弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

通史編3(近世2)

新編弘前市史 通史編3(近世2)

第5章 弘前城下と都市住民

第一節 城下の構造

二 城下町人の役負担

それでは、城下町方そのものが持つ経済力はどうだったのであろうか。江戸時代前期には表4からわかるように、家持ち町人には城下の道普請などに使役される町人足の負担が税として義務付けられていた。しかし、この負担は町人にとって過重であったらしく、延宝七年(一六七九)「大組頭支配七組分御町役人足出帳」(前掲『弘前城下史料』上)には天和三年(一六八三)のものと思われる点羽(てんぱ)(貼紙)が付けられており、それによれば、家の軒数減少の割合以上に町人足役の数が減少しており、当時すでに町人足役の負担は十分にはできなかったことが判明する。表4にみえる七組の総人足負担の合計は五万二五七九人であり、月平均約四四〇〇人弱、一日平均約一五〇人弱という過重なものであった。そのため軽減化が図られた。「上役」に変化はないものの、「中之上役」から「下之下役」までそれぞれ一四・四パーセント、二〇・二パーセント、三〇・六パーセント、四七・〇パーセントの減少があった。「国日記」享保元年(一七一六)正月二十九日条にある「弘前惣名主書付」では、全体で二万人から三万人の町人足を動員でき、延宝七年に表4の改定後人数のように町人足役が決められたという記載になっているが、町人足役の規定については延宝七年当時は表4の改定前人数のとおりであった。なお、表4の七組で上役を負担していたのは、親方町の計四六軒(実際には三八軒と四分の三を負担)、土手町の弥次右衛門組二〇軒・同町仁右衛門組二二軒の計四二軒(実際には三三軒半と三分の一を負担)、横町の伝左衛門組一三軒・同町作右衛門組一五軒の計二八軒(実際には二六軒分を負担)だけであった。表4に書き上げられている七組の惣家数は七六三軒であり、一〇六軒(一三・九パーセント)が上役を負担していたことになる。
表4.弘前城下の町人足役(1軒あたり)
改訂前人数改訂後人数
上 役96人96人
中之上役90人77人
中 役84人67人
下 役72人50人
下之下役66人35人
備 考 親方町・土手町・横町・亀甲町・紺屋町・新町・重盛町支配分のみ。
 延宝7年(1679)の「大組頭支配七組分御町役人足出帳」より。
 貞享3年(1686)3月13日の記事「要記秘鑑 廿三上」の町被仰出之部より。

 一方、表5からわかるように町自体にも上・中・下のランク付けがなされており、領内の村々に村位が付けられたのと同様なことが城下においても実施された。上役の町は富裕な商人の多い豊かな町であり、下々役の町は反対に経済力の弱い町といえよう。下々役の町には「新」の付く町が多く、町そのものができてから日の浅いことも関連があるものと考えられる。表4と表5を関連付けてみると、表5の上役には親方町と土手町が入っており、表4の横町とは東長町であろう。
表5.弘前城下各町の上中下役
町    名
上 役親方町(但松井四郎兵衛前より土手坂の上まで,当時は本町といった)
土手町(坂下より大橋まで)
東長町(田村和右衛門上屋敷より笹森町入口まで),上長町
中之上役本寺町(土手より上る一丁目)
中 役下長町,土手町(土手町大橋より同新土手鍛冶町境まで)
東長町(笹森町へ入口東角より和徳町坂の下まで)
亀甲町,紺屋町,新町,茂森町,塩分町
下 役本銅冶町・東銅冶町,本寺町(二丁目・五丁目)
鞘師町(三丁目・四丁目),黒石町坂下,五十石町後袋町
山伏覚勝院罷在候町(当時角仙町),川原町
西大工町・本大工町・東大工町,東桶屋町・西桶屋町,鍛冶町
土手鍛冶町より猫右衛門町(元禄16年2月11日に猫右衛門町を松森町と,新町を富田町と唱えるように仰せ付けられた),和徳町
下々役笹森町,駒越新町,茂森新町,東長町北南横町,新寺町
備 考要記秘鑑 廿三上」の町被仰出之部より。
貞享3年(1686)3月13日の改訂。

 ところが、元禄十四年(一七〇一)六月には町人足負担が地子銀(じしぎん)納へと変化する。「国日記」正徳六年(一七一六)正月二十九日条によれば、表6のように地子銀が設定され、城下の町々はほとんどが地子銀を上納し、このほかに町人足を使する時は、日雇銭(ひようせん)をその都度徴収して賄(まかな)う方式が採られたのである。地子銀で雇した町人足小遣(こづかい)と称され、約一〇〇人が常に抱えられたので「百人小遣」と呼ばれた。百人小遣は支配頭二人のもとに小頭五人、小遣一〇〇人が所属し、給料は小頭が切米一二〇匁三人扶持小遣は一〇〇匁二人扶持であった(「国日記」元禄十四年五月二十八日条)。百人小遣になった者は領内村々の出身者が多く、城下出身者には町はずれの者が多かった。
表6.弘前城下の地子銀(1軒あたり)
上 役52文目8分
中之上役40文目  4厘
中 役34文目8分
下 役21文目5分
下之下役11文目5分5厘
備 考元禄14年(1701)6月朔日の規定
注)要記秘鑑 廿三上」の町被仰出之部より。

 町役地子銀納は正徳三年(一七一三)正月に、元の人足役の徴収に戻ることになる。それは、地子銀徴収に当たって藩当局の出費が大きいという勘定奉行郡奉行の提言があったからである。その際の人足役の割り付けは、貞享三年(一六八六)の規定で行うことになったが、町端の北横町・南横町・紙漉町・楮町などは今までと変わりなく地子銀を上納することに定められた。また、藩から扶持米などを支給されている町扶持人も、人足役ではなく、地子銀を上納することに定められた(「国日記」正徳六年正月二十九日条)。ちなみに、正徳元年の「町支配分限帳」(資料近世1No.一一五三)によれば、当時の町扶持人は高一〇〇石の町年寄松井四郎兵衛松山善次の二人のほか、俵子五〇俵の町御買物役人が二人、五人扶持酒屋改役人が二人、板反師二人、御弓師二人、御矢師二人、御鉄炮屋四人、御鍛冶七人、御能役者三七人、目明一人など計一四一人に及んでいる。表7がそれであるが、同役でも扶持に差がある理由は不明である。
表7.弘前城下の町扶持人
町扶持人扶  持人数
町年寄100石2人
町御買物役人50俵2人
酒屋改役人5人扶持2人
板反師5両3人扶持2人
御弓師10両5人扶持
30俵
2人
御矢師7両4人扶持
30俵
2人
御鉄炮屋
40俵
20俵(2人)
15俵
4人
御鉄炮台屋2両2歩2人扶持1人
御鉄炮金具屋30俵2人扶持
20俵
2人
御鑓屋50俵
3両4人扶持
2人
御具足屋50俵5人扶持
30俵
25俵
20俵
5人扶持
3人扶持
6人
御刀鍛冶30俵4人扶持
25俵
2人
御研屋50俵
30俵
2人
御金具屋30俵2人扶持
30俵(2人)
3人
鞘師25俵1人
塗師7両5人扶持
5両5人扶持
4両2人扶持
30俵
15俵2人扶持
3両2人扶持(3人)
8人
蒔絵師30俵
6両4人扶持
2人
御仕立屋30俵
7両5人扶持
15俵2人扶持(2人)
4人
御染屋40俵
5両3人扶持
2人
御釜屋7両7人扶持
4両2人扶持
2人
御鋳物師3人扶持1人
御鍛冶30俵
25俵(2人)
20俵(4人)
7人
薬鑵屋3両2人扶持2人
指物屋30俵3人扶持1人
木地挽30俵2人扶持
3人扶持
2人
張付屋5両5人扶持
20俵
2人
畳屋40俵
5両2人扶持
3両2人扶持(2人)
20俵2人扶持(2人)
20俵(2人)
17俵
9人
御蝋燭屋30俵
金1枚5人扶持
3両2人扶持(2人)
20俵2人扶持
5人
御油屋3両2人扶持1人
御庭木作20俵5人扶持1人
紙漉30俵1人
御切付屋40俵
30俵
2人
時鐘撞銭100目2人扶持(2人)
4人扶持(4人)
6人
牢守2両2人扶持2人
瀬戸物30俵1人
御豆腐屋20俵1人
町年寄手付并小遣銭100目2人扶持(2人)
銭50目2人扶持(4人)
6人
目明10俵1人
御能役者15俵(14人)
10俵(18人)
5俵(5人)
※俵には4斗入・3斗5升入・3斗入があるが、注記しなかった。
141人
注)正徳元年(1711)「町支配分限帳」(弘図津)から作成。

 正徳三年(一七一三)五月の城下町役の「覚」(前掲「正徳期町方屋敷割裏書記録」)では、一年に人足九六人を負担する上役は一四八軒余、以下、七七人を負担する中の上役は二二軒半、六七人を負担する中役は四一〇軒余、五〇人を負担する下役は四〇四軒余、三五人を負担する下々役は三一九軒余であった。このうち、名主・月行事・町年寄小遣・御屋敷・新田会所・能役者屋敷・人馬請払所・鍛冶役所・具足役所などが役負担を免除されている。このため、人足役負担の合計は五万九〇七二人余、町扶持人地子銀の合計は五貫六六一匁余、五匁・七匁・一〇匁・二五匁の地子銀を払わなければならない町の地子銀の計は四貫九三九匁余で、合計一〇貫六〇〇匁余にのぼった。以降、弘前城下の町人は居住地によって人足役か地子銀のどちらかを負担していったのであろう。
 さて、城下の有力な商人たちには藩から臨時の運上(うんじょう)金や冥加(みょうが)金が賦課される場合があった。正徳三年(一七一三)五月に五代藩主津軽信寿(のぶひさ)は、富山藩主前田利興(としおき)とともに幕府から江戸芝増上寺の方丈造営を命じられ、国元に普請御用金の上納を命じた(「国日記」正徳三年閏五月七日条)。それによれば、丹波屋清三郎をはじめとする一六五人が一〇五〇両を割り当てられ、納入した。また、安永四年(一七七五)五月の甲州川々普請手伝では、上方の金策が不調に終わったため、国元茨城屋安右衛門など四人の富商に合計一万五〇〇両の上納金を命じる一方、弘前・青森深浦碇ヶ関などの商人に四〇〇〇両以上の米銭を要求している。この時、城下町方への御用金割当は一三〇〇両であった(同前安永四年六月十七日条)。このように幕府から津軽弘前藩に普請役賦課されると、御用金冥加金城下町方や領内の商人に強制的に割り当てられたのである。