弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

通史編2(近世1)

新編弘前市史 通史編2(近世1)

第4章 幕藩体制の動揺と民衆

第三節 蝦夷地警備と化政期の藩政

五 司法制度の整備と変遷

(一)司法制度

刑の執行は判決後であるが、いつでも執行されたわけではない。当藩では、「国日記」によれば幕府に準拠していたが、天四年(一七八四)十一月以降、冬至三日前から冬至(とうじ)まで、および十二月二十八日から翌年正月十二日までは刑が執行されなかった(「国日記」安永四年閏十二月十一日条・寛政四年十一月九日条)。時代の移り変わりとともに歴代将軍の命日などは増えたから、津軽領でも幕末まで歴代藩主の命日などが増えるのは当然で、刑の執行日・停止期間は幕府に準拠しつつも、変更があった。
 刑の執行場所は村端・町端・牢屋の前の御用場(牢屋敷の表門を入って右側にあった)・取上の御仕置場である。村端・町端では追放や鞭刑が主であるが、斬罪獄門などが見せしめとして行われた場合もある。牢屋の前では斬罪死罪などが行われた。いわゆる刑場は弘前城下の東端に位置する取上の御仕置場の一ヵ所だけであった。
 右の御仕置場で刑が執行されるまでのあらましは次のようになっている。天和三年(一六八三)、重罪の容疑で入牢中の清兵衛・武兵衛・十次郎・小左衛門が、牢破りを企てた首謀者であったことを理由にを申し渡された。その際の町中引き廻しの行列は、図178のとおりであって(同前天和三年九月五日条)、四人の罪人の前後を役人が固めていた。

図178.町中引き廻しの行列

 引き廻しのコースは馬喰町の牢屋から亀甲町(かめのこうまち)へ廻し、黒石町(くろいしちょう)(現大浦町(おおうらまち)付近)・東長町(ひがしながまち)・代官町(だいかんちょう)・土手町(どてまち)を通り、土手町大橋(現蓬来橋)東詰南側の高札(こうさつ)場に一日さらしとなっている。ここには番人の町同心が五人ずつ交代で立ち、罪人は竹を組んだみの中に縄で縛られてさらされた。後方の番小屋はむしろを張った仮小屋で、その側には抜き身の槍が三本ずつ二ヵ所に立てられていた。
 そのほか、安永六年(一七七七)、畑(たかはたけ)村(現南津軽郡平賀町)の喜助が、放火の罪で火罪になった時の引き廻しのコースは、牢屋~亀甲町~紺屋町(こんやまち)~袋町(ふくろまち)~誓願寺前(せいがんじまえ)~江戸町(えどまち)(誓願寺に通じる南北に走る道路)~荒(新)町(あらまち)~茂森町(しげもりまち)~茂森横鍛冶町(よこかじまち)(現覚仙町(かくせんちょう))~本町(ほんちょう)通~五丁目(現本町)~親方町(おやかたまち)~土手町~富田町~取上の御仕置場となっている(同前安永六年九月二十六日条)。幕末までに行なわれた引き廻しの行列人数やコースおよびさらしの日数は、同時に引き廻される罪人の数や刑罰の種類によって違いはあるが、基本的には同じ形態であった。引き廻しの行列が御仕置場に到着して執行の準備が整うと、見物人が近くに群がることは禁止され、罪人と親類の者との別れの盃をくみかわすことも厳禁された。いよいよ刑の執行となるが、罪人は西方の岩木山へ真正面でなく北西ぐらいに向かせられ、凄惨な場面が展開する。
 獄門火罪(火あぶりの刑)の執行後は、そのまま三日二夜にわたりさらしとなるが、乞食が二人ずつ昼夜を通して見張りをした。さらしが終れば取り片付けるが、死体は埋め捨てられた。御仕置場の一隅には刑死者のために供養塔が一基建てられたのである。

図179.罪人がさらされた土手町大橋脇の高札場の様子
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