弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

通史編2(近世1)

新編弘前市史 通史編2(近世1)

第4章 幕藩体制の動揺と民衆

第一節 藩体制の動揺

三 乳井貢の登用と宝暦改革

(三)改革の諸政策とその展開

乳井貢を中心とする宝暦改革は、これまでみてきたように、藩財政の再建を第一の目的として、領内における商業統制・通貨統制を図ることによって借財の整理をし、また綱紀粛正・倹約奨励などによって藩政全体の引き締めを図ろうとしたものであった。しかし、この過程で発行された「標符(通帳)」によって領内の経済・流通が混乱したことから、改革は挫折することになる。標符(通帳)の流通は宝暦七年(一七五七)七月一日をもって停止されたが、これに先立つ同年六月二十三日、標符発行をはじめとする経済政策の推進者であった運送役司取足羽次郎三郎に対し、一二ヵ条にわたる「御咎め」を申し渡し、町預かりとした(同前No.九四四)。こうして、標符(通帳)発行に伴って定められた貸借無差別令銀遣いも廃止され、すべて改革以前に復帰した。また庄屋五人組も復活した。宝暦三年に始まった改革は、わずか六年で終焉を迎え、同八年中にほぼ混乱は回復したことになる(同前No.九四六~九六一)。なお、標符(通帳)が停止される直前の同七年三月、経済的混乱のただ中にもかかわらず、乳井貢は新知千石を与えられ、家老席に列せられている。その意味では、急転直下の改革劇の幕引きであった。
 ところで、乳井は宝暦七年十月十七日、上して近衛家を訪れている(「近衛家雑事日記」陽文庫蔵)。恐らく巻き返しを図って近衛家を頼ったものと考えられるが、国元においても種々取りざたされている(同前No.九五二)。結局、乳井は上方から帰った翌日の同八年三月十七日退役を命じられ、知行・家屋敷を召し上げられて、息子に御預けとなった。和五年(一七六八)に蟄居を解かれ、安永七年(一七七八)再度出仕を許されて者頭格(ものがしらかく)勘定奉行に任命されたものの、その二年後には再び蟄居を命じられ、今度は川原平(かわらたい)村(現中津軽郡西目屋村川原平)に幽閉されることとなった。天四年(一七八四)、再び許されて生涯五人扶持を与えられ、弘前城下塩飽(しわく)町(現塩分(しおわけ)町)で余生を終えた。

図145.近衛家雑事日記乳井貢来訪の記事

 なお、乳井は宝暦六年八月二十六日、外浜巡視に際して三厩(みんまや)の蝦夷(えぞ)、宇鉄(うてつ)の蝦夷を「人間」に取り立てたとされている(資料近世1No.九三五)。しかし「国日記」をはじめとする藩政史料にその記録が見いだせないことから、乳井の独断で「犾(えぞ)」の身分を変更して百姓とし、「犾」としての政治支配を廃止したとは考えがたい点がある。ただ、同時期、乳井は穢多(えた)を町人身分とすることと引き換えに税の徴収を行ったことが知られており、それと同一のものとみることもできる。同化によって身分の上昇がなされ、いわゆる「差別」からの解放と引き換えに、これまで藩から与えられていた漁業や木材伐採に関する特権を喪失するとともに、新たに「百姓」としての負担を義務づけられることとなったのである。乳井の犾同化政策の背景には、このような租税徴収の一面があったのであり、さらにそれを導いた大きな要因は、飢饉藩財政の窮乏があったものと考えられる(浪川健治『近世日本と北方社会』一九九二年 三省堂刊)。

図146.津軽徧覧日記の蝦夷部分

 さて、改革は藩財政の再建という意味では失敗に帰したが、標符(通帳)をはじめとする経済政策の前提として実施された諸調査は、改革の成果としてとらえることができよう。弘前城下における町屋敷調査の結果は「宝暦六年弘前町惣屋鋪改大帳」に、武家屋敷は「宝暦五年御家中屋鋪改大帳」と「御家中屋鋪建家図」として結実した(弘図津)。宝暦四年から始まった在方の田畑調査は同八年に終了し、百姓ごとに「小帳」が渡された。これにより領内の総石高は三〇万五〇八〇石一斗二升七合と確定した(『記類』)。同様に各藩士に対しても新たな知行帳が、宝暦十年に交付された。田畑調査に基づいて異同を訂正したものであった(「国日記」宝暦十年六月四日条)。藩政の基盤がこの段階で帳簿にまとめられたことは重要であり、以後の藩政遂行に大きく寄与したことは否定できない。

図147.宝暦6年弘前町惣屋鋪改大帳
目録を見る 精細画像で見る


図148.宝暦5年御家中屋鋪改大帳
目録を見る 精細画像で見る

 このほか、宝暦飢饉における被害を最小限にとどめたことも忘れてはならない。この点については、本節一を参照されたい。