弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

通史編3(近世2)

新編弘前市史 通史編3(近世2)

第8章 藩政期の文化

第三節 宗教と信仰

一 宗教政策の展開と特徴

(一)寺社の保護と統制

信枚は、慶長十五年(一六一〇)に高岡(たかおか)(現弘前市)に築城を開始すると、城下町形成に当たり堀越在方から寺社を移転させ、城下防衛の役割を負わせるとともに、寺社を通じて領民の掌握に当たった。茂森(しげもり)には土居と堀による枡形を備えた長勝寺構(ちょうしょうじがまえ)をつくり、長勝寺を中心にした上寺(うわでら)には岩木山麓の西根から、耕春院(現宗徳寺)を中心にした下寺(したでら)には八甲田山麓の東根から、合わせて曹洞宗寺院三三ヵ寺を集めた。

図189.茂森禅林街

 元寺町(もとてらまち)へ集めた寺院は「正保城絵図」(資料近世1No.七一六)によれば、天台寺一ヵ寺、浄土寺一ヵ寺、門徒寺(浄土真宗)四ヵ寺、法華寺(日蓮宗)二ヵ寺がみえるが、寺院名は記されていない。寺院の縁起から浄土寺は貞昌寺(ていしょうじ)、門徒寺は真教寺(しんきょうじ)、専徳寺(せんとくじ)、法源寺(ほうげんじ)、円明寺(えんみょうじ)、法華寺は本行寺(ほんぎょうじ)、法立寺(ほうりゅうじ)とみられる。浄土宗西光寺(さいこうじ)、天徳寺(てんとくじ)、西福寺(さいふくじ)、徳増寺(とくぞうじ)は貞昌寺の塔頭としてあったために記されず、慶安二年(一六四九)の火災で新寺町へ移った時も、貞昌寺門内に位置することになったようである。天台寺がどの寺院に当たるかはわからない。
 弘前総鎮守の八幡宮(現弘前八幡宮)は、古くからあった熊野宮(現熊野奥照(くまのおくてる)神社)の地が城の鬼門に当たるとして八幡(やわた)村(現中津軽郡岩木町)から移転させ、別当最勝院堀越から賀田(同前)へ移っていたのを慶長十三年(一六〇八)再び移転させた。参道の両側には塔頭一二院を配し、亀甲(かめのこう)町からは道路をかぎの手に曲げ、八幡・熊野宮神主二人と下社家一〇人の神職を住まわせ、禰宜町(ねぎまち)を形成させた。
 革秀寺(かくしゅうじ)は父為信の菩提寺として慶長十三年(一六〇六)創立し、寺領一〇〇石を寄進した。このほか誓願寺(せいがんじ)大堂、長勝寺山門の建立や熊野宮(現熊野奥照神社)、神明宮(現弘前神明宮)、袋宮(ふくろのみや)権現宮(現熊野宮、市内茜町)、浪岡八幡宮広船神社(現南津軽郡平賀町)の再建に当たった。百沢寺に対しては山門の建立、本尊の開眼供養を行うほか、一二坊の屋敷への年貢免除を図らせた。また、「百沢寺掟状」(資料近世1No.四七一)を出しているが、これは創建した虚空蔵(こくうぞう)菩薩を祀る求聞寺(ぐもんじ)堂(現求聞寺、中津軽郡岩木町)を女人禁制とし、境内での伐木を取り締まり、寺院を統制ではなく、保護する内容であった。

図190.求聞寺

 天海僧正は、天台宗の僧で徳川家康の帰依を受け、上野の寛永寺(かんえいじ)を創立したが、信枚とは師弟関係を結び、天海の一字をとって「寛海」の法号を授与した。このことから、信枚は常福寺(じょうふくじ)(現東京都台東区)本祐と結びつき、東照宮別当東照院(とうしょういん)(現薬王院)の創建に当たっては本祐を開基に推し、真言宗に改宗させられていた深沙宮の別当神宮寺天台宗に戻した。
 また、幕府から一三年間預けられていた天台宗の僧慶好院(金勝院)の意見を取り入れ、最勝院を大寺とし五山の制を定めた。五山真言宗最勝院百沢寺(ひゃくたくじ)、国上寺(こくじょうじ)(現南津軽郡碇ヶ関村)、橋雲寺(きょううんじ)(現中津軽郡岩木町)、久渡寺(くどじ)(現市内坂元)をいう。
 信枚は、由緒ある寺社を取り立てて保護を加える一方、城下町形成に当たって寺社を移動させ、それまで寺社が持っていた在地への権利を引き離し、近世封建社会へ編成替えした。