弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

通史編2(近世1)

新編弘前市史 通史編2(近世1)

第4章 幕藩体制の動揺と民衆

第四節 天保の飢饉と藩政

一 天保の飢饉と農村

(二)人返しと人別把握

この面改めによって報告された領内の総人口は、「元治元年御郡内人別宗旨分并数諸工諸家業牛馬船総括牒」(弘図八)によると、二五万二四六八人(男一三万〇〇〇九人・女一二万二四五九人)である。現在と逆に男性人口が多いが、これは江戸時代一般に共通する。ただし、青森など都市部では女性人口の方が上回っている。なお、元治元年(一八六四)九月に幕府に提出した「陸奥国津軽郡伊達郡之内人別帳」(国史津)では、津軽郡人口は二二万七〇四二人とある。二万五〇〇〇人ほど少なくなっているが、この差は武家人口を引いたものと考えていい。総人口の内訳は弘前三万七二二三人、在方一九万三六五八人、九浦が二万一五八七人である。他領に出稼ぎに行っている者は男女合わせて五〇四一人、うち九浦が一三二〇人である。人口の比率以上に九浦では出稼ぎ人の数が多く、老人・子供を除いた生産者人口(十六歳~五十九歳)に限ると、一〇・四パーセントに達する(本章第五節表63、坂本前掲論文)。蝦夷地に対峙(たいじ)し、出稼ぎの拠点となっていた九浦の性格をうかがわせる。

図187.元治元年御郡内人別宗旨分并数諸工諸家業牛馬船総括牒
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 総数は四万三五一五軒で、一軒ごとの職業が書かれている。一番多いのは当然ながら「農業」で二万二三五二軒で、全体の半分強である。その他は「日雇」四五八〇軒、「漁師」一五〇三軒、「御家中」・「御給人」を含めた武家は三七六〇軒である。諸商売では「荒物店」が特に多く一三九〇軒、「小間物店」六七〇軒、「穀物店」五九五軒などである(いずれも休店を含む)。一般的に江戸時代の農業人口は全人口の八割以上を占めたといわれるから、「農業」の割合が少ない感がある。各村の人別帳をみると、在方商業に従事している者は農地の所持・不所持にかかわらず別の家業に分類されており、総括表はいわば専業農家の数字である。「荒物店」なども在方に相当数いるものと思われ、農村でも何らかの商売にかかわっている者が多いことを推測させる。この面改めは続く慶応元年(一八六五)から慶応三年にかけても増減部分を修正する形で継続して行われたようで、調査月はそれぞれ八月である。
 領内の正確な家業等を把握するのは、人と経済の動きを把握することで藩の統制を強化しようとする試みであったが、あくまで人口調査は手段であって目的ではない。寛政の調査では、結果を受けて鑑札を交付し直すなど、諸商売に関する規制が強化されているが(資料近世2No.二六〇)、文久の面改めではそのような処置が講じられた形跡はない。実際には、出稼ぎ在方商売によって経済的利益を得ようとする領民の動きを食い止めることは不可能であった。明治維新により個別領主権による人や物資の移動規制が撤廃され、近代資本主義の時代を迎えるまであと数年を残すのみであった。