弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

通史編3(近世2)

新編弘前市史 通史編3(近世2)

第7章 藩政期の人々の生活

第三節 町場の生活

二 日常生活

(二)日常生活

五月二日、お兼が風邪気味で小山内医師が往診。大津屋久左衛門の弟が病死したので、悔状・香典を差し上げる。
 三日、向かいの桶屋の鉄が病死したため、悴(倅)忠吉がまだ十四歳ほどで困っている。鰺ヶ沢〓菊屋へ京蕗一五把を差し上げる。
 五日、我家の田圃にまだ水が入らず、苗代の苗が少し色が良くない。苗不足のため、一〇日前にまだ田植えをするなと藩から触が出された。それにもかかわらず薬師堂(やくしどう)村(現市内元薬師堂か)の藤三郎が三日前より田植えを始め、役所へ呼ばれて叱られた。弘前城下では疱瘡(ほうそう)が流行している。
 六日、弘前へ行き、〓・〓へ立ち寄り、昼食後に大道寺家を訪ねる。高屋(たかや)村(現中津軽郡岩木町)の庄屋が嶽(だけ)温泉(現中津軽郡岩木町)へ入湯するので、見舞人を派遣。
 九日、別家〓(本町の金木屋)の先祖の二〇〇回忌などの法要へ、今日・明日妻と悴が参上。このごろ、弘前城下で大鯛が売られており、賀田村へも売りにきた。
 十一日、五川おかさま・さへ・かねの三人が、羽黒(はぐろ)神社(現中津軽郡岩木町)へ参詣。
 十三日、佐山の女たちが華美な衣服で道を歩いているのを発見されて藩から叱りを受け、佐山の刑罰は戸締め五日で、昨夜赦される。
 十四日、我家の田植えが今日から始まったが、苗へかじき虫が多くついている。早乙女ら作業する人は一九人である。常居(じょい)へ巣をかけていた燕の雛が六羽生まれた。
 十五日、宮崎儀助より明日・明後日の法事の案内が来た。夕方、岩木川が増水して船渡しができず、私は別家〓に泊まる。
 十六日、今日から杜氏(とうじ)(酒造りの職人)九人で酒一番火を入れる。
 十八日、鰺ヶ沢の〓菊屋が午前十一時すぎ訪宅、百沢(ひゃくざわ)へ参詣後(高岡霊社(たかおかれいしゃ)・求聞寺(ぐもんじ)・百沢寺(ひゃくたくじ)のすべてか一部か不明)に再び立ち寄る。私は昨朝盛りを過ぎた茸の汁を飲み腹痛をおこす。
 十九日、家老大道寺様が明日碇ヶ関(現南津軽郡碇ヶ関村)へ行き、明後日弘前へ到着予定につき出迎えを命じられ、悴らが今日の午後二時ころに碇ヶ関へ向けて出発した。
 二十一日、弘前到着の大道寺様へ、私は午前八時前に挨拶に参上する。大道寺様は到着後すぐ(午後十二時半過ぎ)登城。私は午後八時前に城より帰宅。〓菊屋忠助妻たき・英治郎が午前八時半ころ鰺ヶ沢へ帰って行った。二月十九日に弘前へ来て、九二日間の滞在であった。
 二十三日、私は城下の小山内医師へ薬を貰いに行ったが、往診のため駕籠に乗っている小山内医師と新町(あらまち)ですれ違ったのに気がつかず、小山内医師を訪ねたが不在であった。そこで私は友人宅を何軒か訪ね、さらに大道寺家へ参上して江戸からの土産を頂戴し、午後八時ころ大道寺家を出た。帰途にみた身代り地蔵尊(龍泉寺(りゅうせんじ)―現市内新町―境内にあり)の宵宮が大変にぎやかであった。雪売り(岩木山から採ってきたか)が多くいた。子供たちは宵宮(身代り地蔵尊の宵宮か)に参詣するため昼過ぎに出かけて行った。和徳町(わとくまち)の大坂屋仁兵衛死亡の連絡あり。
 二十五日、私は今朝小山内医師へ薬を貰いに行き、その後友人宅を訪ねた。それから大道寺家へ行き、一昨日土産を頂戴したお礼を述べたが、さらにお酒までご馳走になり、午後八時過ぎ帰宅。
 二十七日、駒越組(こまごしぐみ)の代官が交代したので(齋藤小八郎から鳴海此右衛門へ)、両家へ悴が挨拶に参上。藤九郎様・用人佐野茂助様の江戸より帰国のお祝いに悴参上。
 二十八日、今朝、大道寺源之進と家族一同が、湯段(ゆだん)温泉(現中津軽郡岩木町)へ湯治へ行く途中我が家へ立ち寄る。
 二十九日、多助ら三人が鬼沢(鬼神社(きじんじゃ)か)へ参詣に行く。近辺より参詣の人多数あり。今日高屋村で虫送りの行事があり、午後二時ころより大変にぎわう。今日、多くの雪売り弘前城下へ出た。
 九月一日、悴が津軽主水(もんど)・津軽図書(ずしょ)へ先日のお礼に行き、大道寺家も訪ねて夕方帰宅。〓の貞(八月二十六日に男子出産)、明日枕下げにつき、お祝いと産着(うぶぎ)を差し上げる。大道寺家へ栗を四日に差し上げる予定。
 二日、〓の親方が温湯(ぬるゆ)(現黒石市)へ入湯につき見舞いを差し上げる。悴が〓の祝言(しゅうげん)に行き、今夜〓(城下本町の別家の金木屋)に一泊。大道寺家一行が明日の早朝に出発し、猿賀(猿賀山深沙大権現(じんじゃだいごんげん)、現猿賀神社)へ参詣の後に、浅瀬石村(あせいしむら)(現黒石市)の郷士鳴海久兵衛を訪ねるのでお供をするよう命じられた。そこで悴が〓より大道寺家へ直行し、お供をすることになった。
 三日、この総人数は、津軽黒石藩家老唐牛夫妻、その他芸者も含めて約三〇人であった。大道寺家が帰宅したのは午後八時ころで、悴が賀田村の自宅に帰ったのは午後十時を過ぎていた。
 六日、今日から帳場の炉を開けたが居間はまだである。今朝、悴ら三人が茸採りに行く。
 七日、今日から桶屋が来て酒道具の手入れを始めた。蔵から大桶を出し、明日から洗いを開始する予定。〓の母が嶽温泉へ湯治の帰途に立ち寄る。我が家の稲刈りが今日終わったが実入りがよくない。悴が弘前より懐炉(かいろ)のような品物を買ってきた。
 八日、悴らが羽黒神社(現中津軽郡岩木町)へ参詣し、蔵王(ざおう)山へ行き、午後四時ころ帰宅。
 九日、今日、酒五番火を入れる。昼過ぎに板柳(いたやなぎ)村(現北津軽郡板柳町)〓の亭主と尾上(おのえ)村(現南津軽郡尾上町)西谷(にしや)の後家(〓の妹)が、嶽温泉に入湯の帰途に立ち寄る。その後、私は老人の道益を誘い、酒・肴を持参して愛宕山(あたごやま)の橋雲寺(きょううんじ)(現中津軽郡岩木町)へ参詣し、豊楽亭(ほうらくてい)へあがって周囲の景色を眺望しながら酒を汲みかわし、午後四時過ぎ帰宅。
 十日、このごろ漁獲が多く、下前(したまえ)(現北津軽郡小泊(こどまり)村)より新鮮な鰯を売りにきた。昨日、弘前城下へ金頭(かながしら)が多く出まわり、我が家でも買う。長三郎の娘が、二度離縁の後に玉田善兵衛次男へ嫁入り。
 十一日、兵司の悴の一周忌につき妻参上。
 十二日、田屋の法事へ悴を遣わす。
 十三日、はた、血痰を吐いたので、小山内医師より薬を貰ってくる。その後、〓・〓を訪ね、さらに大道寺家へ参上し、寝酒を相伴して午後八時過ぎに帰宅。
 十四日、このごろ、新鮮な鯛や金頭(かながしら)が多く出まわり、調理して食べる。
 十五日、午前八時過ぎ弘前へ出て、在府町(ざいふちょう)の川越家、さらに〓・〓を訪ねて午後八時過ぎ帰宅。
 十七日、鰺ヶ沢より弘前に来ていた〓の忠介が午後四時ころ訪宅し、今晩泊まる。
 十八日、今日、一一代藩主津軽順承(ゆきつぐ)が帰国。着城の行列をみるために、悴・与三郎・良三郎・きよとともに城下の本町(ほんちょう)へ行く。悴は〓へ泊まり、自分は帰宅。それにしても藩主は衣服を倹約しているのに、下々(しもじも)の者は規制が出されても守らず奢侈になっている。
 十九日、今日午前十時過ぎ、正阿弥の兄悴が、江戸から帰ってきた〓兄と〓良七・熊七を連れて愛宕(あたご)(橋雲寺(きょううんじ))へ参詣に行き午後四時ころ帰ってきた。日が暮れて良七・熊七・正阿弥の兄は帰ったが、〓兄は一泊した。
 二十日、〓兄は午前十時過ぎ帰った。乗鞍のついた迎えの馬に乗って行ったが、乗鞍は藩士以外は許されていないはずで、咎(とが)められないのだろうか。
 二十三日、居間の炉を開く。
 二十四日、弘前八幡宮神輿の通行を拝見。九月下旬の通行は大変珍しい。それは藩主の帰国が遅くなったためである。
 二十七日、町年寄松山源三郎の妻の妹が、親類樋口栄吉の息子と婚姻につきお祝いを差し上げる。
 二十八日、大道寺様の妹が三度離縁したが、このたびは平沢健吉と縁組が決まり、お祝いを差し上げる。
 
 以上のことをまとめると次のようになる。
(1)金木屋の田圃の田植えと稲刈りの様子。酒の醸造。

(2)掛かりつけの医者で健康管理。

(3)海から遠い地域のため、新鮮な魚―鰯・金頭・鯛などの購入に関心が高かった。

(4)虫送り雪売り宵宮の様子、寺社への参詣とその様子を記している。弘前八幡宮神輿行列の様子の中で、衣服規制が町人らに守られず奢侈になっていること、町人が乗鞍をつけた馬に乗ってよいのか、この二点が指摘されていて、封建社会の弛緩の実態が知られる。

(5)親類との交際―婚姻のお祝い、法要への参列。

(6)家老大道寺家との交際―江戸から帰国の際の出迎えと土産の頂戴。寺社参詣へのお供。婚姻祝い、法要への参列。栗の贈呈。

(7)友人との交際―友人とお互いの訪宅。婚姻祝い・出産祝い、法要への参列。

 一般の商人とは異なる豪商ではあるが、金木屋の日記を通して、町人の生活を垣間(かいま)見ることはできるであろう。次に津軽領の町人の生活を「国日記」によって断片的ながらみることにしたい。