生仲間では鼻重々々と通り名であったが同人等は城中に自由に這入り得たもので鳴戸の友人で梅田孝太郎と云ふ梅田は左り手利であったから梅田の左りコと云った。類は友を以て集る是等の人々はお城に遊ぶに行ったものである。
 然し夜中に乗じて下町連中は石戸谷末九郎の一派を嗾(そそのか)して銅細工の職人を呼んで夜中に城内の建造物の銅板を盗み取ったのを何れも慨嘆したものである。貧乏士族の子弟一団は集って城中を利用して唯一の酒食場としたのである。何と今日から見れば沙汰の限りではあるまいか。かゝる事を継続したのは御城を払下げて公園にしたときまでゝある。随分長いものであった。殆んど三十年近いもので三昔である。(中略)
(山野亘「大弘前建設論」『陸奥の友』五-四、五、六)


写真22 明治5年当時の北の郭と亀甲門

 弘前城を舞台に、明治維新後の若者たちが乱暴な行為を繰り返していたことがわかる。これは、明治維新後の改革で、特に士族層が苦境に立たされたことによる影響が大きい。このことは次のように回想されている。
 我が弘前の衰微したのは、第一に旧藩主の東京に移住したときに始まり、夫は士族の在宅に次ぎ、士族の安逸に耽り産を失ひ家族分離するもの多く、北海道に夜逃げしたる勝(ママ)て夫れは士族斗りでは町家でも農家でも沢山あった。
(中略)
 士族でも不老倉鉱山が失敗して、お一門の歴々図書、金太郎、平八郎を始め多田、間宮、笹其他の人々も大分破産の浮目に陥らしめられたが、夫れでも旧藩君が御下向の時は大抵は新町の松原に御出迎へをした。遠く秋田や山形や、米沢やまでお迎をした人々もあった。大道寺・山中・高倉・山野・瀧川・藤田・高瀬・喜多村・佐田・池原・山田・芹川・三浦などの人々であった。其当時は汽車がなかった時で、海に途をとらなかったら東京から道中を伯爵御親子は三人曳で、随行の家職や途中へ御出迎への有志家も皆な人力車や、馬車でさもなければ徒歩したものだ。東奥義塾生一同は碇ヶ関までお迎へ申上げ夫れから御一行を御警護申し上げたものだ。弘前の士族町人百姓も尽く新町の松原まで御迎へ申上げた。然昔日の如く土下座して平伏御迎へした。中には旧藩の御親子を御見上げて号叫したものさへあった。
 旧藩公は本町の金木屋へ御宿泊した。御社参や、御墓参や、旧藩士の当主、長男、隠居したものにまで一同拝謁を賜はった。そして御土産として御酒お肴お菓子に御紋章焼附の御杯を一同に賜はった。
 主君から頂戴したものは何でも粗末にせぬが殊に今回は御紋章附の御杯を頂戴したので、之を家宝として珍重したものだ。旧家臣一同から御主君様御父子を岩木川原に御招請して川魚特に鮎を捕獲して御覧に入れた。其他旧お家柄で一門で当時は五十九頭取であった大道寺繁禎氏の富田の邸にも御出になった。
 町家では藤田半左衛門邸へ御出があって、御一門主席で当時の主人であった津軽薫氏は殖産事業家であったが同邸へも無論お出になった。(後略)
(同前)

 明治十七年(一八八四)に旧藩主が墓参のために帰郷した折の士族たちの晴れやかな様子がうかがえる。このような様子は、それ以前の明治十四年(一八八一)の天皇巡幸の際にも見られた。その際にはねぷたも観覧されたが、かけ声やはやしは禁止され、張り合いがないものであったと回想されている。このように、士族中心の旧藩体制下の弘前の生活環境は、明治維新後に一変したのである。