弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

通史編2(近世1)

新編弘前市史 通史編2(近世1)

第4章 幕藩体制の動揺と民衆

第五節 安政の開港と蝦夷地警備

二 沿岸警備と蝦夷地警備

(一)沿岸警備の展開

前述のとおり文化四~五年の対ロ緊張を契機に、天保年間にかけて津軽領内の海防体制は徐々に整えられていたが、天保五年(一八三四)六月、領内袰月(ほろづき)海岸(現東津軽郡今別町)に異国人が上陸した。これが、津軽領異国人が上陸した初めである(『記類』下などを参考にした)。その後弘化四年(一八四七)には、平舘(たいらだて)海岸にアメリカ船とみられる船が接近し、異国人が上陸している。さらに嘉永元年(一八四八)三月二十日、四つ時(午前十時)ごろ、三厩沖に二千石積の和船に相当する大きさで、三本マストの異国船が姿を現した。三厩詰めの松前渡海準備人数が急遽(きゅうきょ)出張して海岸の防備を固めたところ、さらに九つ時(正午)ころ袰月沖に三本マストの異国船三艘が現れた。これらの異国船のうち、四艘は和船の「三千石積位」、一艘は「五千石積位」に相当する大きさだった。この異国船のうち三艘は二十日夜のうちにいずれかへ去り、翌日の暁には姿がみえなかった。また残る二艘のうち一艘もこの朝六つ半時(午前七時)ころに沖合へ去り、一艘は龍浜崎(竜飛崎)に向けて去ったという(嘉永元年三月二十二日付津軽弘前藩津軽順承届書『内閣文庫所蔵史籍叢刊 三五 弘化雑記・嘉永雑記』一九八三年 汲古書院刊)。

図195.国日記異国船出現記事
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 異国船出没の報が青森に伝わったのは来航当日のうちのようで、町は徐々に騒がしくなったという(「異国船一件」『青森市史』第九巻)。たまたま三厩勤番に赴く途中の隊が油川にあり、袰月に急行した。一方、弘前では二十二日、異国船来航のために常時準備している藩兵が出立(しゅったつ)した。さらに模様をみて後詰人数を出張させる手はずを整えた。二十二日の昼九つ時(午前十二時)ころから、再び五艘の異国船が六条之間(ろくじょうのま)村(六条間(ろくじょうま)村、現東津軽郡三厩村)から釡之沢(かまのさわ)村(釜野沢村、現東津軽郡三厩村)にかけての沖に停泊し、大筒を四、五度にわたって撃ちだしたため、三厩表にいた藩兵が備えを固めた。この報を受けた弘前表では二番手人数を翌日出立させている(嘉永元年三月二十四日付津軽順承届書)。二番手人数は「長持・小荷駄人夫ノ者幾万といふ限なく誠ニ百姓難渋有之」(前掲「異国船一件」)という状況だったという。人数についてはともかく、この派兵によって、人夫として動員された領民が数多くおり、非常に難儀した様子がうかがわれる。

図196.異国船の図
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図197.沖合に停泊する異国船

 警固の藩兵は、三厩詰めの物頭一手が六条之間村の浜先を、さらにその後詰めを勤める物頭一手が藤島村の浜先、弘前から派された一番手番頭一備が袰月を、またそのうちに含まれる先手者頭一手が舎利浜(しゃりはま)(東津軽郡今別町)先を固めた。引き続き派された二番手番頭一備は平舘に赴き、その方面を固める手はずとなった。
 さらに津軽弘前藩では津軽黒石藩にも指示して、平内領の海岸に固め人数を出張させた(嘉永元年三月二十八日付津軽順承届書)。これにつき、次のような届書が、四月十九日、当時江戸にいた津軽黒石藩津軽承保(つぐやす)から月番老中牧野忠雅(まきのただまさ)(一七九九~一八五八)に提出されている。この届書では、「海岸向固之儀」について宗藩から在所黒石の家来に通達があり、それを受けて物頭一手の人数を平内に派したことになる。津軽黒石藩の軍事指揮権は、幕府の旗本であったとき以来本藩である津軽弘前藩に握られていたが(第三章第二節一参照)、この折も、順承の指示を受けて黒石津軽家家臣が動いている。
 黒石藩海防態勢をみると、黒石から二〇人ほどの藩士が平内領の田沢村(東津軽郡平内町東田沢)に派されるとともに、平内領の領民一〇〇人ほどを雇って田沢村に詰めさせ、さらに黒石町在において五〇〇人ほどの人夫を確保して、危機に備えている(『黒石市史』通史編Ⅰ)。
 さて、異国船の様子をうかがうために、二十五日の朝、一艘の小舟に三人の者が乗り、異国船に漕ぎ寄せた。すると異国船から招き上げられ、双方手真似(てまね)で意志疎通を試みた。異国船の乗組員からは風向きが良くないため止まっているとの返答があった。三人が観察した船の様子は、それぞれの船が「壱艘者五千石積位、外四艘者弐千石位」で、漁船のようにもみえたという。乗組員数は大船が一〇〇人ぐらい、そのほかの船が三五、六人くらいずつ、さらに船底などにも隠れているように思われたという。頭分は笠のようなもの、そのほかの者は頭巾のようなものをかぶり、衣類は袖の付いた洋服で、布地は薄いあい色をしたラシャのようなもの、胸前をボタンでとめ、ズボンをはき、頭分のものたちは上着の下に「赤き衣類」を着ていたという。「赤き衣類」とはチョッキのことであろうか。身長は「身之丈六尺位」、無だったという。船内には、大砲が一挺、碇が二つ、または「大筒・小筒」が一挺ずつあったが、船の大きさからみてさらに隠蔽(いんぺい)しているとも考えられたという。
 そのうち異国人は手真似でこの地域の長に会いたいと希望したようだったので、小舟に六人を乗せたところ、外の船からも小舟が下ろされたため、こちらにも人数をわして海岸に連れてきたという。こうして藤島村の海岸に上陸した異国人は総勢二九人だった。

図198.異国人上陸の図

 上陸した彼らに対して、手真似で漂着の事情を尋ねたところ、彼らは手真似で順風が吹かないため留まっていると答えた。つぎに鉄砲発射の理由を問いただしたところ、彼らは知らないといい、「頭を振り恐怖」したという。物欲しそうな彼らに薪水を差し出したところ、異国人は頭を振って否定の意を示し、彼らの頭分と思われる人物が、酒を入れるようなものを差し出して飲む真似をしたので、二斗樽に入った酒を五樽与えたところ、さらに物を欲しがるので、「味噌七貫弐百目入五樽」を与えた。改めてすぐに出帆するよう諭(さと)したところ、謝意を示した彼らは東風が吹きしだい出帆すると答えた。
 異国人たちはもとの船に漕ぎ戻り、夕七つ時(午後四時)過ぎに五艘とも西に向って出帆した。さらに、物見船を差し出して遠見を試みたところ、二十六日の暁までには完全に姿を消したという報告があった(嘉永五年三月二十八日付津軽順承届書)。