弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

通史編3(近世2)

新編弘前市史 通史編3(近世2)

第6章 維新変革と藩体制の解体

第三節 藩政改革と藩制の終焉

二 戦後の経済政策

(二)青森商社と弘前

青森商社の活動の具体的内容は、次の三点にまとめることができよう。その第一は領外産物資の買い付けである。たとえば、明治二年九月二十三日に今村九左衛門の手船(てぶね)三艘が商社の物品を搭載(とうさい)して青森に入港したが、品目は玉砂糖・白砂糖・生蝋(ろう)・晒(さらし)蝋・半紙・備後表・鍋類・瀬戸物および塩一〇〇〇俵などであった。これらは滝屋金沢屋河内屋の蔵にいったん収められ、弘前側加担商人の到着を待って売りさばかれることとなった。また、今村の息子勇吉郎が秋田・庄内・越後へ出張し、米・酒・籾(もみ)などを買い付け、雇い船二艘で庄内米一二〇〇俵を青森廻漕(かいそう)することとなった(「家内年表」明治二年九月二十三日条)。当時、青森の商人たちは戊辰戦争の軍費負担により著しく衰微しており、町内の商業活動は資金が不足して、とても大規模な買い付けなどできる状態ではなかったが、藩の資金拠出が今村のような活動を可能にさせたのであった。ただ、この年は諸物産は払底(ふってい)していたが、箱館戦争の影響で上方との流通が途絶(とぜつ)しており、また凶作だったため注文殺到とはいかず、収支は後述のように赤字となっている。
 活動内容の第二は領内産物の買い入れである。中心は津軽半島の三厩(みんまや)(現東津軽郡三厩村)・今別(いまべつ)(同今別町)産の昆布であり、同地の昆布は従来八〇〇両の前貸しを受けて領外船に売却されていた(浅倉有子『地方史と近世社会』一九九九年 清文堂刊)。それを商社が九〇〇両と米三二七俵を前貸しすることで、収穫量の半分を商社にまわす契約をとりつけた。当初、明治二年の収穫量は三〇〇〇石~四〇〇〇石と見積られていたが、暴風雨により昆布が流され、最終的には一六〇〇石にとどまったものの、うち約一〇〇〇石が商社に売却された。昆布は俵物に仕込む産物として主要な輸出品であり、滝屋も積極的に商品開発を進めていたが、商社設立により、より大きな規模でその事業が引き継がれることとなった。
 この動きと付随(ふずい)して注目されるのが、翌三年に開始した藩による三厩開発および十三湖港口改修工事である。三厩は津軽半島の先端に位置し、松前十三(じゅうさん)・鰺ヶ沢(あじがさわ)・深浦(ふかうら)等の西海岸諸港と連結し、青森港とつながる要地であったが、険しい山間部にあるため、陸路が不通で甚だ便が悪かった。よってここに道路を開削(かいさく)しようというのである。また、十三湖岩木川舟運(しゅううん)の海の玄関口であり、津軽半島の新田地帯と密接につながっていたが、年々土砂(どしゃ)が堆積(たいせき)し、藩政時代からもはや港湾としての機能に大きな限界を抱えていた。そこで、藩は新たに水戸口(みとぐち)を開いて、物資流通の円滑化を図ろうとしたのである。この開削に要した労働力は延べ一〇万人といわれ(『津軽承昭公伝』)、西海岸と青森および津軽半島内陸部の連結という観点に立てば、これらの大規模工事は単発的事業として行われたのではなく、青森商社の活動と深くかかわっていたといえよう。
 活動の第三の柱は松前産物の買い付けと、それを円滑化するために蝦夷地で場所(漁業生産を行う生産の場)経営の可能性があるかを探ることであった。明治二年九月に松前藩が従来の場所請負制(うけおいせい)を廃止すると、同二十三日に青森側商人の長谷川与兵衛大木屋円太郎近江屋弥兵衛が弘前に召集され、松前蝦夷地での鯡場(にしんば)経営の調査を命じられた。この時期、津軽領からは二〇〇〇~三〇〇〇人に上る出稼ぎ人蝦夷地の鯡場労働に従事していたが、蝦夷地の場所経営者は深刻な資金難に陥っており、出稼ぎ人たちの前借りにも応じられない状態であった。そのため彼らは藩に借金下付を願い出ていたが、その額は二万両余にもなっていたという(「家内通観」明治二年九月二十三日条)。そこで、藩は青森出稼ぎ人に多くの「仕込(前貸金などの貸与)」をし、場所経営の実態に詳しい長谷川ら三人の商人に調査を命じ、青森商社を経営中核に据えようとしたのである。
 これを受けて、青森側商人は同年十月に大木屋円太郎近江屋弥兵衛と三厩の商人安保(あんぽ)正兵衛を松前・江差に派遣し、商社が場所の仕込みに当たって、出稼ぎ人らが場所経営者に借金がないかどうか確かめ、もしあった場合はどのようにするか交渉に当たらせた。その結果、松前・江差の経営者がいうには、漁民らが弘前藩から借金をしたからには、その者たちの荷物(今年分の所得などの可処分財産)を取り上げても一向にわないし、そのうえなお余分がある者から松前・江差の経営者が返済分を取り立てるということで決着をみた。
 こうして、翌三年正月には西蝦夷地古平(ふるびら)(現北海道古平郡古平町)の数ヵ所に場所が設定され、出稼ぎ人たちへの貸付金の貸与や、米・味噌・必要物品をはじめとする本格的な準備がなされ、長谷川・大木屋・近江屋・安保ら四人が持ち場の責任者とされた。また同月、青森蝦夷地との連絡役として、箱館の商人秋田屋(芦野)喜左衛門(後に津軽屋三右衛門と改名)が御用達商人に任命された。秋田屋は弘前藩が蝦夷地警備についていた寛政~文化年間に藩の御用達であったが、その後没落し、この時期には二万両の借金を背負っていたが、藩ではそれを肩代わりし、かわりに物資の調達や売却などを担当させた。藩の待遇は破格のものといってよいが、場所経営には何といっても地元の事情に精通している者が必要であり、いかに藩が積極的に場所経営を考えていたかがわかるケースといえよう。