弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

通史編2(近世1)

新編弘前市史 通史編2(近世1)

第4章 幕藩体制の動揺と民衆

第五節 安政の開港と蝦夷地警備

二 沿岸警備と蝦夷地警備

(三)蝦夷地分領体制と西蝦夷地の経営

商業や貿易の面からみると、通商条約締結による外国貿易開始は、津軽地方の人々にとって幕府・諸藩、そして外国商人を取引の相手にできることになり、商売上大きな好機が到来したといってよい。この好機を活かすことができたのであろうか。
 安政三年(一八五六)四月、青森廻船問屋滝屋善五郎は、同じく青森廻船問屋である藤林源右衛門とともに、箱館奉行所の御用達(ごようたし)に任命された。これは、寛政~文政年間の第一次蝦夷地幕領時代における同様の実績による任命であった。その後分領支配が開始されても、滝屋と藤林家は、箱館奉行所との間に物資の購入・輸送を通じて引き続き関係を有していた。また、分領諸藩は物資の集積地である青森に着目し、その商人たちを御用達として、物資の購入と輸送を担わせた。万延元年(一八六〇)、青森商人は、滝屋仙台藩、藤林家が会津藩、金沢屋が庄内藩御用達に任命された。滝屋仙台藩御用達として、船の調達や、渡海する藩士・物資の輸送、青森における藩士の旅館としての役割を果たしている。その一方で、滝屋はスッツの津軽弘前藩出張陣屋の入用品の一部を移送している。このように、幕末の青森商人は、箱館奉行所や蝦夷地分領諸藩が必要とする物資の供給面、また藩士や物資の輸送面において大きな機能を担っていた。
 一方、藩自体にも、他藩からの取り引きの照会や、蝦夷地での需要、さらに外国との貿易を見越した動きがみられるようになる。
 たとえば、仙台米を仙台と江戸津軽家の都合どおりに渡す代わりに、青森箱館蝦夷地勤番に必要な津軽米を受け取りたいという提案が仙台藩から津軽弘前藩にもたらされたり、会津藩が行っていた江戸廻米箱館蝦夷地の入用廻米の廻送を停止し、会津米を新潟で売りさばいた金をもって青森で米を購入し、江戸藩邸箱館蝦夷地に輪送しようという想が持ち上がった。これらの提案は、津軽弘前藩側が難色を示したため実現には至らなかった。津軽領の豊凶の差が大きいため、恒常的に米を供給することが困難であったことなどが、理由として考えられる。
 元治元年(一八六四)八月には、青森三国屋清兵衛が、藩の資金によって陸奥湾沿岸の久栗坂(くぐりざか)村(現青森市)大浦で製塩業を営むことを願い出た。この事業は翌慶応元年から藩の資金をもって、三国屋を責任者として開始されることになった。同二年には五〇〇俵、翌同三年には一〇〇〇俵の塩が生産され、滝屋が販売人となって、上方からの下り塩の八掛け程度の値段で売却された。蝦夷地における塩の需要を見越して、藩の支援による新たな製塩業が認可されたと考えてよいであろう。
 万延元年(一八六〇)二月、滝屋善五郎藤林源右衛門は、領内三厩昆布箱館からの輸出を計画して、藩の許可を求めた。前年六月に貿易が開始された箱館港の主要な輪出品は海産物であり、昆布、煎海鼠(いりこ)・干鮑(ほしあわび)などの俵物、スルメといった品目が、主にイギリス船によって中国市場に持ち込まれていた。なかでも昆布は圧倒的輸出額を誇っていた。三厩産の昆布移出もこのような中国貿易の情勢を念頭に計画されたもので、以後弘前藩内産の昆布は品薄の時を見計らって箱館に送られることになり、万延元年には一〇〇石分の輸送が計画されている。
 慶応二年(一八六六)十二月二十八日、藩は領内における藁(わら)製品の統制に乗り出した。この藁製品統制の趣意は、藁製品が輸出用の俵、また漁具として不可欠のものであることに着目し、藩によるこれらの商品の利益独占を図ったものである。しかし、この政策は農民と独占から排除された商人の反発を買い、翌年末に中止された。
 これらの状況からうかがわれるのは、海外貿易の開始を契機に、藩が箱館港の主要な貿易品である俵物に着目して、その原材料の一つとなりうる領内昆布の集荷や、俵を含む藁製品の独占集荷という新たな手法を展開させ、箱館貿易に対応しようとした姿である。
 一方で、外国人との商取引をめぐる混乱も発生し、藩役人の責任問題に発展した例もある。青森商人の大村屋庄蔵・西沢善兵衛らは、箱館の外国商人との間に材木の売買契約を結んだ。これは津軽産の材木のみならず、仙台・秋田両藩産の材木を取り込んだ契約であったが、この契約は、製品の品質を問題にした外国商人から一方的に破棄されたため、仙台・秋田両藩からの抗議を受け、津軽弘前藩箱館留守居役が辞任に追い込まれている。
 文久二年(一八六二)の青森町年寄の藩への建白では、次のように述べている。藩が松前蝦夷地を利をもたらす場所としてとらえているにもかかわらず、その地理的な利点を充分に活用しておらず、上方船が彼地に入港して多大な利益を得ている現状では青森は衰微するしかない。これに対抗するには、松前における夏の米価が、諸国の米相場と上方から米を載せてくる下り船の状況によって左右されていることに着目し、かつ津軽米が冬の米相場値段の決定権を持っていることを活かす。夏は損を覚悟で米を売却して米を廻漕する上方商人を駆逐し、冬場には大量の米を値で売却すれば、津軽領産の米が松前の米相場を決定でき、ひいては蝦夷地に対する青森の経済的優位を確立できるという想であった。青森並びに津軽地方の商業と産業の課題は、蝦夷地に対する地位の確立と維持であったといえよう。