弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

通史編2(近世1)

新編弘前市史 通史編2(近世1)

第4章 幕藩体制の動揺と民衆

第一節 藩体制の動揺

三 乳井貢の登用と宝暦改革

(三)改革の諸政策とその展開

これまでみてきたように、藩は標符によって正金銀や米穀をはじめとする諸物資を吸収し、これをもって藩財政の再建を実現しようとした。また、一家業に限定された商家に、各家から上納した商品が家業に応じて分配され、その売買を標符への記帳によって行った。この物資の再配分は倹約の実を上げるための措置でもあった。つまり、標符の発行は、領内からの金銀・米穀・諸物資の徹底した収奪であり、収奪したそれらの配分と流通、そして販売と購入は、領内外を問わず、藩と実務を執る運送役商人の手に掌握され、領内は厳しい経済統制下に置かれることとなった。これらの意味するところは、窮乏した藩財政の補填に、領内から収奪した金銀・米穀・諸物資が充てられるということであり、必然的に領内の金銀・米穀・諸物資は領外に流れ、領内の物資不足を招いた。そして、商人たちへの配給商品の不足は、領民への物資供給を滞らせ、また正金銀の入手のための売り渋りを助長した。「上は勝、下は次第に詰将棋、何(イツ)か標符ハ金となるやら」という狂歌は、標符によって藩庫が潤ったにもかかわらず、次第に尻すぼみとなっていく領民の生活を、皮肉を込めて詠(うた)ったものである(資料近世1No.九三七)。
 多くの史料が示す当時の混乱した経済状況は、おおむね次のようなものであった。標符発行後の一、二ヵ月は各店に行けば品物も相応に標符で購入できた。しかし、しだいに商品が不足して売り切れ同然となり、また、当初藩が約束した一割の利潤も得られない状況となったことから、商家は商品を隠して、正金銀銭でなければ売らないようになってしまった。生活物資に困窮した領民たちは、未に各店に並び、ようやく日暮れに調達できるような状況であった。特に塩・味噌・たばこの類はひどく、購入の順番を争う様子は言語に堪えないものであった。領内の米も不足し、町・在は一日二合半の売り米のみであり、もちろん魚類などは人々の手に入ることはなかった。そのため、闇市(やみいち)のような「正銭市(せいせんいち)」が、町はずれや小路、近在で開かれ、魚類その他の必需品が正銭で売買された。いわゆる隠し売りであり、そこでの口論・喧嘩は絶えなかった。本質的に信用貨幣として通用するはずの標符への信用は落ちる一方であった。特に農村では、振り売りが制限されて商品の入手が困難なうえ、弘前でも右のような状態であることから、米穀・物資の欠乏は甚だしく、農民の標符はほとんど通用することはなかった。また飯料や翌年の種籾も取り上げられたにもかかわらず、手当も貸し出しもなく、農村では「飢渇に及ぶ者」も出るようになった。庶民ほどではないものの、俸禄を標符で渡された藩士の生活もしだいに逼迫(ひっぱく)し、武具の類を売り払うこともみられるようになり、家中町・在とも諸人の難儀は凶年以上となった。物資不足のため、その売買は必然的に少額となり「小通」が通用するようになったことから、両替方での書き替えがしだいに増加し、一日に一四〇〇通を数えることもあり、役方の混乱も増した。混乱に乗じて、不正な標符も横行した。文字や判を巧みに偽造して作った偽標符や、極めて信頼性がく商品をすぐ購入できる「別段標符」が出回った。しかも、藩はこの不正に対して処罰さえできなかった。
 以上が、諸史料にみられる当時の状況である。こうして、経済と流通の混乱、そして家中町・在の生活が日増しに苦しくなっていく状況の中で、宝暦七年(一七五七)七月一日をもって標符の通用が停止されることになったのである(同前No.九四六)。
 ところで、標符通用停止後、貸借無差別令をはじめとして、知行制地方知行となり、制度的にはすぐに元に戻されたが、経済・流通面においても、その混乱が大きかった割には回復が早かった。その理由として、標符の発行が準備不足なのに加え、短期間の通用であったことや、政策自体が乳井の独特な思想に基づくものであり、廃止すればその影響も最小限で済むという性格のものであったことが挙げられる。しかし一番大きな理由は、標符とともに、限定付きではあるが、正銭の通用が認められていたことであった。家中俸禄高の十分の一は正銭渡しであり(資料近世1No.九三七)、他の「米銭并一切諸色」も十分の一は正銭渡しであった(『記類』)。「正銭市」の存在や、正銭での購入が優先されていたことからもうかがわれるように、経済の根底には貨幣による流通があったのであり、標符によってそれを払拭することはできなかったのである。さらに、上納すべき金銀米銭を持たない「小商人ならひニ職人」には標符が与えられず、標符の流通範から除外されていた(資料近世1No.九三七)。もちろん職人や日雇取りの賃銭は標符によって渡されることになっており、正銭での手取りはなかったのであるが、このことは標符発行の見返りとしての財産没収が、領内の有力百姓商人を想定していたことを示しており、領民全体への標符の定着化は、当初の段階では政策的には考慮されていなかった。逆にまた、そこまで行く前に標符の通用が停止されたともいえよう。いずれにせよ、以上のような状況にあったことが、経済的混乱の早期回復を可能にしたのであった。