弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

通史編2(近世1)

新編弘前市史 通史編2(近世1)

第4章 幕藩体制の動揺と民衆

第二節 対外危機と寛政改革

二 寛政改革の実施

(四)改革の諸政策と藩士土着政策

倹約令・風俗矯正・綱紀粛正などは近世を通して一貫してとられた政策であり、藩士土着策の実施においても大いにその実効が期待されたことは、既に改革意見書のところでみたとおりである。ただし、衣食住に関する規定については、この時期、特に仮子との関係において注目される。
 藩士土着によって、藩は給人に対して、その百姓と作人を確定していくことになるが、それには百姓の階層性を確に把握する必要があった。つまり、開発労働力不足の補充が、給人の恣意によって給地を越えて居村・近村の蔵百姓へと及ぶ可能性があったからであり、したがって労働力供給源としての仮子の存在を確にする必要があった。この意味で、寛政二年二月二十九日の衣服規定(『中里町誌』全)において「仮子の儀は短袷等決而着用不致候様」として、仮子とそれ以外を区別していることは、それ以前にこのような規定がないことから、その違いは土着対策期か否かの違いとして解釈される。つまり、身上に応じた生活の徹底による農民支配の強化とともに、労働力としての村内における仮子の位置づけが土着によって必要とされたためである。寛政二年の土着令(資料近世2No.七二)において、ことさら仮子の問題が取り上げられたのはこのためである。
 ところで、仮子を含めたこのような人別把握については前述したとおりであるが、土地把握についても当然のことながら実施されている。それは天飢饉の影響を強く受けての政策であり、天七年(一七八七)から、寛政二年にかけて検地田畑生荒調査として実施されている(『記類』天七年八月四日条・同八年四月一日条、資料近世2No.二〇・二三)。土着策とのかかわりは本項(二)で既に触れたように、給人の地方割に当たって荒れ地と耕作可能な「生地」の総合的調整が必要とされたからである。
 飢饉とのかかわりで取り上げられるのが備荒貯蓄(びこうちょちく)制度である。ただし制度自体はこれ以前にもあったのであり、また、後の天保飢饉においても整備が図られていくことから、藩の寛政改革独自のものとしては位置づけがたいが、幕府が寛政改革において奨励したことから、諸藩もそれに従う形で実施したものである。寛政二年十月、藩は百姓一〇石につき米三斗分の籾五斗を各組ごとに貯えて郷蔵(ごうくら)に納めさせることとし、同五、六年までにはおおむね完了したとされている(『記類』寛政二年十月条)。町方にもその制度を広げ、同三年十月、町人に籾買い入れのための銭を一ごとに上中下に段階をつけて徴収し、四〇貫目を集めて籾を買い、本町一丁目の名主会所屋敷に建てた籾蔵に納めている(同前寛政三年十月二十八日条)。その後寛政六年には三之丸・亀甲町・大工町にも籾蔵(もみぐら)が建てられ(同前寛政六年条)、同九年三月二十二日からは三之丸の籾蔵が五ヵ所となっている。この時藩は三〇〇〇両を出して在方から籾を買い入れたとされている(同前寛政九年三月二十二日条)。果たして、藩士土着策が進行する中で、また人返し家業統制が押し進められる中で、この備荒貯蓄がスムーズに進んだかについては、その徴収体制を含めて今後再検討の余地がある。いずれにせよ、基本的には百姓町人からの籾や銭の徴収によって郷蔵を維持したのであり、民衆の負担増に支えられた政策には変わりなかった。

図157.中里町中里の郷蔵(昭和55年撮影)

 さて、以上のような農村の全体的な把握の中で、藩士土着策に対応すべく、大庄屋(おおじょうや)制や代官制度の手直しも行われた。代官制度の手直しは、天七年から寛政元年にかけて行われた大庄屋制の失敗を受け、土着策の遂行を円滑にするために行われたものであるが、その内容は、寛政六年にこれまで各組に置いた代官を、大組は二~三組、小組は四~六組を単位として置いた(『平山日記』寛政六年条)ことと、寛政九年十一月に代官の人材をこれまでの「御目見得以下軽キ者」ではなく「御目見得以上之席」から選出した(「要記秘鑑郡奉行被仰出之部)ことの二点である。この時期の代官の機能は、在宅藩士の不正に対する「村役懸合(かけあい)」の処理(「地方割御川留」寛政八年二月四日条 弘図古)と、勤仕遂行における諸役所と土着藩士の仲介役(「要記秘鑑」御家中在宅御触)の二点に集約される。したがって土着藩士との接触において身分的な問題からくる不都合を取り除いたものであった。
 幕府の寛政改革との対応で取り上げられるものに、人材の登用と藩校稽古館(けいこかん)」の設立がある。人材の登用については、八代藩主意見書提出を奨励したことや「寛政七人衆」の登用に示されるものであり、そのことによって藩士土着策が推進されたことはこれまで述べてきたとおりである。藩校の内容については第八章第一節を参照いただきたいが、藩校家臣団の統制に内側から力があったという点を考えるとき、藩士土着策藩校の設立とは強く結びついているといえよう。
 改革意見書において、毛内宜応(もうないぎおう)は藩士の「常之心」を強調した。赤石・菊池は、藩士の因循姑息が三民に及ぶことによって、藩の一致団結した政策がとりえないことを指摘した。この場合、毛内は藩校の設立を主張している。赤石・菊池は実際にその設立を意図してはいないが、蝦夷地擾乱による危機感を背景としている点に特性がある。藩は松前において、藩士に対して儒書・兵書の講釈を極めて厳重に行っている(寛政九年「松前箱館御固御用留帳」弘図古)。これは、赤石・菊池の考えが、具体的に蝦夷地警備において結実したものである。
 そこで、これら家臣団統制土着策の中に位置づけると、次のようになる。まず毛内に代表される意見は、藩士の城下集住による弊害への対応としてとらえられる点において、土着策断行の一契機となった。これに対し、蝦夷地警備という軍役遂行のためには、単にこれまでの弊害を取り除くだけにとどまらず、家臣団の結束を形成しなくてはならない。したがって土着とのかかわりでみるとき、百姓との交わりが一層藩士の行状を悪化させている点、および藩士の動員に支障をきたすという点において、土着がこの家臣団結束の阻止要因として働いたことになる。ここに、毛内によって唱えられた、百姓と生活環境をともにすることによる藩士個人としての錬磨は、支配階級として危機状況を乗り切るために、藩校の場へと展開したのである。この意味では、土着策の失敗が、藩校の内容を規定していったともいえるのである。
 以上、改革の諸政策と藩士土着策とのかかわりについてみてきたが、いずれも土着策と強い関連性を持っていたことが示された。これはとりもなおさず、土着策が天飢饉後の状況を踏まえ、農村対策・都市対策、そして蝦夷地警備という軍役を遂行するための総合政策として打ち出されたものであったからである。