新編弘前市史 通史編2(近世1)
第4章 幕藩体制の動揺と民衆
第三節 蝦夷地警備と化政期の藩政
一 蝦夷地直轄下の警備と民衆
(二)対外危機意識の表出
津軽弘前藩は、藩体制の危機を回避する願望を込めて祈祷(きとう)を寺社に命じている。その祈祷を行うことが寺社の役務(やくむ)であったが、それが最も顕著に遂行されたのが蝦夷地警備に関するものであった。
表43・44は弘前八幡宮文書(弘前大学附属図書館蔵 元禄六年~明治四十一年)にみられる祈祷内容とその回数を、元禄六年(一六九三)~天明八年(一七八八)までと、寛政元年(一七八九)~明治四年(一八七一)までに分けて示したものである。弘前八幡宮(弘前市八幡町一丁目)は慶長十七年(一六一二)、二代藩主信枚(のぶひら)による創建で、社領三〇石。郡中社人(ぐんちゅうしゃにん)と諸社支配を管掌し、弘前鎮護の神社として尊崇された。その重要な社務内容の一つに藩庁から命じられるさまざまな祈祷と古懸不動尊出汗(こがけふどうそんしゅっかん)の際の神楽奉納(かぐらほうのう)があった。
この二つの表の比較から読みとれるのは、寛政元年以降の祈祷内容に、蝦夷地渡海安全祈祷と国家安全祈祷が加わったことと、廻船海上無難祈祷が皆無に等しい状況になったということである。ここでいう「国家」とは津軽弘前藩を指しており、対外危機が直接的に藩国家の危機認識につながっていることがわかる(長谷川成一「近世北奥大名と寺社」『日本近世史論叢』上巻 一九八四年 吉川弘文館刊)。前節で述べたように、当藩の蝦夷地出兵は、寛政元年のクナシリ・メナシの戦い、同四年のラクスマン来航による派兵を経て、同九年以降蝦夷地常駐を強制される勤番体制が敷かれている。これに伴い、弘前八幡宮の祈祷内容にもこの動向が反映したのである。特に蝦夷地警備が本格的に始動した寛政九年の祈祷ではその意味合いが大きく変化した。同年十月二十四日の「公私自分留」(資料近世2No.一五八)によれば、当初通常の祈祷であったものが「重キ御祈祷」に変化したことがわかる。「六年以前子ノ重キ御祈祷」と同様の祈祷を命じられているのであるが、それは、寛政三年(子は亥の誤記)八代藩主信明卒去の際に執行された祈祷を指しており、ここに蝦夷地渡海安全祈祷は藩主平癒(へいゆ)祈祷と同格の重い祈祷となったのである。「国日記」同十月三十日条にはその結果が記されている(資料近世2No.一五九)。そして勤番体制が本格化するなかで、廻船海上無難祈祷が警備藩士に対する蝦夷地渡海安全祈祷に取って代わられることになったとみることができよう。 国家安全祈祷についても蝦夷地警備と無関係ではなく、寛政四年のラクスマン来航に伴う出兵を契機に執行され、同年以降恒常的に行われている。 |