弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

通史編3(近世2)

新編弘前市史 通史編3(近世2)

第8章 藩政期の文化

第三節 宗教と信仰

一 宗教政策の展開と特徴

(三)キリシタンの流罪とキリシタン改め

 フランシスコ・ザビエルが、天文十八年(一五四九)、キリスト教を鹿児島に伝え、南蛮(なんばん)宗・伴天連(ばてれん)宗とも呼ばれた。後に吉利支丹(きりしたん)となり、江戸幕府五代将軍綱吉のころから「切支丹」の字が当てられるようになった。
 西国大名や信長・秀吉は、南蛮貿易の利益からキリスト教布教を許容し、都には南蛮寺が建てられた。ところが、秀吉は全国統一の妨げになるとし、天正十五年(一五八七)、バテレン追放令を発し、文禄三年(一五九四)には長崎で信者を処刑し、弾圧を加えた。江戸幕府もこの方針を受け継ぎ、慶長十九年(一六一四)、キリスト教の寺院を破壊し、宣教師を追放した。幕府の命により各大名もキリスト教徒を禁圧し、棄教しない都・大坂の信者七一人を蝦夷地とともに中世から流刑の地であった津軽へ流罪とした(資料近世1No.三一二)。都から大津を経て、敦賀港から五月二十四日に乗船して、六月十七日に外浜に着いた。この外浜とはどこかわからないが、深浦鰺ヶ沢ではないかとみられる。翌日、津軽越中守(信枚)より将軍の命令で荒地を耕すことになっているが、引き受けるかどうかの話があり、農業に従事することになった(同前No.三一二、松森永祐「津軽切支丹の一考察」『弘前大学国史研究』一三)。教徒の動きについては、宣教師記録によって知ることができる。
 翌元和元年(一六一五)に宣教師ジェロニモ・アンジェリスが、津軽の流刑者を訪問したところ「」に分けられ、ごとに組頭を定め仕事をしていたという。元和三年、パードレ結城ディオゴが教徒を訪ねた時の報告から、津軽には五つのがあり、二つは流刑者、三つは領民の改宗者から成っていることと、入牢中の五人のうち二人は流刑者、三人は洗礼を受けた領民であった。この年、津軽で初めて火刑が行われた。アンジェリスは殉教者は六人で、その中の一人に薬師(くすし)ショアン・マチアスの名前を挙げている。パジェスは『日本切支丹宗門史』に、流人の医者マチヤスがレオ・ドーテイとマリア夫妻を改宗させ、同じく流人レオ・ジョースンは弟子のミカエル・ニヒョーエを改宗させたとみえる。また、処刑の時は縛られて馬に乗り、肩の後ろに死刑の印である小幡(こばた)を付け、高岡(たかおか)(現弘前市)まで往復させられた後、柱に縛りつけられ、火あぶりの刑を受けた。
 流刑に処せられてからわずか三年の間に、流人たちは領民へ入信を働きかけ、洗礼を受ける者が出るまでになり、ついに火刑の処分を受けた。この後、寛永元年(一六二四)まで宣教師が毎年のように訪れ、教徒の信仰を聴き、聖体を授けるほか、都から資金を送って信仰生活を支えていた(資料近世1No.三八九)。教徒は五つのに分けられており、その一つは高岡付近であるが、ほかはどこか比定できない。寛永年間(一六二四~四三)の記録(同前No.六六一)によれば、「青森新田」「津軽かねほり」と記し、一〇年以前に棄教し転びキリシタンとなった者五人の名前を挙げている。流人は青森新田開発や、津軽の鉱山で働いていたとみられる。元和九年(一六二三)、家光が将軍になると禁圧も厳重をきわめ、津軽では寛永元年(一六二四)に一四人の入牢、同二年にトマス・スケザエモンが、改宗・洗礼に導いた若者のことから火刑になった。同三年にはイグナチオ・モザエモンら一一人が死罪となったが、この中には教徒が妻を入信させたところ、妻の父が告訴し、処刑された者もいた。これらは、都・大坂からの流人でなく、改宗した地元の領民や、他の罪による流人とみられる。
 寛永十四年(一六三七)、島原の乱が起こると、幕府は三代藩主信義にその様子を伝え、この後もキリシタンを厳重に取り締まることを命じた。翌十五年、津軽では七三人を火刑に処した。同二十年、伊勢の五左衛門を火で責める拷問で白状させ、幕府へ報告して火刑にしたが、これが津軽における最後の殉教者となった。
 幕府は初めキリシタンの盛んな場所から、信者の改宗しない者を流刑地に送り込むことによって、消滅させようとした。ところが強固な信仰を持ったキリシタンが領内の流刑地において、荒地の開墾、鉱山の採掘に従事し、元和元年の大凶作にも耐え、領民へも信仰を勧めていった。幕府は禁圧政策を強め、家光が島原の乱後に大弾圧を行い、踏絵禁書宗門改め寺請制度を推し進めたが、一部隠れキリシタンとなった者は、明治六年(一八七三)にようやく信仰の自由を手にすることができるようになった。