弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

通史編2(近世1)

新編弘前市史 通史編2(近世1)

第4章 幕藩体制の動揺と民衆

第三節 蝦夷地警備と化政期の藩政

三 蝦夷地引き揚げと沿岸警備

(二)沿岸警備と台場の構築

水野忠成を中心とする文政期の幕閣は、海防をゆるめ、その任に当たっていた大名の課役(かやく)軽減を図る方策をとった。しかし、ヨーロッパ諸国・アメリカの捕鯨業が漁場を北太平洋に広げ、主にイギリスの捕鯨船が日本周辺に現れ出したことで、幕府は対外政策の再検討を迫られ、文政八年(一八二五)二月十八日、異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)(無二念打払令(むにねんうちはらいれい))を発令した(前掲『通航一覧』八)。これは、全国いずれの浦方においても、異国船が接近した場合には、有無に及ばず打ち払い、異国人が上陸した場合はからめ取るのも討ち取ってもよく、また実状に合わせて「浦々備手立」を存分に命じるように命じたものであった。この異国船打払令発令と同時に、異国人との接触を禁じ、異国船渡来、または海上にて出会った場合の通報も併せて命じられた。それまでは、文化四年(一八〇七)十二月に出された触書により、ロシア船のみが打ち払いの対象だった(『御触書天保集成』下 一九三七年 岩波書店刊)が、幕府は、イギリス船の横行と異国人との接触によってキリスト教が広まる恐れを理由として、これを異国船全般に拡張したのである。
 この異国船打払令の発令は、幕府が突如海防に関する政策を強硬策に転じたように受け取られるが、実はそうとばかりともいえない。打払令の目的は、異国船を威嚇して日本沿岸に近づけないことにあり、異船を遠ざけることは、ひいては大名負担の軽減という政策にきわめて好都合なものであった。打ち払いによって、異国船拒否の意志が諸外国に徹底すれば、大名の海防に要する負担の必要すらなくなるはずと考えられたのである(前掲『日本歴史大系』3・近世)。
 この異国船打払令に津軽弘前藩がどのように対応したのかをみてみよう。打払令の発令を受けて同藩では、三奉行(郡奉行町奉行勘定奉行)が今後の処置について検討し、藩庁へ申し出ている(「国日記」文政八年四月十九日条)。

図165.異国船打払令への対応を示した国日記記事
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 まず、海岸の防備は、この時期までに大間越深浦金井ヶ沢鰺ヶ沢・十三・小泊・龍浜崎・野崎・蟹田青森に大筒を備え、人員もすでに配置されていたため、これ以上の増加・増員は必要がないとされた。そして、異国船を発見しだい最寄りの村役人町役人に通報し、村役人町役人は手近の大筒方に申し出るように定められ、さらにその情報をその先の大筒設置場所へと申し送り各所で打ち払いの対応をとるという方法が編み出された。
 また、触書の趣旨の周知徹底については、三厩の兵員・浦々の町奉行湊目付にその心得方を申し渡すよう、また大筒掛役・廻船の乗組員へは勘定奉行から同様に申し渡すようにとしている。また高札大間越から野内までの八浦、その外に金井ヶ沢小泊・平舘・油川に立てることとし、作事奉行に命じて立て札を作らせ、設置については八浦がそれぞれの町奉行金井ヶ沢小泊・平舘・油川については郡奉行が責任を持つこととした。また黒石領分に触を伝達し立て札を立てるかについては、三奉行にはわかりかねるとして、決定を藩首脳部にゆだねたが、結局この触を黒石領にも伝えるよう命じられた。
 以上みてきたように、津軽弘前藩異国船の打ち払いについては、従来の沿岸防備の軍事力で対応できるという認識だったのである。