弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

通史編2(近世1)

新編弘前市史 通史編2(近世1)

第4章 幕藩体制の動揺と民衆

第三節 蝦夷地警備と化政期の藩政

一 蝦夷地直轄下の警備と民衆

(三)民衆負担の増大と一揆

民次郎一揆やそれに先立つ強訴の原因については、いずれの記録もほぼ同様の事柄をあげている。『記類』文化十年十一月二十五日条には、蝦夷地警備に伴う「公儀方人馬賃銭、松前郷夫出銭」で農村は疲弊し、さらに「開発方」への動員や「地面調方」と「鍬伸地広改(くわのびちひろあらため)」(開発後も年貢未納となっている土地の調査)による増徴によって、百姓負担が三〇年以前の三倍になっていたことが記されている。「大平家日記」(同前No.五七)においても、今度の各地の騒動の原因は、単に今年が凶作であったからではなく、昨年は豊作であり、したがって百姓らが食料に窮していたわけではないとして、同様の原因を記している。同日記ではさらに、「開発方」「地面調方」「鍬延」「貞享調」などが百姓の負担増につながっているとし、特に開発については名目ばかりで実がなく、「新規之堤処々に築き、山を穿(うが)ち、用水を引き、堰を掘り、高田を七寸・八寸と申し掘候得共、行末迄之利用も少く候、右人夫日々十万之人夫も足らす」として、百姓の労役の負担にもかかわらず、何ら見返りのない藩の政策が行われていたことが記されている。前述した民衆負担増の内容がそのまま強訴一揆の要因となっていたことが知られる。その上で、この年の不作が引き金となったのである。
 強訴一揆の要求は、検見の実施であるが、基本的には年貢上納御免の措置の要求であった。結果として一部認められたようであり、「秘苑」文化十年十月条によれば、四分一厘の引き方であり、四二ヵ村が年貢御免となったという。民次郎一揆のみの成果ではなく、その前段階の諸組の動向かあったからこその措置といえよう。同年閏十一月二十五日の御触には「当作不熟故、過分之御検見引ニ付」(「秘苑」文化十年閏十一月二十五日条)とある。多くの百姓が徒党を組んで要求したことによって「過分」の検見引を藩に実行させえたのである。
 さて、このように、村々が連帯して行動を起こしたということは、村々が連帯しうる共通の、しかも切迫した問題がそこにあったからである。それが蝦夷地警備であった。このことは逆に、これらの警備を実質的に支えていたのは一般の民衆であり、その多くの負担と犠牲のもとに、蝦夷地警備と沿岸警備が遂行されていたことを物語っている。ロシアの南下に代表される「外圧(がいあつ)」やそれに伴う蝦夷地直轄化政策は、民衆レベルまで直接に影響を与えていたのである。