弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

通史編2(近世1)

新編弘前市史 通史編2(近世1)

第4章 幕藩体制の動揺と民衆

第三節 蝦夷地警備と化政期の藩政

二 文化の高直りと黒石藩の成立

(一)高直りと相馬大作事件

このような津軽家の官位昇叙(しょうじょ)に伴う家格の上昇に不満を募らせたのが、盛岡藩下斗米秀之進(しもとまいひでのしん)を中心とした人々であった。世間では、文政四年(一八二一)四月の、下斗米秀之進による藩主津軽寧親狙撃(そげき)未遂事件のことを、相馬大作(そうまだいさく)事件と称した(以下、特に断らない限りは、細井計他『岩手県の歴史』一九九九年 山川出版社刊による)。秀之進は寛政元年(一七八九)、盛岡藩領二郡福岡(にのへぐんふくおか)村(現二市)に生まれた。幼名を来助、名は将真、字を子誠・形水と号した。文化三年、十八歳で江戸に出た彼は幕臣夏目長右衛門に師事、同五年には夏目の紹介で、当時、名剣士として名をはせた和歌山藩士平山行右衛門に入門、四傑の一人といわれた。平山のもとで武道に精進するとともに、広く世界情勢を学んで帰国し、郷里の福岡に講武場兵聖閣(へいせいかく)を設けて平山流武術を教授した。さらに秀之進は、蝦夷地の視察を通して北方警備の重要性を痛感していた。

図162.相馬大作画像

 文政三年、盛岡藩主利敬(としたか)が三十九歳の若さで世を去った。津軽家に対する積年の鬱憤(うっぷん)が彼の死を早めたという。遺領を継いだ吉次郎(利用(としもち))はまだ十四歳で無位無官であった。それに対して、弘前藩藩主津軽寧親は従四位下侍従に叙任されていた。秀之進はこのことに不満を抱き、寧親に果たし状を送って辞官隠居を勧め、それが聞き入れられないときには江戸城に登城する前か、もしくは参勤交代の途中など、チャンスをうかがって寧親を暗殺しようとした。
 秀之進は文政四年、江戸から帰国途中の寧親を秋田藩領白沢(しらさわ)駅(現秋田県大館市)付近で狙撃しようとしたが、同行した鍛冶喜七・大吉両人の密告により未遂に終わった。寧親は、大館を通過せず、大間越(おおまごし)(現西津軽郡岩崎村)経由で帰国したのである(資料近世2No.九八)。秀之進は累を他に及ぼすことを避けるため、妻とともに出奔して江戸に上り、相馬大作と名を変えて道場を開いていたが、同年十月、幕吏に捕えられ、翌年八月、関良助とともに獄門に処せられた(同前No.一〇〇)。
 なお南部吉次郎は、この騒ぎのさなかの文政四年(一八二一)十二月、従四位下になり、大膳大夫に任ぜられ、位では津軽寧親と並んだ。津軽家では、一時的に南部家より官位がくなり、寧親のあとに藩主となった津軽信順(のぶゆき)は、田安斉匡(たやすなりまさ)の娘を室としていることもあってか、文政十年三月に将軍家斉(いえなり)の太政大臣昇進、世子家慶(いえよし)の従一位(じゅいちい)昇叙の式が行われたとき、轅(ながえ)に乗って登城して人々の耳目を驚かせた。四月に入って、許可なくして轅を用いたのは不束(ふつつか)であるとして信順は逼塞(ひっそく)を命ぜられ、これをとがめなかった大目付目付小人目付らは、お目見(めみ)え差し控えや押し込めに処せられた。
 津軽家では、轅は寧親のときに近衛家から贈られたものであることや、四位になれば束帯のときには轅を用いて差し支えないものと考えていたと答えたが、文化八年(一八一一)に寧親が轅の使用方を幕府に伺いを立てて不許可になった先例もあり、津軽家の手落ちはらかであった(児玉幸多『日本の歴史 一八 大名』一九七五年 小学館刊)。このような事情から津軽家は、逼塞(ひっそく)処分に追い込まれたのであり、結果的には秀之進の目的は達せられたということになろうか。

図163.轅の図
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