弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

通史編2(近世1)

新編弘前市史 通史編2(近世1)

第4章 幕藩体制の動揺と民衆

第三節 蝦夷地警備と化政期の藩政

一 蝦夷地直轄下の警備と民衆

(三)民衆負担の増大と一揆

民衆負担増の要因は、これまでもみてきたように、蝦夷地警備をどのように継続化していくかという点に、ほぼ絞り込むことができる。以下、いくつかの要因を挙げ、民衆の困窮状況をみていくことにする。
 寛政十一年、東蝦夷地が当面七ヵ年間の仮上知とされると、松前蝦夷地への通行量が増加し、街道沿いの村々は助郷役(すけごうやく)によって負担が増大した。松前蝦夷地への往来は原則として三厩(みんまや)(現東津軽郡三厩村)からであり、通行筋に当たる油川(あぶらかわ)・後潟(うしろがた)両組の村々は、幕府や藩の警衛隊が往来するたびに、輸送用の馬や、それに伴う労力を提供しなくてはならなくなった。寛政十二年(一八〇〇)七月、郡奉行は次のような申し出を行っている(資料近世2No.一六三)。油川・後潟両組の村々は、近年の蝦夷地警備にかかわって人馬を徴発されることが多い。特に通り筋の油川(現青森市)から三厩までの村々は、そのために農作業もままならない状態であり、田畑も荒れ地がちとなっている。困窮した者のなかには、内々で松前に雇われている者もあり、このような状況になってしまえば、幕府御用も差し支えてしまう。これまでは百姓からの申し出に応じて、そのつど手当米を与えていたが、それでは、当座困窮した百姓のみの救済であり、百姓全体の助けとはならない。そこで、油川村から増川村(現東津軽郡三厩村)までの年貢を、東蝦夷地が上知されている期間中だけでも一割減免してほしい、という申し出である。藩は、六〇〇俵を無利息で貸し付けることでこれに対処している。しかし、幕府の蝦夷地政策はその後、東蝦夷地のみならず、松前蝦夷地一円を直轄地としていくのであり、助郷負担は、ますます増していったのである。
 このほか、沿岸警備においても、台場の築造や陣屋建設に伴う労力負担や陣屋詰めの藩士たちへの賄いの提供が、沿岸の村々に課せられており、「自然農業行届不申」(「国日記」寛政十三年二月九日条)という状況が、一般化してきていたのである。
 次に蝦夷地への百姓の動員の問題が挙げられる。既に、藩士土着策の主要な目的の一つである従者確保について触れたところであるが、百姓郷夫(ごうふ)として動員させられていたのであり、足軽の多くは百姓町人職人たちであった。寛政十一年の東蝦夷地仮上知の際に当藩が用意した足軽五〇〇人の大半は町人職人郷夫であり、無苗字であることが不都合であることから、以後職人郷夫といった名目をやめ、勤番中は足軽として苗字を与えているのは、このことをよく示している(資料近世2No.一六四)。また、なぜ蝦夷地直轄直後の動員が純粋な軍事動員ではなく、諸工人・百姓らを多く含んだものであったかについても既に述べたとおりである。蝦夷地直轄化を契機に、勤番所や道路を普請し、幕府による蝦夷地支配体制の整備を図ろうとしたからであり、文化元年(一八〇四)~同三年までのシツカリ~レブンゲ間の新道普請などは、その最たるものであった。また、文化四年から翌年にかけてシヤリ(現北海道斜里郡斜里町)で越冬した勤番人約一〇〇人の内、多くが「浮腫病(ふしゅびょう)」で死亡するが、死亡者の約七割が、強制的に動員された百姓町人職人たちであったことも、よく知られている(資料近世2No.一四七)。
 このような蝦夷地への百姓の動員は、労働力不足となって直接的に農耕に影響を与えるとともに、動員されないまでも郷夫出銭として諸経費が村々にかかってくるのであり、蝦夷地警備は恒常的に民衆に負担を強いるものであった。蝦夷地警備を支えた人々の大半は百姓町人から動員された一般民衆であり、彼らの犠牲の上に成り立っていたのである。この問題は、特定の地域にかたよらず、津軽領全域の民衆にかかわるものであった。後述する百姓一揆強訴が広域化したのは、ここに要因があった。
 蝦夷地警備のかかわりでは、文化二年(一八〇五)と同五年の津軽弘前藩直(たかなお)りも、民衆負担増の要因として見逃せない。高直りによって、七万石、さらに一〇万石となっていくが、それに伴う領地の加増がないことから、軍役負担の増加によって出費はますます増大した。加えて文化七年から翌年にかけての弘前城の櫓普請(やぐらふしん)では、百姓町人が多く駆り出され、民衆の困窮は増幅する一方であった(本節二)。
 沿岸警備については本章第五節二で詳しく述べるが、文化四年五月から「外浜固(そとがはまがため)」として三厩足軽を配置したのをはじめ、青森鰺ヶ沢深浦・十三にも固人数を配置した。ここにも多くの百姓町人が動員されていたのである。
 蝦夷地警備による労働力不足と負担増のなか、藩は、藩士土着策の失敗を経て、積極的な廃田開発新田開発を行った(本章第二節二(三)および本節四(一)参照)。その成果にはみるべきものがあったが、開発はあくまでも百姓によるものであり、加重負担となって百姓にのしかかっていた。加えて、年貢収納を増やすための隠田(おんでん)や縄伸(なわの)びの地の摘発が、藩によって組織的に行われた。文化十年二月十七日には、地面調方(じめんしらべかた)役人が仰せ付けられ、「貞享調(じょうきょうしらべ)」と称して、貞享検地以来の復興田・開発田のなかに、隠田畑がないかの調査が行われている(『記類』)。百姓にとって、その摘発は直接増税につながるものであり、しかも新田のみならず古田にまで及ぶ可能性を含むことから、弘前周辺の古村においては、これまでになく警戒を強めている。
 さて、以上のような民衆負担の増加状況に拍車をかけたのが文化十年の凶作であった。この年は田植え過ぎのころから「東風(やませ)」がたびたび吹き、出穂も遅れていた。しかし、凶作の兆候が現れ出したにもかかわらず、藩が何の手だても講じなかったことから、百姓らは収穫期の九月に入ると、一斉に立ち上がった。