弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

通史編3(近世2)

新編弘前市史 通史編3(近世2)

第7章 藩政期の人々の生活

第三節 町場の生活

三 諸産業

(三)陶磁器

国日記」元禄四年(一六九一)八月十二日条によると、藩士平清水三右衛門はかねて江戸の浅草町(現東京都台東区)で陶師万右衛門(まんえもん)の弟子となり焼物修行をしていたが、元禄四年八月十一日に帰国、自分で作った茶碗五個を藩主に献上している。またあらかじめ領内一〇ヵ所に見立てていた粘土や釉薬(ゆうやく)(うわぐすり)の原料を採取して再び江戸へ赴き、焼成の見通しが確かめられたうえで同五年六月、瀬戸助(せとすけ)と釜(窯)師久兵衛(きゅうべえ)、小人二人(助八・孫八)を同道して再度帰国、町奉行小田桐戸右衛門(おだぎりとえもん)宅に窯を築き、領内で初の焼成を行った。

図142.浅草町周辺図 金龍山のカワラ丁の名もみえる

 元禄五年(一六九二)八月二十九日の「平清水三右衛門焼物之覚」によると、上焼(じょうやき)二〇三、内、花入三、水差三、水こぼし一、茶入二、香炉四、火鉢二、濃茶々碗一〇、薄茶茶碗九八、このほか生焼(なまやけ)八二、疵物(きずもの)四五、合計三三一で、生焼けについては焼き直すとしている。加えて釉の呈色(ていしょく)具合を調べるために試験的に焼いたものが茶碗類、火鉢、茶釜、花入れ等五一点であった。国元での最初の作陶ということで、焼成条件や釉薬の種類・特徴等について種々のデータを得る目的も兼ねていた。なお製品をみるとほとんど茶の湯の器であり、これは茶道のたしなみが深かった藩主(四代信政)の意向によるものと考えられる。
 その後短期間ではあるが、藤崎(ふじさき)村(現南津軽郡藤崎町)古館(ふるだて)(藤崎城跡)のうち畑地を借のうえ窯を築き、高原焼の習得をした永井七右衛門(ながいしちえもん)と、さきの小人二人を弟子として焼成を試みている。
 平清水三右衛門はまた、元禄七年(一六九四)十月、作陶修業のため江戸へ上り、翌八年六月帰国。その後、川口九左衛門(かわぐちきゅうざえもん)の上ヶ屋敷に焼物細工所設置の許可を得て、家老中の了承のもと普請が始まった。これは前回の元禄五年の焼成で家老中の評価が高かったことが幸いした。川口九左衛門の上ヶ屋敷の場所は定かでないが、「弘前惣御絵図」(元禄十五年ころ 弘図郷)の小人町の一角に〝平清水三右衛門〟および〝瀬戸物焼役屋敷〟と記された場所が認められる。

図143.平清水三右衛門瀬戸物焼役屋敷(←印)

 三右衛門の本格的製陶は小人町にえた焼物御細工所から始まる。製陶は正徳五年(一七一五)ころまで約二四年間に及び、その間、茶陶を主とした御物を作っているが、余分は一般にも販売するなど、民需を意識した作陶もしている。
 茶入・水瓶(すいびょう)(水がめか)・水差(みずさし)・水こぼし・なつめ・香炉・蓋置(ふたおき)・濃茶々碗・薄茶茶碗など、上流層を対象とした茶陶類、並びに一般向けを含めた茶碗・皿・砂糖鉢・したみ茶碗鉢・銘酒つぼ・辛味(からみ)入れ・焙烙(ほうろく)・盃土器(かわらけ)といった食器具や台所品、およびたばこ入れ・灯明皿(土器)などの生活品で、焼き物の分類では陶器および素焼(すやき)(無釉土器)となる。台所(食器)や灯明(油皿)として使された土器は、毎年ということではないが年に一〇〇〇~三〇〇〇枚程度焼かれた。御の分としては多いと思われるが、これらは破損などのために消耗度が高かったうえ、土器投(かわらけなげ)(高所から土器を投げて、風にひるがえるさまを興じ楽しむ遊戯)にも使われたためであろう。
 なお毎年のように唐津船や瀬戸物船が鰺ヶ沢(あじがさわ)(現西津軽郡鰺ヶ沢町)や青森(あおもり)(現青森市)に着岸しては唐津物などをもたらし(「国日記」における移入の初見は寛文四年四月十二日条)、一般の需要にも応じていた。三右衛門一手の製品だけでは不十分なうえ、唐津物は種類が多く、需にかなっていたために移入が続けられていた。このような状況に対し、三右衛門は資金借のうえ、さらに多種類の御物を作るほか、唐津物より安値で一般へ売り出し、市場のにぎわいを図った。
 三右衛門は磁器の試みもしていて、原料の白土(陶石の成分を含むと考えられる)を碇ヶ関(いかりがせき)(現南津軽郡碇ヶ関村)・大和沢(おおわさわ)(現市内大和沢)などより採掘している。白め(白焼とも)と赤め(赤焼とも)の対になった〝たばこ入れ〟の注文をしばしば受け焼成している。白焼の半田焼成の記述もある。なお磁器の原料としては成分が良くなかったとみえ、京都黒谷の土の買い入れを申し立てている。この場合の白焼は完全な磁器ではなく、透明性のない半磁器程度のものと考えられる。なお、白土は窯の修理や窯道具にも使された(小人町の窯跡とされる場所からは、加熱のために白い磁器質の匣鉢(こうはち)〈窯道具〉に溶着した磁器質の破片などが認められている)。当時、このような磁器の製作は伊万里焼(有田焼)・鍋島焼・九谷焼(くたにやき)などを除くと全国的にみて希有(けう)であった。
 小人町の焼物細工所について、細工所は三右衛門の屋敷内にあるが、その規模について「国日記」には次のような記録がある。
①細工所の広さ 表口一三間二尺(約二四メートル)、西側八間(約一四・五メートル)で面積一〇六・六坪(約三五二平方メートル)―宝永二年(一七〇五)四月九日条。

②窯の大きさ長さ 四間(約七・三メートル)、幅一間(約一・八二メートル)―元禄十七年〈宝永元年〉(一七〇四)四月二十九日条。

③窯の屋根の面積 一四坪(約四六・二平方メートル)―宝永元年八月十二日条。

 年代が異なるが、細工所と窯の規模や種類についてもうかがい知ることができよう。
 平清水三右衛門について、三右衛門は跡扶持二人扶持藩士で、宝永二年(一七〇五)四月六日条によると、御切米三〇俵、二人扶持、御長柄組とあり、当時五十五歳。元の姓は〝阿保(あぼ)〟で、元禄三年(一六九〇)〝平清水〟と改姓している。改姓の理由は明らかでないが、江戸に焼物修業に上ったころと考えられる。宝永二年には〝千良(せんりょう)〟と改名し、身分を子権右衛門に譲った。
 このように千良と号したことから、近代に入り〝千良窯〟の名称が生まれ、昭和三十四年(一九五九)十月に、弘前市政施行七〇周年を記念して開かれた津軽古陶磁展出品目録には〝千良窯〟の名がみられる。