弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

通史編3(近世2)

新編弘前市史 通史編3(近世2)

第6章 維新変革と藩体制の解体

第一節 幕末の政局と民衆

一 幕末の政局と弘前藩

(二)近衛家警備と大政奉還

周知のように、ペリーが来航した嘉永六年(一八五三)を契機に幕末の政情は急展開し、列強に押されて開国の途をたどろうとした幕府は、これを嫌う朝廷や、朝廷を後押しすることで自己の発言力を増そうとした西南雄藩を中心とする尊皇攘夷(そんのうじょうい)派と鋭く対立した。
 表10は、藩主承昭(つぐあきら)が襲封した安政六年(一八五九)当時から明治元年までの中央政局の流れであるが、神奈川・長崎・箱館などを開き、開国に反対する勢力を弾圧した大老井伊直弼(いいなおすけ)の安政の大獄、彼を暗殺した桜田門外の変以降模索された公武合体運動尊皇攘夷派の活動とそれを抑止しようとする者による諸事件、孝明(こうめい)天皇死去に伴う倒幕の動き等々、表中の多くの政変や戦闘、事件は都を直接の舞台として起こり、市中の治安は非常に混乱した。
表10.幕末政局の流れ(安政6年~慶応4年1月)
年 号西暦月 日出   来   事
安政6年18595月28日幕府,神奈川・長崎・箱館を開港
8月27日徳川斉昭を永蟄居,同慶篤に差控え,同慶喜を隠居謹慎処分とする
10月7日橋本左内・頼三樹三郎処刑(このころ安政の大獄)
万延元年18603月3日大老井伊直弼,水戸・薩摩浪士により暗殺(桜田門外の変)
11月1日皇妹和宮を将軍家茂へ降嫁することを発表
文久2年18621月15日老中安藤信正,水戸浪士に襲われ負傷(坂下門外の変)
4月23日薩摩の過激浪士,都寺田屋で弾圧される(寺田屋騒動)
7月6日徳川慶喜,将軍後見職に就任
8月21日島津久光の行列,神奈川で英国人を殺傷する(生麦事件)
文久3年18633月4日将軍家茂,都に上洛
5月10日長州藩,関門海峡通過の米船に砲撃
8月18日公武合体派クーデター,三条実美ら長州に走る(8月18日の政変)。七卿都落ち
元治元年18643月27日藤田小四郎ら筑波山で挙兵(水戸天狗党の乱)
7月19日禁門の変起こる
8月2日第一次長州征伐
慶応元年18651月2日長州藩高杉晋作ら馬関を攻撃,占拠
慶応2年18666月7日第二次長州征伐開始(9月撤兵)
7月20日将軍家茂没
12月25日孝明天皇
慶応3年18675月21日板垣退助・中岡慎太郎・西郷隆盛,都で倒幕の密約
10月3日土佐藩主山内容堂,大政奉還の建議
10月13日薩摩藩に倒幕の密勅,長州藩主の官位復旧
10月14日長州藩に倒幕の密勅。将軍徳川慶喜大政奉還を請う(翌日許可)
12月9日朝廷王政復古の大号令。小御所会議を開催
慶応4年18681月3日鳥羽・伏見の戦い勃発。戊辰戦争開始(~明治2年5月)

 そのため、朝廷は諸大名に対して都守衛を命じ、弘前藩には元治元年(一八六四)四月から六月にかけて藩主承昭の上洛と、警備兵の派遣が下命されたが、これに先立って藩では近衛家の要請を受けて文久三年(一八六三)六月、隊長五十嵐所吉・小山庄五郎ほか九人の藩士が親兵として選抜され、国元を出立した。出発に際して一行は承昭より「異変があった時は身分の上下によらず、戦功に応じて必ず恩賞を与える。また戦死した者の家督は間違いなく家族に約束する」との自筆書を下付されており(資料近世2No.四六四)、都の情勢を考えると、さながら戦場に出陣する覚悟での旅立ちであったろう。この警備兵は七月十六日に都に到着し、即座に藩の留守居役から近衛家朝廷に報告が届けられた。また、八月一日に一行は近衛家に参殿し、隊長五十嵐所吉は当主忠熈(ただひろ)と対面を許されている。
 近衛忠熈は安政四年(一八五七)正月に左大臣に就任し、翌五年には内覧(ないらん)(天皇がみる前に公文書を内閲して処置できる地位)となったが、時に井伊直弼による安政の大獄に巻き込まれ、同六年三月に左大臣を辞職、落飾(らくしょく)(髪を剃ること)謹慎し、翆山(すいざん)と号した。その後、文久二年(一八六二)四月に参朝を許され、関白内覧に再任されるが、翌三年正月には尊皇攘夷派に排斥されて関白辞職に追い込まれ、警備兵が上洛した時点では公私ともに低迷し、身辺の危機にもさらされていたのである。
 以後、警備兵は三条実美(さねとみ)の指揮下に入り、鳳輦供奉(ほうれんぐぶ)(天皇の輿を守衛すること)、公家門守備などに従事していったが、九月二十六日にいったん帰国の朝命が出された。しかし、近衛家をめぐる情勢が切迫していたため、彼らの滞在は継続され、戊辰戦争で国元に引き揚げ命令が出される明治元年(一八六八)まで続いた。このため、元治元年(一八六四)七月に勃発した禁門(きんもん)の変に際しても、五十嵐所吉隊は近衛忠熈を守衛して都郊外に避難している。このように、最も緊迫した幕末政局の前面に立っていた弘前藩士もいたのである。以後、警備兵は数次にわたって増員されていったが、国元とは異なり、警備兵は都で相当の緊張を強いられた。

図42.禁門の変の舞台となった蛤(はまぐり)御門

 慶応三年(一八六七)二月、警備兵に同行を命じられた鍛冶町の惣十郎(そうじゅうろう)、亀甲町の多助ら雇小人(やといこびと)(雑役夫)五人は夜に長屋を抜け出して、下加茂(しもかも)村の造酒屋に押し込み、刀を抜いて強盗に及んだ。現地の指揮官は何とか穏便に処置しようとも考えたが、都という対外的にも重要な場所で藩の汚名が広がることを恐れて、三月には五人の者を手討ちにしている(資料近世2No.四六八)。処罰を伝えた手紙には、このころ都では宮家・堂上方といえども押し込みの類が絶えないと嘆いており、治安の悪化は著しかった。
 前述のように、藩主承昭の上洛は元治元年(一八六四)とされたが、前年の文久三年(一八六二)に起きた八月十八日の政変以来、中央政局が一層混迷の度合いを深めると、開港地箱館を目前に控えた弘前藩では、同地の警備を第一と考え、承昭の病を理由に上洛を見合わせ、幕府にも了承を得ていた。ところが、禁門の変の急報に接し、上洛を無視しえなくなった承昭は、一一五〇人に上る藩兵を随行して、元治元年十二月二十三日に江戸を発して都に赴き、翌二年一月九日には旅装のまま近衛家に参殿した。続いて承昭は十五日に会津容保(あいづかたもり)に替わって御所の南門警備の朝命を拝受し、二十一日に参内(さんだい)を果たした。ただ、承昭が自ら陣頭指揮するこの都警備は長くは続かず、同年四月には帰国が許された。弘前藩としては箱館蝦夷地警備に藩力を挙げねばならず、そのうえ、都守衛に費や人数を差し向ける余裕などなかったのである。承昭が都に滞在した間、たびたび近衛家に伺候(しこう)していたことが「雑事日記」の中に散見するが、時にはそれが深更(しんこう)にまで及んでおり、こうした直接的会談を通じて両家は一層関係を深めていったと推測される。