弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

通史編2(近世1)

新編弘前市史 通史編2(近世1)

第4章 幕藩体制の動揺と民衆

第二節 対外危機と寛政改革

二 寛政改革の実施

(二)藩士土着政策の展開

次に、土着対象地、在宅分布をみていくことにする。表38は先の「御家中在宅之族村寄」を組ごとに在宅者数と在宅村数を示したものであり、表39はそのうち広田組の状況を示したものである。表38を分布図として示したのが図155である。一見して弘前周辺が土着地となっていることがわかる。このことから、以下の三点を指摘できる。
表38 在宅者数と在宅村数
庄名組 名在宅者数在宅村数文化10年
村 数
図155
の番号


赤 石15(人)7(村)53(村)
藤 代84  18  54  
駒 越63  24  46  
高 杉76  17  31  


大光寺0  0  17  
尾 崎0  0  17  
猿 賀0  0  19  
大 鰐26  11  27  
和 徳100  14  18  
堀 越78  16  17  


田舎館53  14  19  
藤 崎42  11  16  
柏 木20  10  17  
常 盤39  14  19  
増 館28  12  16  
浪 岡37  9  22  
赤 田36  16  31  
広 田14  10  29  
広 須9  7  62  
飯 詰20  9  28  
金 木11  3  25  
横 内6  6  45  
浦 町14  9  22  
油 川8  5  26  
後 潟4  4  40  
木作新田11  9  79  
俵元新田2  2  8  
796人 257ヵ村793ヵ村
注)寛政7年3月「御家中在宅之族村寄」(弘前市立図書館蔵)より作成。

表39 寛政8年広田組の内容
村 数28ヵ村 
郷 士3人 
手 代2人 
庄 屋11人 
五人組29人 
在宅者14軒 
 数782軒 内,本家664軒 借地57軒 借家61軒
此訳,百姓320軒 高無467軒
田 8,804石37 内,給地直納246石76( 2.8%)
  荒  地785石29(39.5%)
畑 1,344石586内,給地直納 28石64( 2.1%)
  荒  地530石98(39.5%)
田畑合10,148石956内,給地直納 275石40 ( 2.7%)
  荒  地1,316石286(13.0%)
注)平山日記』より作成。数値は史料記載値。


図155.在宅者と在宅村の分布

(1)天飢饉による諸組作毛(さくもう)状況(表40)と比較した場合、比較的作毛率のい、したがって荒れ地の少ない組への土着が多いこと。つまり土着の目的の一つとされる廃田開発とは、矛盾した在宅分布となっている。

表40 天3年諸組作毛状況
庄名組名


大光寺30%40%
猿賀30 40 
尾崎20 30 
大鰐20 30 
和徳20 30 
堀越20 30 


藤代10 40 
高杉10 40 
駒越10 20 
赤石10 10 








田舎館10 20 
赤田10 20 
増館10 10 
藤崎10 10 
柏木10 10 
常盤10 10 
広田10 10 
浪岡10 10 
浦町10 10 
横内10 10 
飯詰
金木
俵元
広須
木造
油川
後潟
注)3年9月16日郡奉行調より作成(『津軽歴代記類』所収)。

(2)右の点と関連して、給地割に関して極めて藩士の意向を入れたものとなっていること。つまり、分散した給地のうち、石高の多い村への在宅を許可し、他に分散している分は、その周辺に生産性の蔵入地を代地として与えるという形で、給地の集中を図っている(「要記秘鑑(御家中在宅御触)」寛政四年八月二十一日・同年九月九日条)。在宅所の城下周辺への集中は、藩士給地決定権を大幅に認め、しかも耕作可能地を中心とした地方割の結果ということになる。したがって、給地割自体は家中成り立ちを基本としたものであったといえる。

(3)このことを、給地からの直収納という点からみた場合、飢饉被害の少ない農村への土着は、収取度の大きい、したがって藩士の財政拡大に都合のよい農村を設定したことになる。これは(2)と表裏の関係にある。

 以上、弘前城下周辺への在宅集中は、家中成り立ちの側面から企図されたものとすることができる。なお(3)とのかかわりからすれば、当時の農村状況が、それを可能としているという藩の認識があったことも見逃せない。つまり、藩士土着策は、当時の在方が活況を呈するようになっていたにもかかわらず、ただ藩士のみが困窮している状況(『平山日記』天七年条)と、在方からの収取が思うにまかせないという状況を反映していたのである。在宅地を弘前周辺の耕作可能地の多い古村に集中させたのは、そのためであった。農村からの収取が可能であることが、藩士土着策展開の前提だったのである。
 藩士を農村に居住させ、さらに分散した給地を集中させたことは、給人地方支配を実質的に拡大したことになり、特に年貢収納において強力に発動されるために、より密着した、より強制力をもったものとして農民支配の貫徹が図られることとなる。したがって土着策の究極は、農村からの収取強化に帰着する。切米取家臣金給家臣の場合も、当初は家内労働力による荒れ地開発が基本ではあったが、これも将来知行取家臣への移行が確に企図されていたことから、結局は知行取家臣と同様であった。家中成り立ちの経済的基盤は、あくまでも農村からの収取に求められていたのである。在宅地の選定はこのことが前提であった。そして、百姓との縁組みを許可したり、家中不釣り合いの縁組みを許可した(資料近世2No.七八)のは、藩士たちを在宅地に居住させるための具体的な方策であったといえるのである。