弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

通史編3(近世2)

新編弘前市史 通史編3(近世2)

第5章 弘前城下と都市住民

第三節 祭礼と娯楽

四 寺社境内のにぎわい

(二)富籤興行

 富籤(とみくじ)は、中世に相互救済を目的に組織された頼母子講(たのもしこう)に始まるといわれる。近世に入ると、番号が入った富札を売り出し、発行と同数の番号札を富箱に入れ、きりで突き刺して取り出した札を当たり番号とする公開の抽選を行って当選者に賞金を与えた。幕府は、元禄年間(一六八八~一七〇三)に、流行する富籤を禁止したが、他方、寺社堂社の修復費を目的とする御免富(藩が公式に許可した富籤)を許可した。しかし、その後も江戸・京都・大坂で盛んに行われ、天明年間(一七八一~八八)、一枚の札料が一匁五分に対し一〇〇両、まれには一〇〇〇両当たるものもあり、庶民の間に流行するのを止めることはできなかった。各大名領でも寺社の助成を目的とする富籤が行われたが、特産品の入札・宿場入費の助成から、港・芝居小屋修復といった珍しい例もあった。
 津軽では富籤を弘札(ひろめふだ)、富弘札(とみひろめふだ)と呼んだ。慈雲院が文化九年(一八一二)に行った富籤が領内で最初であった。記録によって違いがあるが、札料が一枚四匁とも五匁ともいい、発行札は七〇〇〇枚とも一万枚ともいい、六五〇〇枚が売れた。五〇番までに賞金が出て、最高は三〇両とも五〇両ともいい、最低は二〇〇匁であった。八月十五日には貴賤の群集が境内で見物するなか、寺社方・徒目付が立ち会って抽選が行われ、一番は鰺ヶ沢米蔵の人夫与吉、二番は茂森町の地謡師成田六左衛門に当たった。
 この年十一月には報恩寺十一面観音堂(現袋宮寺)、十二月には白狐寺でも富籤が行われた。翌十年には一二回と富籤の回数が飛躍的に多くなった。興行主は黒石上ノ坂(かみのさか)宮・大円寺・大行院茶臼館(大行院配下の修験)・本行寺東照宮神主山辺丹後心応院法立寺耕春院高徳院・善知鳥(うとう)宮・諏訪宮であった。初めて富籤が行われた青森善知鳥宮諏訪宮には、多くの見物人が集まった。

図31.袋宮寺の富籤

 この後、文化十一年(一八一四)から文政二年(一八一九)まで、富籤に関する記録が見当たらない。これは、富籤は寺社からの申請によったが、あまりの流行に藩庁が許可を与えなかったものとみられる。
 富籤が行われなくなると、代わって取除無尽(とりのきむじん)が流行した。無尽講は、抽選で当たった者に金が渡るが、当たった者はその後も金の払い込みを続ける。取除無尽は、当たると退会して掛け金を納めないものであった。藩庁は、文化十一年八月十一日に幕府の布令に基づきこれを禁止した。当たった者の退会を認めず、無尽講の会主が掛け金を預かり、残金は二〇ヵ月をかけて講員の者へ返済させるものであった。
 文政三年(一八二〇)四月、慈雲院は、富籤の発行を二ヵ年のうちに三回行うことを再度願い出た。その理由は、他の寺院と違って檀家のないこと、堂の内部仕上げ、玄関等の修理、弟子の勉学経費の捻出が目的であった。
 翌四年、慈雲院は益金一〇貫文で田中村の郷士工藤太七郎の田地を買い上げ、一年に米五〇俵を納める契約を交わした。ところが、七俵の納入しかなかったことからもめ事になり、藩庁が両者を呼び出して慈雲院へ代金を返却させた。慈雲院は、この金を耕春院の普請料と同じように御用達商人へ預け、その利息で寺務に充てたいとした。藩庁は前例にしないとしながらも、この二年間に限り利息一歩で預かるように御用達商人へ命じている。耕春院は、文政元年(一八一八)に焼失しており、同四年に富籤発行が認められ、慈雲院耕春院が富籤の益金を金融に回していたのである。
 貞昌寺は、文政八年(一八二五)から三年間に一五回の富籤発行が認められた。これは、文化七年(一八一〇)に焼失し、再建が成らなかったためである。この時、益金は藩庁へいったん納め、改めて建築費は藩から出すという形をとった。すでに、藩の財政は、為信の生母の菩提寺として寺領六〇石を寄進し、浄土宗僧録所にしている貞昌寺の再建ができず、富籤発行に頼っていることが理解できよう。
 天保元年(一八三〇)とみられる黒石下ノ坂(しものさか)両社の富籤は、黒石上町(かんまち)の沢屋から弘前・黒石両町へ発売された。
 天保九年(一八三八)、修験心応院(しんのういん)から二回の富籤発行願いが出された。この時、藩庁寺社から富籤発行願いが出てきた時は、その順番から一回は取り消すこともありえると回答しているところをみると、他の寺社との調整を行っていたことがわかる。
 芝居富は、文政十二年(一八二九)に四回、翌年に四回行われた。広居富吉の申請により、町奉行寺社と同じ取り扱いをした。これにより茂森町の芝居小屋を修復し、天保元年(一八三〇)正月から芝居が再演され、同十年にも芝居富が行われた。このように、全国的にも珍しい芝居富が認められたのは、一〇代藩主津軽信順の芝居好きによったものとみられる(津軽における富籤については、山上笙介『津軽の富籤』一九七八年 津軽書房刊 に多くを依拠している)。